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やりたいことが見つからないメカニズム


 最近は、やりたいことを探している人が多くいます。しかし、一生を通して心からやりたいことは、探して見つからないかもしれません。

 例えば、サッカー選手になる人は、やりたいこと探して、サッカーを選択したわけではありません。おそらく、はじめにサッカーをやってみたいという衝動があって、それをあえて、カテゴリーとして分類すると「やりたいこと」にしています。サッカーをやりたいと感じた衝動に理由はなく、実は、偶然と説明するしかないのですが、やりたいことを探している人からすれば、その偶然にも何か原因があるはずだと思込み、やりたいことを見つけたプロセスを真似ようとします。

 似たような事例で好きな人が見つからないという悩みがありますが、これも説明は上記と全く同じです。好きな人を見つけた人は、「好きな人」を探したのではなく、自分の中から湧き出る衝動が生まれた人を後付けで「好きな人」と分類つけています。

 やりたいことも、好きな人も、本来見つけなければいけないものではありません。しかし、この分類分けを先に知ってしまった私たちは、空欄の「やりたいこと」の中に何か埋めなくては、と悩みます。そして、「やりたいこと」の空欄にふさわしそうな事柄を記入して、それを理屈で「やりたいこと」にしてしまいます。

 私たちは、論理的に考える癖が付きすぎたため、本来、偶然に発生する衝動や感情でさえも、考えれば出てくるものだと思い込みますが、真にやりたいことは、すでにやっています。むしろ考えてやろうと決心することは、湧き上がる好奇心には、及びません。

 つまり、案外私たちは、論理的ではなく、気分屋なのです。天職を探そうと過去の自分の歴史を振り返ったところで、共通点はあるようでありません。得意なことであろうが、好きなことであろうが、湧き上がる衝動がなければ、それは続きません。やりたいことには、理由はないが、あえて呼ぶなら「やりたいこと」と呼称する。この順番で実は、やりたいことは、世の中に存在しています。

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