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ジモカン日記vol.2 地元エナジー、足りてる?

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地元エナジーの話

小学校4年生の時、生まれて初めて一人旅をした。
向かった先は岩手県。
前年、地元の朗読会で宮沢賢治の「なめとこ山の熊」をものすごい迫力で朗読していた女子大生と友達になり、彼女の故郷を訪ねたのである。(岩手は宮沢賢治の故郷でもある)

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この旅で、私はそれまで知らなかった景色や瞬間に、沢山出会ってしまった。

生まれて初めて連れて行ってもらった「喫茶店」の焼きうどんと「マスター」。(喫茶店などに入る子は不良だと教えられていたけど全然イメージと違った!)
喫茶店の横に空高くそびえ立っていたポプラの木。
(今でもありありと思い出せる)
我が子のように迎えてくれたお父さんとお母さんの芋っ子汁と手巻き寿司。
(笑い転げながら食べた幸せな満腹感)
賢治記念館の傍らにある「山猫軒」で注文したハンバーグ。
(本の世界に入ったみたい)
イーハトーブの森で出会った、寡黙なこけし職人煤孫さん。
(あっという間にこけしができる様子はまるで魔法)
キャンプをしながら眺めた満点の星空。
(空ってこんなに美しかったんだ!)
焚き火をしながら、生まれてはじめて飲んだブラックコーヒー。
(珈琲の香りと湯気がその場の空気をゆるりと変えた)
みんなで森に木を植えるロマン。
(ゆっくり時間が流れる樹木の世界はロマンチックだな)
きのこ名人と一緒にとったハナビラタケのバター炒め。
(幻のきのこ食べちゃった〜!)
地元の小学生が披露してくれた迫力ある和太鼓と、その小学生と一緒に食べたずんだ餅。
(太鼓プレイ後の食べっぷりが惚れ惚れ)
帰る前日にお姉さんが夜なべして作ってくれた、1週間分の写真とコメント入りのアルバム。
(どんなプレゼントよりお腹が満たされる気がした)

いきなり手にした様々な体験を握りしめて、私は困惑していた。それまで学校と家しかなかった世界が一気に開けて、眩しさに体がふわふわした。

すぐには消化できなかったけれど、この旅を境に世界の見え方が変わったのは事実。その後の人生を通じて、この時に感じた魅力はなんだったんだろう、とずっと考えてきたような気がしている。

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えーっと、一体私はなんだってこんな思い出話を会社という公の場で披露しているんでしょう。どこかからお叱りの言葉が聞こえて来そうだけれど、地元カンパニーの方向性を言葉にしよう、という話がでたとき、遠くでこの記憶がアクティベートされたような気がしたのだ。

地元カンパニーがめざすのは、交換経済や従来の資本主義には乗り切らない、魅力的な何かだ、と直感的に思った。思ったと言うか、確信してた。
それは、生きているだけで赦される安心感だったり、必ずしも経済的な価値が認められないけれども心を打つような物語だったり、何かを誰かと分かち合うことだったり、余白を持つことだったり、余白を持つことで気がつける社会の歪みを是正することだったり。一見必要ではないけれども、あると社会や人生がより豊かになるもの。

社員同士で話してみると、この直感的な何かは、なんとなく共通したイメージとしてちゃんとみんなをつなぎとめてくれていた。

その直感的な何かは、たぶん、10歳の私が初めての旅で食べたずんだ餅であり、黙々と賢治こけしを作っていたこけし職人の技術であり、生まれて初めて飲んだブラックコーヒーであり、焚き火で調理したハナビラタケなのだ。

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地元カンパニーが今の社会に提案したいのは、商品の価値そのものよりも、その前後の文脈の中で生まれる語りだったり、それによって生み出される味わいだったり、その土地ならではの生命力だったり、それによって変化を遂げる自分自身だったり、家族との関係だったりするもの。

そういうモヤッとしているけれどもみんなの中に共通してあるイメージを、「地元エナジー」という言葉に一旦託すことにした。(これを社内では「言葉の仮止め」と呼んでいる。)

社内のみんなで言葉を模索して、このモヤッとした何かに言葉を与えみると、私の原点ともいえるあの一人旅の輪郭が少しくっきりしたような気がした。あれは、地元エナジーを感じまくった旅だったんだ。

地元エナジーというベースキャンプで向かうのは


私達は、効率化や経済成長という名のもとに、制度や仕組み、あるいは結果や完成形にとらわれて、仕組みに乗り切らないものや、結果にたどり着く途中にある物語など、いわば有機的で混沌とした事象を置き去りにしてしまってはいないだろうか

そして、そういうものにこそ、人間がこれからの時代を生き抜くために必要なヒントが隠されているのではないだろうか。

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「地元エナジー、足りてる?」

地元カンパニーが提案したい世界観を、一旦この問いで探ってみたい。

大事にしたいのは、必ずしも成長や仕組みにのりきらない、そこからこぼれ落ちてしまうようなもの。そしてそれを押し付けることなく、偶然の出会いでもって必要な時に必要な人が受け取れる状態を演出すること。ギフトという、可能性に開かれた方法を使って。

地元カンパニーが目指すものってなんだろう、という話し合いの終盤、一人の社員が披露してくれた例え話がわかりやすかったのでご紹介したい。

「地元カンパニーは茨の道を進み続けるベースキャンプみたいな感じ。進んでいく先はよく分からないし、茨だし、進むごとに目的地が変わったりもするんだけど、ベースとなるキャンプ自体は、安心できる守られるところであってほしい。」

地元エナジーという、掴みきれない何かを掲げるのはいいけれど、ベースキャンプでは、ちゃんと息継ぎができて、暖が採れて、安心して体制を整えたり羅針盤を確認したりできる方がいい。

たぶん、その場にいたみんなが納得感を持って首を縦に振っていた。

これから仲間になるかもしれない人、あるいはギフトを買ってくれる人や、出品してくれる人。沢山の当社と関わってくれる人たちが一緒に同じ方向に向かっていくためにも、ゴールや目指す方向を確認するための安全基地としてのベースキャンプを、今整えておくことが大切なのかもしれない。

そうして立てた問いが以下の3つである。

・暇、足りてる?
・失敗、足りてる?
・祝福、足りてる?

