架空カンパニーあしもとについて

架空カンパニー「あしもと」について書く。

メンバーのたつる氏については以前に文を書いている。

が、今日、初めてきちんと架空カンパニーあしもとのサイトを見て、もう少し書きたくなった。

私は人の思想が大好きなので

私は人の思想が大好きなので(ほんとに?)、
いや、作品の解釈に対してその作家のスタンスは(私にとっては)無視できない位置を占めているので、
まずはそこから引いてこよう。

架空カンパニーあしもと/ghost_company Ashimoto とは
「意思はあしもとに宿る、物語はあしもとから始まる」を掲げ、靴を扱う作品を発表するジャグリングカンパニー。

ジャグリングは物とのコミュニケーションを成立させる、⽇常から半歩外れた挙動である。
その物体と⾝体の奇怪な関係性を利用し、⼈々の記憶への侵入を試みる。
現在は物とのコミュニケーションが記憶に及ぼす影響に関心を抱き、靴を中心に日用品を用いたジャグリングを行う。

あと、たつる氏から「なぜ日用品なのか」という点について、コメントをもらえた。


なぜ靴なのか

なぜ靴なのか、の答えは、『意思はあしもとに宿る、物語はあしもとから始まる』にあるのだろう。
が、少し読み解かねばならないようだ。

足元(/足下)とは
①「足元が寒い」と言えば、足の先の身体の部位を意味するし(legじゃなくてfootね。足首から先の足。)、
②「足元にお気を付けください」と言えば、足裏が踏んでいる地点・その周辺の場所を意味するし、
③「足元がおぼつかない」と言えば、歩き方、足の運び方を意味する。

「ある人がどこへ歩き出すか・向かうか」というのは、その人の意思の表れとみることができるし、その道行きを物語とするなら、その始まりは一歩目、足元からであろう。
「ghost_foot」という作品は、街を行く知らぬ誰かの道行きを思わせる。

そして、その一歩目は、現在地から始まる。
現在地、まさに、いま、私が立っているここ、この場所が重要なのだ。「recollection」という作品には、「どこにいますか」と書かれている。

海辺の砂浜、駅のホーム、階段、公園、と例を挙げれば、「サイトスペシフィック」(「その場所こその」)な作品の話になるが、いま私が立っている所を「日常」「生活」という枠組みで考えてみる。

いわゆる「ジャグリング」(私が「作品としてのジャグリング/芸術形式としてのジャグリング」と呼ぶもの)は、日常的/生活的ではない。
(※「ジャグリング」の用語法についての詳細は「ジャグリング論集」に譲る)
私は「日常」に、「生活」の上に立っている。
具体的には、私は(いま・ここの私は)自宅の部屋の椅子に座っていて、目の前にはノートパソコンがあり、キーボードを叩いている。机の左を見ればコーヒーのペットボトルがあり、右にはペンと、ドーナツの食べかけと、ボトルガムがある。足元にはスマホが充電器につながれている。
これは私の「生活」であり、現在地である。これは「ジャグリング」や「作品」であるとは言い難い。
「日常」「生活」のあしもとに目を向けるのであれば、そこにある物はボールやシガーボックスではなく、パソコンやペットボトルやペンなのである。「日用品を用いてジャグリングをすること」は、「ジャグリング道具を用いてジャグリングをすること」(=非日用品を用いた非生活行為)とも、「日用品を用いて日常の行為をすること」(=日用品を用いた生活行為)とも違って、『⽇常から半歩外れた挙動である』と言えるだろう。


そして、靴である。
『意思はあしもとに宿る、物語はあしもとから始まる』という言葉にこれ以上ないほど文句なく適している。

靴について

靴について、「綻ぶ歩幅を淡く踏む」の動画概要欄に記述がある。
以下、引用する。

"機能を活かしたジャグリングの可能性を探る"

