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築地と亜剌比亜人

一般財団法人日本エネルギー経済研究所は東京都中央区勝どきというところにあります。勝鬨橋を渡ると、そこは築地。研究所からも旧築地市場や朝日新聞が対岸に見えます。また、遠くに東京タワーやスカイツリーも見ることができます。

築地は市場や築地本願寺で有名ですが、日本の近代文化発展で重要な役割を果たした場所でもあります。たとえば、研究所から歩いて10分ほどのところには「日本近代文化事始の地」という碑があります。ここはもともと九州の中津藩の中屋敷があった場所です。近代文化発祥というのは中津藩の藩医だった前野良沢らが『解体新書』を翻訳した場所であり、中津藩下級武士であった福沢諭吉が幕末に蘭学塾(のちの慶應義塾)を開いた場所だからです。

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それだけではありません。ここから歩いて1分もかからない聖路加国際大学の敷地には立教学院発祥の地という碑もあります。立教大学といえば、池袋というイメージがありますが、起源は築地だったんですね。

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また、有名な中高一貫校の女子学院(通称JG)発祥の地も立教発祥の地から目と鼻の先にあります(今は千代田区一番町)。

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なぜ、立教と女子学院といったキリスト教系の学校が築地で生まれたかというと、ここに築地居留地と呼ばれる外国人の居住区があったからです(ちなみに明治学院や青山学院もルーツが築地にあります)。

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さて、その築地居留地で140年もまえの1881年10月、面白い事件がありました。同居留地で人品卑しからぬ外国人がまごついているのを警官が見つけたが、言葉が通じず、名前すらわからない。神奈川県に問い合わせてみると、どうやらアラビア人らしいという。その当時、アラビア語ができる人間は築地居留地にいたドイツ人ただ一人だけだというので、アラビア人はそのドイツ人を探して築地までやってきたというのでした。

では、このアラビア人は何しに日本にきたのでしょう。ドイツ人がアラビア人から仔細を聞くと、彼は日本にイスラームを布教しにきたのだそうです。日本ではそのドイツ人がアラビア語を解すると知って、彼に会って、明治天皇との面会をアレンジしてもらおうとしたらしいです。天皇にイスラームの教義を解説するのが目的でした。それは無理だとドイツ人から諭されたのですが、かなり不満だったようです。結局、目的を達成できず、警察によって神奈川県に引き渡されました。

これは、1881年10月20日付読売新聞に出ていた記事にもとづいているのですが、残念ながらこのアラビア人の、その後の行動について続報はありませんでした。今から140年もまえのことですが、中東研究者として、彼のその後が気になります。何か手掛かりになるものをご存じのかたはぜひご一報ください。

なお、記事ではアラビア人は廣島丸で横浜に入港したとあります。廣島丸は、日本郵船の横浜・上海航路にその名があるので、それのことかもしれません。(保坂修司)

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