問の形にしたのは、置物にしたくなかったから。毎日この言葉を使って、自分を確認するため。うまく使えなかったら問い自体を変えればいい。

地元エナジーのイメージを話し合った時に幾度となく言葉があがった「暇」という言葉。私達は生活や時間に余白をもっていたい。余白を持って赦し合える社会をよしとしたい。いつでも帰ってこれるような地元の安心感は、いわば赦し合いの余白がもたらしているのかもしれない。

暇を持つことで、私達は失敗を受け入れることができる。失敗しても、100%じゃなくてもいいから、とりあえずやってみることに意味を見出せるようになる。やってみなければ現状とのズレすら把握できない。何もやらないより、とにかくやってみる方がいいのだ。やってみることを、やめない集団でありたい。

そして失敗を赦し合えるのは、お互いを個として尊重しあっているからこそ。それぞれが自分の幸せを追求することを認め合い、祝福し合える方がいい。できれば自分のことも祝福したい。ときには曖昧なことも、決めきれないことも、白黒つかない混沌も、人間のリアルとして抱きしめ、偶然の出会いやプロセスを楽しみ、祝福しよう。

さあ。ご唱和下さい、おめでとう!

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挑戦状

2009年2月8日、当時24歳のザコウジの日記に、こんなことが書いてあった。

世界の平和とか幸福とか
そういうことを願うことは素晴らしいけれど
それをエゴの道具にしてしまう奴は嫌いだ。
あなたの隣人は幸せですか?

森も自然も緑豊かな環境も大事だと信じているし
そこにロマンを見出す科学は輝かしいと思ってるけど
それを資本主義の道具にしてしまう似非サイエンティストも嫌いだ。
科学のロマンがもたらしてくれる贈り物を知っていますか?

(中略)

私が賢治を好きなのは、彼がどんなに崇高な思考をめぐらしたとしても、どんなに素晴らしい研究や文章を生み出したとしても、いつもどんなときでも、地に足がついていたということ。
土との距離を忘れず、泥の匂いを大切にしていたということ。何を切り口にしてもいい、何を自分のモノにしてもいいから、土と泥の感覚を忘れないこと。土と泥の感覚を忘れないで、空と星を描くこと。
それが私のやりたいことなんだと今なら思う。
これが、日本には足りないような気がしてならない。
今の資本主義社会にずっと感じていた、それが私の、違和感。

地元カンパニーに入社したのは、この日記を書いてから10年以上経ってからのことなのだけれど、なんだ、私はちゃんと、自分がやりたいことをやれる会社に入ったのだな、と、この日記を読み返して思っている。今の社会にずっと叩きつけたかった挑戦状を、今は沢山の仲間と一緒に叩きつける準備をしている。

地元エナジーという言葉に込めたいものは多様だ。
地元エナジーという言葉が適切かもわからないし、この合言葉を使っていくことで、結果的にはもっと違うところに本当の目的地を探し当てることになるのかもしれないけれど、それはそれでいい。

地元カンパニーのベースキャンプが向かう先は、「よく分からないし、茨だし、進むごとに目的地が変わったりもする」のだから。

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以前住んでいたインド・デリーの美術館で、学芸員のお兄さんが美術学校の生徒らしき団体に話をしている場面に遭遇したことがある。

「雨の匂いを説明出来るかい?もし君が、詩を書く人だったら、あるいは絵を描く人だったら、あるいはギタリストだったら、もしかしたら表現できるかもしれない。でも説明はできないだろう?
君ら二人が親友だとして、なんで君らが親友か、説明できるかい?
怒り、不安、幸せ、、、人生に起こる物事は、いつも説明できるとは限らない。
いつもいつも分析しようとしちゃだめだ。もちろん分析することはいいことだよ、でもただ、感じてみてほしい。ただただ、受け止めて見てほしいんだ。」

・・・もちろんこのお兄さんは美術館の学芸員で、彼が言っているのはアート作品についてなのだけど、なんだろうなあ、こういうことなんだと思うんだよな。

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人間や、人間の生死や、人間社会に起こるあらゆる事象は、すべて評価したり明文化したり分析したり出来るものじゃないと思うんだ、私は。そして、その分からないもの、仕組みやルールからこぼれ落ちるものにこそ、人間味があるんだと感じるんだ。

だからこの挑戦は、人類の歴史においてすごく大事なことだと思っている。

地元エナジー。
それはきっと、お兄さんがいうように分析したり説明したりしてはいけないものなのかもしれない。ただ感じればいい、ただ受け止めればいいもの。
水のように掴むとなくなってしまうけれど、ちゃんと温度があって、その時々で生ぬるかったり、冷たかったり、時に濁流だったり、時に心地よかったり。

掴みどころがなくても、そこに確かに何かがあることを、ちゃんと感じていきたいと思う。

​そこに何かがあることに無自覚だった人ほど、ふと気がついた時に受け取るものは大きいのかもしれないとも思う。

「地元エナジー、足りてる?」

地元カンパニーは人間の人間たるゆえんを守るために、社会に問うていきたいのだ。
たぶん。

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