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湾岸危機・湾岸戦争の決着

 イラク中央銀行は12月21日、湾岸危機・湾岸戦争でのクウェートへの賠償金(総額524億米ドル)の支払いが完了したと発表しました。イラクにとっても、クウェートにとっても、30年前の悪夢の、少なくとも一つの決着になるでしょう。

 1990年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻した当時、わたしはクウェートに住んでいました。その後、クウェートに住んでいた邦人はほとんどイラクに移り、大半がイラク当局に捕まって「戦略的要衝」に連れていかれ、12月に解放されるまで4か月間にわたって、拘束されることになりました。いわゆる「人間の盾」です。イラク側は「客人」と呼んでいましたが、事実上、人質にほかならず、英語ではしばしば客人と人質を合わせて「ゲステージ」と呼ばれていました。

 当時わたしは専門調査員として在クウェート日本大使館に勤務していたので、イラクに移ってからも、イラク当局に拘束されることはなかったのですが、イラクから出国することは許されず、日本大使館で保護されるかたちになりました。イラクはクウェート併合を宣言したため、在クウェート日本大使館員の身分は認められなくなったので、われわれは在ギリシア日本大使館員としてのパスポートを渡され、以後12月の人質全員解放まで、事実上の在イラク日本大使館員として働くこととなりました。

 湾岸戦争終結後、クウェートの自宅に戻って、自宅のカギを開けようと思ったら、カギが開きませんでした。業者を呼んで、開けてもらうと、部屋のなかは惨憺たるありさまで、家具から何から一切、なくなっていました。上の写真は、そのとき撮影した居間の写真です。わたしがいないあいだ、どうやらクウェート人の一家が住んでいたようです。すでにそのクウェート人もいなかったのですが、身分証明書が残してあったので、見てみると、シーア派の有名な一族の名前だったので、もしかしたら、あちこちを転々と逃げていたのかもしれません。また、わたし自身の家財道具がすべてなくなっていたので、おそらく彼らがわたしのアパートに移るまえに、あらかた略奪されていたのではないかと思います。

 さて、冒頭、賠償金の話を書きましたが、当時クウェートに住んでいた人はその被害に応じてイラク側に賠償を請求することができました。わたしのアパートは前述のとおり、家財が一切、なくなっていたので、やろうと思えば一つ一つ被害を申請して、イラクに賠償請求することも可能だったんですが、わたしの場合、一番の財産は本や資料だったので、金額的には大した額にはならないし、申請してから実際にお金が振り込まれるまで何十年もかかると脅されたこともあり、一括で4000ドルもらって、事実上賠償請求権を放棄するほうを選びました(下の画像参照)。いつ支払われたかは記憶にないのですが、たしか4000ドルもらったと思います。とはいえ、いくら4000ドルもらっても、失った本や資料が戻ってくるはずもなく、こればかりは今でも残念に思っています。

 時を同じくして、NHKが湾岸危機・湾岸戦争に関して興味深い報道をしていました。一つは「湾岸危機で米側 「軍隊」用い人的貢献迫る 外交文書で明らかに」というもので、もう一つは「中曽根元首相の “交渉術” 外交文書で明らかに」というものです。さきほどいったとおり、当時わたしは在クウェート日本大使館、その後在バグダード日本大使館で働いていたので、この記事はたいへん興味深いものでした。

 ちなみに、この報道は、日本の外務省が当時、やりとりしていた電報などの公文書を分析したものです。あれからちょうど30年、こうした文書が公開されるようになったんだと思うと、非常に感慨深いものがあります。なにしろ、わたし自身が相当な数、電報を書いていましたので。とくにバグダードでは政務班の一員として朝から夜中まで新聞を読んで、ラジオを聞いて、テレビを見て、イラク情勢について本省に電報を書いていました。

  NHKの報道で取り上げられた中曽根元首相のイラク訪問、とくにサッダーム・フセイン大統領とのテタテの会談は、わたし自身、今も覚えています。もちろん、会談に同席したわけではないのですが、当時、そのときのもようがイラクのテレビで放送されたので、大使館の政務班の部屋でかじりつくようにテレビを見ていた記憶があります。

 実はあちこちに書いたことがあるんですが、この会談で、中曽根元首相がサッダームに対し面と向かってイラクのクウェート侵攻は誤りであると厳しい意見をいったのが印象に残っています。重要なのは、この場面、イラク国営テレビでちゃんと放送されたという点です。ふだん、サッダームへのベンチャラしかいわないテレビが中曽根さんの発言をアラビア語字幕でそのまま報道したことの意義はそれなりにあるのではないかと思いました。

 当時、世界中から人質救出のために何人もの要人がイラクにやってきました。日本からも有象無象の政治家などがきたのですが、大半の人は、日本人人質解放という目的のために、イラクへの批判を躊躇していました。わたしが知るかぎり、中曽根さんほどはっきりとイラクを批判した人はいなかったと思います。

 中曽根さんとサッダームの会談後、イラクは人質になっていた多くの日本人を解放しました。日本大使館は人質になっている人のリストをイラク側に渡したのですが、当然、優先されるのはクウェート在住で戦略的要衝に連れていかれた人たちでした。しかし、わたしの知人で、当時、バグダード大学に留学していた研究者についても、リストに入れてもらいました。そして、中曽根さんはサッダームとの会談で、わざわざその留学生のことに言及してくれたのです。おかげで、彼は無事解放されました。ただ、中曽根さんは神学を勉強している留学生と紹介していましたが、勉強していたのは正しくは歴史学です。

(保坂 修司)


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