見出し画像

人文書院と私――『現代経済思想史講義』補遺(根井雅弘)

人文書院から多くの著書を出されている根井雅弘先生。noteの開始を記念して、最新刊『現代経済思想講義』の続きあるいは裏話と呼べるような補遺をいただきました。

 人文書院のことを考えようとすると、どうしても太宰治と清水幾太郎の顔が浮かんでくる。もっとも、太宰治というよりは、正確には、太宰治の夫人だった津島美知子の著書『回想の太宰治』(1978年、人文書院より刊行された)を青年時代に読んだ記憶が鮮明に残っており、その本を手にとるたびに太宰治の写真(行きつけのバー「ルパン」で座っている、あの写真だ)を思い出していたというべきか。いまひとりの清水幾太郎は、いつか面会したとき、誰かの思い出の話になったのか、「太宰治ではないけれども、「彼は昔の彼ならず」だよ」とつぶやいた言葉が妙に忘れられなかった(清水幾太郎との付き合いについては、拙著『経済学者の勉強術:いかに読み、いかに書くか』人文書院、2019年を参照)。こうして、津島美知子と人文書院を介して太宰治と清水幾太郎という奇妙な組合せが生まれ、それが私の脳裏に刻まれることになった。

 清水幾太郎は、私にとっては、学問を志すきっかけを与えてくれた「先生」であり、いつも嬉しそうに接してくれる「好々爺」であったが、世間の一部は、いつまでも「転向者」としてつねに批判の対象にしていた知識人であった。「彼は昔の彼ならず」とは、まさに清水幾太郎自身のことではないかと彼らは言うだろう。そのことは、いまは、どうでもよい。ただ、私は、「人間やその思想は変わらないものだ」というような考えには疑問を感じていたので、その言葉が引っ掛かったのかもしれないとは思う。

 それはさておき、私自身が物を書くようになっても、私と人文書院との出会いはなかなか訪れなかった。東京の出版社にはいくらでも知り合いがいた。けれども、京都の出版社からは、なかなかお声がかからない。ひょんなことから、私に『ブックガイドシリーズ基本の30冊 経済学』(人文書院、2014年)の編者の任が回ってきた頃には、すでに「新進気鋭」ではなく、齢50を超えた「ベテラン」の物書きになっていた。あれからもう6年の時間が過ぎているが、ご縁とは不思議なもので、その後、数冊の本を出してもらった。

 この文章を書いている現在、近畿地方は梅雨に入っているが、橘木俊詔氏との対談を『来るべき経済学のために』(人文書院、2014年)と題する本にまとめる作業をしていたのも同じ時期で、体力的にきつかった。対談を持ち掛けたのは橘木氏のほうだが、あちらは蒸し暑い気候で何時間しゃべっても全く疲れた様子もないのに対して、私や編集者などは終わったときはグッタリなっていた。だが、20歳近く歳が上の大家と対談を進めていくうちに、はるか昔、老大家の清水幾太郎と雑談を重ねていた青年時代の記憶が懐かしく甦ってきた。物書きの習性か、いつかそのことを書いてみようかという小さな思いが芽生えた。しかし、東京の出版社との付き合いのほうが長いので、その仕事をしているうちに数年が経過した。

 本を書くのにはタイミングが必要である。そのタイミングを拾ってくれたのも、人文書院の編集者だった。私は、清水幾太郎と付き合ううちに、学問に志した者だから、自分がどのような勉強をして今日に至ったかを正直に書いてみようと思った。このときの筆は早かった。一気に300枚ほどの原稿(400字詰め原稿用紙換算で300枚と言わないと若い人には通じないだろう)を書き、『経済学者の勉強術』と題して出版された。この本は、神保町界隈の書店でよく売れたという事実にあらわれているように、「玄人受け」がよかった。もちろん、学生やビジネスマンもたくさん読んでくれただろうが、それは一人の経済学史家が書いた「読書論」であり、類書があまりなかったのが幸いしたのだと思う。紙の本だけでなく電子書籍(Kindle)まで作ってもらった。

 ところで、その本の装画は、点描画を嗜む山内有記美さんにお願いしたのだが、彼女を紹介してくれたのは、学生時代にお世話になった黒木靖夫さん(すでに鬼籍に入られたが、ソニーのウォークマンの「生みの親」として知られている。『ウオークマン流企画術』『ウォークマンかく戦えり』などの著書がある)のお嬢さんだった。黒木さんは、私の両親と同郷で、出身校も同じということで、東京で学生生活を送っていた頃、ときどきお邪魔して話をうかがっていた。ソニーのウォークマン誕生物語は、まさに組織としてイノベーションを企画した好例だが、私はシュンペーター を勉強する過程でイノベーションの生成過程にも関心をもっていたので、時間を忘れて夜遅くまで話に聞き入っていたものだ。懐かしい思い出である。その黒木さんのお嬢さんが、いまは亡き母が病気療養していたとき、京都まで彼女にどことなく似ているお嬢さんを連れてお見舞いに来てくれた。みな成城学園の出身だったので、その人脈も侮り難く、いつの間にか、点描画の山内さんまでたどり着くことになった。ご縁とは不思議なものである。