「靴」をジャグリングの文脈で扱う。
靴は一般的なジャグリング道具と異なり、機能を有したプロダクトである。
特に「履く」という用途は人の営みにおいて欠かせない行為であり、故に靴は物それだけで身体を想起させる力を持つ。
それを形状を捉え扱う技術であるジャグリングにのせることで、意図された役割を超えた挙動を引き起こし、躍動する人間を映しだす。
本作では、ジャグリングを通じ靴の上に現れた人間とのコミュニケーションを探る。
_____
靴を前にした僕らは、そこに人の姿をみる。 それは子供であり、働き盛りの男性であり、老婆である。
その身体は、姿勢は、捉える人によって違うだろう。
靴はその姿の代理であると同時に、あなたの思考の現し身である。
_____

靴については以前のnoteでも書いたので、以下は靴についての所感を徒然と書く。

靴。
在/不在を表す物として、これほど象徴的な物があるだろうか。
帰宅時、玄関に靴が揃えられていれば家族のだれかが居ることを表し、
一方で、ビルの屋上に揃えられている靴はその持ち主がもうどこにも居ないのではないかということを思わせる。

靴屋。
服屋のマネキンもそうだが、あそこには架空の(偽の)身体がある。
身体の気配。

物が常に「ニコイチ」ってのもジャグリング的で面白い。
物の(機能的)成立に既にルールがあることが。
既に2。(→物自身にとっても、2人(私とあなた)の暗示。)

自分の靴のサイズを知ったのはいつだろう。
私たちは身長や体重といった数字で自分の身体のことを表すことがあるが、腹囲や胸囲はきちんと図る機会もそうない。
私たちは往々にして、自分の体のことについて、よく知らない。
自分の足をじっくりと見たり、触ったりする機会も、ほとんどない。(マッサージ、お風呂くらいか? そもそも体勢として困難。)
私そのものでありながら、よく知らない他者でもある自分の身体、その中でも、足。


作品の具体的検討

2021/2/13,14にピントクルの公演「フニオチル」で発表された「ゆらぐ」という作品を具体的に見ていきたい。

以下、基本的には時間軸に沿って述べていく。

・定点撮影より手持ち撮影のほうが良かった。
パフォーマンス・ダンスにおける映像の限界(特に定点では空間を把握しづらい)の理由もあるし、単に私がインスタレーションが好きなこともある。
今回は手持ち視点だとフレームアウトがあるが(握手の箇所とか)。

・私は作品の視聴前に既に、靴を扱ったたつる氏のジャグリングを知っていたため、靴の上に想起される身体を持つ「彼/彼女」(以下、透明人間と呼ぶ)とたつる氏のやりとりなのだ、という前提で見た。

最初、透明人間とたつる氏は同じ方向を向いている。(同じ景色を見ている?)
動きをまねたり。
それから、たつる氏は透明人間と向かい合い、握手、じゃんけんをする。身体的コミュニケーションの例示。

透明人間がたつる氏の上を歩く。たつる氏にとっては、踏みつけられる。「重さ」という、(他者が見えないときの重要な)存在の指標を感じること。

いわゆるジャグリングのパートでは、「ジャグリングの演技」という観方ではたつる氏のジャグリングをみることになるが、
前述の私の観方では、たつる氏と、固定した輪郭を持たぬ透明人間の、ときには重力をも無視した踊り(コミュニケーション)をみることとなる。

再び透明人間の身体は地面に戻ってきて。
1:30:07~は、本当に振りの作りがうまくて、
ここは、靴(モノ)だけを見れば、右と左で一人ずつ立っているようにも見える。(つま先をトントンする動きは1:24:52から引いてこれる)
しかし身体を見れば、外側と内側に一人一人いるのだ。さらに、通常の身体を考えれば二人の身体は重なっている。(透明人間が通常の身体を持っていたら身体の輪郭が確実に干渉している。)
つまり、身体の方のバグを避けるためには、靴の方に焦点を合わせてみるしかないが、
続く1:30:40~では二人の身体が重なりながら同じ軌跡を歩いている様を見せられる。身体を見れば、片足ずつ歩いているが、靴のみを見れば、右左をそろえて互いに先後を飛び越えあっているようにも見える。
続く、1:31:02~は四足の靴がそれぞれの生き物のように思える。
特に1:31:14の瞬間はそれまでの流れからの想定(身体の想定)が崩される一瞬で、非常に気持ち良い。
1個と3個の分け方になったり、
1:31:49~の動きは、たつる氏が4足の生き物になったようにも見える。

