見出し画像

善悪をどこで判断するのか?

ロシアのウクライナ侵攻について、必ずしもロシアが悪でウクライナが善とも言えないという言説をたまに聞く。ただ、これは命題の立て方が間違っている。

ちょっと周囲の人をイメージしてもらいたい。100%善人なんていないが、100%悪人というのもいないだろう。
誰でも、善いこともするし、悪いこともしてしまうのだ。だから、ロシアを悪と決めつけるのではない。ロシアの一方的侵攻が悪なのである。ウクライナだって、侵攻されてしまった理由の一端ぐらいはあるのだろうが、ロシアの侵攻から祖国を防衛するのは正当な権利だ。

同じようなことを、Colabo問題でも感じる。困窮女性を救済する運動の過程で、特定のイデオロギーに基づく活動に強制参加させていたとか、経理不正があったとかいうのは、はっきり悪だ。しかし、それを理由にColaboや仁藤氏を全面的に悪だと言って排除してしまって良いのだろうか?

故安倍元首相や竹中平蔵氏を悪の権化のように言う人がいる。批判的な立場を取るのは結構だが、それならば彼らの行動や思想を個別に論じるべきなのであって、存在自体を悪と決めつけてしまうのは間違っている。

ただ、これで全部整理がつくのかというと、そうとも言い切れないところが辛いところだ。例えば、カルト宗教教団、極左暴力集団、反社会勢力。そういうものの中には、存在自体に問題があると考えざるを得ないものもある。

結局のところ、「善悪の判断は個人や組織や国に対してではなく、その行為について個別具体的に判断すべきだ。しかし、個人や組織や国自体の存在が悪であるケースだって無いわけではない。」と、なんとも曖昧な分かりにくい結論になる。つまりそれが社会の複雑性を示していると言えるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?