 実は、私は点描画のことはほとんど知らなかったのだが、山内さんの作品を数点見せてもらったとき、なにか閃くものがあって、装画をお願いすることに決めた。点描画の世界は、ふだん絵画には特別の関心のない私のような者でもついていけるような気がした。『経済学者の勉強術』以後も、『定本 現代イギリス経済学の群像』(白水社、2019年)や、今年の2月に人文書院から出したばかりの『現代経済思想史講義』(人文書院、2020年)の装画も描いてもらうことになった。みな経済学の本にはあまり見ないタイプの装画なので、知り合いの反応は上々であった。

 さて、『現代経済思想史講義』は、私が京都大学経済学部で長年担当してきた「現代経済思想」の講義をもとにまとめたものだが、ケインズ革命からベルリンの壁の崩壊までの経済思想の流れを鳥瞰する試みはまだ多くはない。歴史家にとって20世紀はまだ現代の一部であり、その正確な歴史を書くにはまだ時が熟していない。どんな学問でも、現時点で流行している理論や方法論の目から過去を描くのは一面的の誹りを免れないが、経済学の場合もその例にもれない。いや、経済学の世界は、一時の流行がマスコミで大きく取り上げられることが少なくないだけに、もっと警戒が必要である。理論や思想は、つかのまの流行を超えて、本当の意味で学問の中核に採り入れられたとき、歴史の一部となる資格をもつ。そうなるには少なくとも50年の時間がかかる、と教えてくれたのは、京都大学での恩師、故菱山泉先生である。

 菱山先生は、イタリアが生んだ天才、ピエロ・スラッファ研究の大家であったが、マーシャルからケインズに至るケンブリッジ学派全般に精通し、英仏独伊露の文献が原語で読めた教養人だった。京都大学でのもう一人の恩師がケインズ研究の大家として有名な伊東光晴先生だが、二人の先生は、学風が全く違うにもかかわらず、お互いを尊敬し合い、とても仲が良かった。私の『現代経済思想史講義』は、お二人から学んだことの多くが反映されているので、学問の継承を考えるときのよきサンプルになっているはずだ。

 ところが、2月にあの本を上梓してまもなく、世界中が新型コロナウィルスによる感染症拡大という禍に巻き込まれることになり、私自身も慣れないオンライン講義の準備やヴィデオ会議などに忙殺されたので、歴史家に必要な落ち着きを欠いていたと思う。多少の余裕を取り戻したのは、皮肉にも、緊急事態宣言が出されて二週ほどの時間が経った後だった。集英社インターナショナルのホームページ上にある企画「こんな時代だからこそ読みたい コロナブルーを乗り越える本」に一文を寄稿したのもこの頃である(その企画は、のちに小冊子『コロナブルーを乗り越える本』にまとめられたが、現在は、大きな本屋さんには置いてあるはずだ)。

 コロナ禍のような危機にあるとき、歴史は私たちに多くの反省材料を提供してくれる。100年前のスペイン風邪を振り返った本や新聞記事などがよく取り上げられたのもその一例だ。先頃亡くなった速水融氏の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ:人類とウィルスの第一次世界大戦』(藤原書店、2006年)は力作であった。だが、大国が金にものを言わせてワクチン開発の成果をいち早く握ろうとしたり、人間が環境破壊を繰り返してきた結果として新たなウィルスが登場したという意味で「人災」とも言えるコロナ禍の本質を直視することなく、各国が性急に経済再開へと進み出したりする様子が何度もテレビ画面に映し出されてくると、目下の危機は、今世紀中に何度も繰り返される禍のほんの第一段階ではないかと悲観したくもなってきた。

 人文書院のファンならば、巣ごもりの生活の中でたくさん本を読んだ人も多いだろうが、精神科医の野村総一郎氏によれば、「上り坂の儒家、下り坂の老荘」というのだそうである。そういえば、私も『論語』は何度も読んだことがあるが、確かに元気なときが多かった。多少とも世の中から遠ざかって巣ごもり生活に入っていれば、老荘のほうに気が向いても不思議ではない。老荘は、読んだことはあっても、少しも私の頭の中に入っていなかった。コロナ禍のなかで、保立道久訳・解説の『現代語訳 老子』(ちくま新書、2018年)が読めたのは収穫だった。「小国寡民」に込められた「平和主義」の意味を掴まなければ、世界中のコロナ禍は終息しないように思われる。

- - - - - - - - - -

略歴

根井雅弘(ねい・まさひろ)1962年、宮崎県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了(経済学博士)。現在、京都大学大学院経済学研究科教授。著作多数。新著に『英語原典で読む現代経済学』(白水社)がある。

#根井雅弘 #経済学 #人文書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?