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スピルバーグとラクダ

 今朝、NHK BSでスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』を放映していました。もう何度も観たはずですが、今回もやっぱり最後まで観てしまいました。で、これまで何度も観ているのに、今回はじめて気づいた点がありました。今回放映していたのはファイナル・カット版とかで、これまで観てきたのと異なる場面が入っている可能性があるので、そのせいかもしれませんが、単にこれまで見落としてきたのかもしれません。

 はじめのころの場面なんですが、モンゴルのゴビ砂漠にでっかい船が横たわっているところが出てきます。モンゴルの遊牧民がラクダを引っ張って、国連の調査団らしきグループを案内しているという感じでしょうか。で、気づいた点というのは、モンゴル人が引っ張っているラクダが、どうみてもモンゴルにいるラクダとは思えないのです。みればみるほど中東にいるヒトコブ・ラクダです。

 まあ、ヒトコブだろうが、フタコブだろうがラクダには変わりはないんですが、ちょっと残念に思いました。ところが、この場面、調べてみたら、サハラ砂漠だという解説がいくつも見つかりました。また、特別版で追加された場面だというのもありました。一説には、この場面は、名作『アラビアのロレンス』でロレンスが砂漠を横断して、スエズ運河に辿りつく場面のオマージュだともいわれていますので、そのせいなのでしょうか?ちなみに撮影はゴビでもサハラでもアラビア半島でもなく、カリフォルニアのモハベ砂漠だそうです。もしかしたら、私がこれまで観てきた版では、遊牧民の場面がなかったので、気がつかなかったのかもしれません。

 まあ、この種のまちがいは珍しくありません。その昔、鳥取砂丘にいったとき、砂丘と砂漠とラクダという連想からでしょう。観光客をラクダに載せるサービスがありました。乗る客は、アラブ風の頭巾をかぶらされていたので、業者の認識は中東の砂漠なんでしょう。でも、ラクダはモンゴルのフタコブ・ラクダでした。もう25年も前なので、今は状況が変わっているかもしれません。

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 ちなみに日本に最初ラクダがもたらされたのは推古天皇7年(西暦599年)です。日本書紀には百済がラクダ1匹を貢いだとあります。その後、618年と662年にもそれぞれ高麗と百済からラクダがきています。いずれも朝鮮半島からきていますが、高麗のケースでは、隋からの戦利品とされているので、ここでいうラクダはおそらくモンゴルのフタコブ・ラクダでしょう。

 一方、ヒトコブ・ラクダに関しては1821年にオランダ商人が2匹のつがいのラクダを日本にもってきたというのがわかっています。オランダ商人はこのラクダを幕府に献上しようとしたのですが、幕府がそれを拒否したため、回り回って見世物興行師の手に渡り、その後10年以上、日本各地でラクダの見世物が開かれたそうです。この興行は大成功で、多くの観客を集め、日本中にラクダ・ブームが起きたそうです。

 このときの興行に関しては堤陀山『槖駝考』、江南亭唐立『和合駱駝之世界』、松本胤親『槖駝纂説』、猿猴庵『絵本駱駝具誌』など多くの著作が残っています。わたしはこのうち、名古屋市博物館によって刊行された『絵本駱駝具誌』をもっているんですが、この本によると、2匹のラクダは「天竺のはるしあ国」からもたらされたそうです。天竺は一般にインドのことと解されていますが、実際には中国と朝鮮半島以外の地を漠然と指すのに用いられるので無視して、「はるしあ国」のほうに注目しましょう。前にも指摘したことがありますが、「はるしあ」とは「ペルシア」のことで、つまりイランを指します。ただし、同時代の『唐蘭船持渡鳥獣之図』という長崎代官・町年寄の資料にはこのラクダが「亜蝋皮亜国之内メッカ」からきたとあります。この資料は時間的にも地理的にもラクダの渡来に一番近いので、こちらのほうが信憑性があるかもしれません。となると、19世紀はじめに日本にやってきたラクダは現在のサウジアラビア産ということになるでしょう。

 この本には、エキゾチックな服装をしたラクダ使いの男たちが描かれていますが、これが19世紀はじめの日本人の中東認識なのでしょうか?ちなみに、古典落語の名作「らくだ」ができたのもこのときの興業と無関係ではないと思われます。

(保坂修司)

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