不確定要素の連続体であり、人間の認識を超越した概念を無理やり当てはめた瞬間的な存在について
・2022/01/23 思考メモ
川は不確定要素の連続体であり、人間の認識を超越した概念を無理やり当てはめた瞬間的な存在である。
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行く川のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたる例なし。
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方丈記を読んで、川を観たくなった。
鴨長明が観られなかったイメージを切り取りたい。
そんな衝動に駆られた。
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時のない川・・・
音のない川・・・
とても美しいと感じる。
そして一つの疑問が頭を過る⋯
時間のない川は川と呼べるのだろうか・・・?
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川は絶えず流れ続ける時間のような存在である。
現実世界において、流れている川が写真のように一時停止することはない。
写真に残る川は一時的に流れを止めており、川としての機能を失っている。
それは不確定な物質の集合体に過ぎない。
それは死んだ川であり、失われた川でもある。
その過去の一瞬を別の時間軸から絵として認識する自分がいる。
その瞬間に私は過去のある地点に囚われている。
これは果たして生きていると言えるのだろうか?
写真を観るという行為は、生物として正しいのだろうか?
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絶えず変化し続ける世界の光を捉える私たちの目は、驚くほど高機能なデバイスである。
非常に限定的な流れを絶えず認識することによって、
人類は文化、文明を進展させてきた。
絶え間なく変化することが、生きるということなのであれば、
写真は生きることを否定する技術なのかもしれない。
写真に残した川は止まってもなお別格の美しさを持っている。
一瞬の美、捉えることのできない永遠の美がそこにあるように感じられる。
写真の中に過去の経験や体験を見出した時、それが特別な絵のように感じられることがある。
しかし、所詮は目というデバイスの認識を超えることはない。
観るという行為は、目という生体デバイスの限界を越えることはできない。
川を構成する水分子の流れる確率を人間の目で捉える事は難しい。
人は目を超えた視覚的認識を得られるのだろうか?
もし人が五感を超越した認識を持ったとき、
それは果たして人と呼べるのだろうか・・・?
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