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バルバリア海賊

先日、現代トルコの専門家から、トルコが最近、探査船「バルバロス・ハイレッティン・パシャ」、掘削船「ファーティヒ」と「カーヌーニー」を使って黒海のガス田開発を行っており、さらに地中海では「オルチ・レイス」という探査船を活動させるという話を聞きました。

トルコが近年、地中海等での天然ガス開発に熱心だというのはあちこちで報道されているので私自身も気になっていましたが、そこで使っている船の名前が「バルバロス・ハイレッティン・パシャ」「ファーティヒ」「カーヌーニー」「オルチ・レイス」だというところまでは知りませんでした。

個人的には、こういう名前の船が地中海や黒海で活躍するのも、最近のトルコらしいのではないかと思ったのですが、もちろん大半の人にとっては何それという感じでしょう。

実はこれらの船名はすべて人名から取られたもので、「バルバロス・ハイレッティン・パシャ」と「オルチ・レイス」は実は兄弟です(オルチが兄)。そして2人とも16世紀、ヨーロッパで海賊として恐れられていました。2人のもともとの本拠地は地中海西部で、現在のチュニジアやアルジェリアを拠点に活動していました。ヨーロッパでは、「バルバリア海賊」として知られています。

兄弟はギリシアのレスボス島生まれで、したがってギリシア人ともトルコ人とも、またアルバニア人ともアラブ人ともいわれています。16世紀はじめからオルチは地中海で海賊として頭角を現します。

ちょうどこのころスペインではレコンキスタでムスリムのグラナダ王国が陥落、イベリア半島から多くのムスリムやユダヤ人が駆逐されました。オルチは、彼らを安全な北アフリカに移送するのを支援したため、ムスリムたちからは敬意をこめてババ・オルチ(バーバー・ウルージ)と呼ばれるようになりました。「ババ」あるいは「バーバー」は「父」の意味です。この「ババ・オルチ」がヨーロッパでバルバロッサと訛って呼ばれるようになったという説があります。バルバロッサとはイタリア語で「赤ひげ」の意味です。実際、オルチは赤いひげを生やしていたとされ、そのためにヨーロッパでバルバロッサと呼ばれたという説もあります。なお、この語は、バルバロスと変化してトルコやアラブ世界で用いられるようになりました。

ひげが赤いというのは、もしかしたら、ヘンナで染めていたのかもしれません。現代でも信仰心の篤い人のなかには、預言者のスンナ(習慣)としてひげを赤く染めている人がいます。

ハリウッド映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』に登場し、主人公ジャック・スパロウのライバルとなるヘクター・バルボッサは、その名前をバルバロッサ兄弟から取ったといわれています。ある意味、それだけ欧米では海賊の象徴とされていたのでしょう。

さて、ババ・オルチは海賊行為でヨーロッパ勢力、とくにスペインやイタリアと戦うだけでなく、アルジェリアを事実上、支配します。さらにその支配を確実にするため、オスマン帝国にアルジェリアを差し出しました。これにより、オルチは、オスマン帝国のアルジェリア総督に任命されることになります。なお、オルチは1518年に死亡し、彼の地位やバルバロッサというあだ名は、弟のフズルに移ります。このフズルが、すなわちバルバロス・ハイレッティン・パシャです。彼はまた、フズル・レイスとも呼ばれます。ちなみに「レイス」とはアラビア語の「ライース」のトルコ語訛りで、「長」すなわちこの場合は「船長」を意味します。

ちなみに海賊と書きましたが、より正確にいえば、私掠船という分類になります。オスマン帝国と敵対する国の船を襲撃して物資を略奪する許可をオスマン帝国から得ています。英語ではPrivateer、フランス語ではCorsaireと呼ばれています。オスマン帝国側からみれば、タダで敵の船舶を襲撃してくれるので、役に立つ軍事力でもあるわけです。実際、彼らはのちオスマン帝国海軍の提督として当時の超大国の軍事機構のなかに組み込まれます。

なお、このような海賊(コルセア)はこの2人だけでなく、たとえば、「悪魔殺し」「スペイン人殺し」と恐れられたウムル・パシャ、ケマル・レイス、ハサン・ババ、「死にぞこない」ハッジ・フセイン・パシャとか山ほどいます。あだ名を聞くだけで恐ろし気です。トルコの名誉のためにいうと、ヨーロッパにも似たような海賊がいて、トルコ人だけが海賊行為を働いていたわけではありません。

ちなみに現代アラビア語では海賊のことを一般に「クルサーン」というのですが、これは「コルセアCorsaire」に由来します。

また、別の動きですが、トルコのイスタンブルで6月26日、黒海と地中海(マルマラ海)を結ぶ長さ45kmのイスタンブル運河Kanal İstanbulの起工式が開かれました。ボスポラス海峡の混雑緩和が目的で、6年以内に完成予定、総工費150億ドルとされていますが、無謀だとの反対意見も少なくないそうです。

場所はちょっと違うのですが、私はこの話を聞いて、1453年のコンスタンティノープル陥落時のオスマン帝国軍の作戦を思い出しました。このとき、オスマン軍は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲していたのですが、膠着状態に陥っていました。それを打破するため、封鎖されていた金角湾北側の陸地から70隻もの船舶を金角湾に移動させるという奇策に出たのです。世にいう「オスマン艦隊の山越え」です。この奇襲が功を奏し、オスマン帝国はビザンツの首都を奪取することに成功しました。コンスタンティノープルが現在のイスタンブルであるのはいうまでもありません。

このときのオスマン帝国皇帝がメフメト2世です。冒頭に出した掘削船の名前「ファーティヒ」は「征服者」を意味し、これはメフメト2世の異名です。

一方、カーヌーニーは「立法者」を意味し、メフメト2世のひ孫にあたる壮麗帝シュレイマン1世の異名でもあります。彼はオスマン帝国の最盛期を現出した皇帝として知られていますが、同時にハンガリーを平定、さらに第1次ウィーン包囲を行い、ヨーロッパを震撼させたことでも有名です。

トルコが地中海で活躍する資源探査用の船の名前をトルコでは英雄だけど、ヨーロッパ人から見れば、海賊や領土を奪った人物から取るというのはどういうことでしょうか?単にトルコ史上の英雄だからということなのか、それとも、エルドアン時代になってさかんに(とくに欧米やアラブ諸国で)喧伝されるようになった「新オスマン主義」の顕れなのか。このあたり、トルコの専門家ではない私には何ともいいがたいところです。オスマン帝国に支配された地域を研究しているので、その意味では割り引いて考えたほうがいいかもしれません。ただ、冒頭に挙げたトルコの専門家も、エルドアン以前だったら、たとえば、トルコ人の祖先の名前とか、もっと別の名前をつけた可能性もあるのではと指摘していました。

参考文献:スタンリー・レーン・プール1981『バルバリア海賊盛衰記―イスラム対ヨーロッパ大海戦史』前嶋信次訳、 リブロポート;スティーブン ランシマン1983『コンスタンティノープル陥落す』護雅夫訳、みすず書房;フィリップ・ゴス2010『海賊の世界史』上下、朝比奈一郎訳、中公文庫;桃井治郎2015『「バルバリア海賊」の終焉―ウィーン体制の光と影』中部大学

保坂修司

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