1:32:00~ラストまでの物語的解釈は難しいが、

面白いのは、この作品を見てきたから(透明人間の存在を前提としてきたから)、氏が靴を脱いだ場面では、氏が”いなくなった”、身体をなくした、と感じた。(靴の二人に場を譲って居場所をなくしたという解釈に引っ張られているのかもしれないが。)
本体(身体)がモノ(靴という拘束具)から自由になったにもかかわらず、私の目は、いまだ靴を本体として見ていたのだ。
見るべきは、これから何処かに行く(生きていく)氏の身体の方でなく、
ここに留まり、もう動かぬ、しかし未だ気配の残る靴の方なのだ、と。


架空カンパニーあしもとが示す「他者」と「時間」

さて、作品の検討が終わったところで、架空カンパニーあしもとについてもう少し書く。
再度引用する。

架空カンパニーあしもと/ghost_company Ashimoto とは
「意思はあしもとに宿る、物語はあしもとから始まる」を掲げ、靴を扱う作品を発表するジャグリングカンパニー。

ジャグリングは物とのコミュニケーションを成立させる、⽇常から半歩外れた挙動である。
その物体と⾝体の奇怪な関係性を利用し、⼈々の記憶への侵入を試みる。
現在は物とのコミュニケーションが記憶に及ぼす影響に関心を抱き、靴を中心に日用品を用いたジャグリングを行う。


キーワードは、「他者」と「時間」だ。

靴は身体を想起させ、透明人間は”掴めない”他者を表す。
「ゆらぐ」という作品に付記された「どこまで人間で、どこからが物ですか」という言葉にもあるように、架空カンパニーあしもとは、「透明人間」という存在を介して、コミュニケーションの定義を対人間から対物にまで拡大する。
もの言わぬ物とのコミュニケーションの方法の問題、
見えない(あるいは身体の無い)透明人間とのコミュニケーションの問題、
これらを考えるのに、まず、人間である他者とのコミュニケーションを考えずにはいられない。(言葉をきちんと覚えるまでの赤ん坊との会話や、異なる身体を持つ他者と歩く歩幅を合わせることを思い浮かべよ。)
「綻ぶ歩幅を淡く踏む」という作品の英題”You don't fit in with the crowd”や、「僕は、みんなとは、関われない。だから、放っておいてくれ。」といった言葉は、他者とのコミュニケーションの問題の存在を提示しているようだ。

「ghost_foot」という作品では、「街に溢れる足、それぞれが生きている」と他者の存在を認めながらも、その輪郭は、うまく見えていない。
これは透明人間的な見えない(あるいは身体の無い)存在として幽霊ghostを写しているともとれるが、過去の存在の残像を写していると取るのが良いのではないか。

写真という作品形式は、時間芸術ではない。が、そこに時間軸を伴った軌跡を写すことで時間を表すことは出来る。
パフォーマンスの身体だけを見ていては瞬間的に消えてしまうものを痕跡として残す(「足跡」のように)ということが、重要なのかもしれない。
架空カンパニーあしもとがパフォーマンスという作品形式だけでなく、写真という作品形式をも用いているという点は、そのように理解できる。

この場所に立つ私と、あの場所に立つ私は同時に存在できない。(身体は一つ=私は一つ。)
「(過去)あそこにいた私」は、「(いま)ここにいる私」にとっては、他者である。
「(過去)あそこにいた私」と、「(いま)ここにいる私」は、「記憶」というものを手掛かりにして、つながっている。

6歳、僕たちは、」という作品で、「あの頃、」と思い出すとき、記憶を介して私は「過去の私」という他者と関わっている。
その「記憶」(=過去の私という他者の存在)によって今の私の何かが変わるなら、それはコミュニケーションと呼べるだろうか。


あとがき

と、いう訳で、特に最後の「他者と時間(記憶)」の話が私自身の活動に関連してきているので、私は架空カンパニーあしもとに関心がある。

私はアーティストの作品と同じくらい、そのアーティストの言葉を、追っている節がある。

これからもやっていくので、よろしくお願いします。
じんでした。



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