ええー、それたつるつりーじゃん(第一声)

2019/07/09に書いたものだが、氏の許可を得たので公開する。
ジャグリングの文体style論 その1(たつるつりー)の続きと思ってもらえれば。

これを観たときに私の中で何が起こったのか

靴という物体objectには特有の文脈が乗る。
一つ、それは機能製品toolであるということ。つまり一般的なジャグリング用品と異なり、「履く」という用途に使用法(操り方)が限定されている。
その機能製品が「履く」以外の操り方をされることで、物toolはモノobjectになり、靴という物の意味(機能)を失う

一つ、それは(長い間)身体に身に付けるものであるということ。
これによって、靴から身体を想起することができる。
あとに述べる透明人間の身体を、その振る舞いを、靴という物の上方に想像する。

一つ、それは足の下にある汚いものであるということ。
実際に汚いかはさておき、机上に乗せるべきではないという規範があり、また、視界にも通常入らない最下部にあることから、(ファッションにおいて以外では、)靴がとりわけ注目されるべきものとして扱われることはない。
にもかかわらず、身体の上に靴を乗せる(後の透明人間との関係では「踏みつけられる」)ことには可笑しみがあり、(見えない存在者に踏みつけられるおかしみ)
観客は、「靴に注目する時間を過ごす」という余り行わない(新しい)体験をすることになる。


透明人間

僕は「透明人間」というモチーフを好んでいるが、
「透明人間」というモチーフが意味・象徴するものはいくつかある。

透明であるが故の「見えなさ」から、匿名性、それが「誰」であるか分からない/identifyできないから、”彼/彼女”は誰かであり、誰でもない。
観客は自由に想像し、”彼/彼女”は〈私〉(観客の全員)の知る誰かであるかもしれないと思うことができる。

透明であるが故の「見えなさ」から、不在性、いるのに「いない」という感覚。存在の気配だけがあること、
「霊」や「死」を思わせること、
☆人間にとって靴が意味を失う(=「死」によって不要になる/使われなくなる)ということと、上述の、靴という物の意味(機能)を失う(=ジャグリングにおいてはtoolがobjectになる)ということがリンクする

共有不可能性と、共有可能性
僕は「共-有」という概念に関心があるのだが、それ関連で。
一方で、透明人間の「見えなさ」から、匿名性、不在性からは共有不可能性が導かれる。”彼/彼女”が「誰」かを知ることはできないし、容姿を見ることもできない。ある意味で、”彼/彼女”はそこにいない。
他方で、観客は”彼/彼女”がどのような振る舞いをするのかを見ることができる(もちろん、操作によって擬似的に見るのだが)。
つまり、どのように世界(たつる氏の身体上を含む)を「歩く」のか、という”彼/彼女”の振る舞いによって、観客は”彼/彼女”がどのような人物か、を知ることができる。
これはある種の共有可能性だと思う。


気配


ジャグリングの「軌道」は、物の存在の軌跡であり、
上述のように靴は人間の存在の痕跡である。(それは生活lifeに密着しているという意味でも、靴の軌道は人間の軌道を表すからという意味でも。(「足跡」))

運動movementによる軌道・画は、絵画における線や形と違って、瞬間的であり、現れては消え、「いま」はすぐに過去になる。
その時間性・瞬間性は、生lifeの時間性・瞬間性にふさわしくないか。

cf.
ボルタンスキー展を観たからか、
生きた痕跡を描くことで死を思わせること
古着の山、
物が機能しないまま、生/存在の痕跡 気配 だけ残す
靴が意味(機能)を失うとき
下駄箱に靴、在/不在 屋上に揃って置かれる靴、死
私たちが動かない物(死体)になるとき



☆靴、透明人間というモチーフと、たつるつりーのスタイル(ストール・バランス、軌道・画、足元、静けさ)がマッチしていること

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