【批評の座標 第10回】溶解意志と造形意志——種村季弘と「水で書かれた物語」(後藤護)
溶解意志と造形意志
——種村季弘と「水で書かれた物語」
後藤護
水に背いた「火性の人」
「戦後焼け跡派」、「戦後闇市派」を自認する種村季弘(1933-2004)は、東京大空襲で生まれ故郷の池袋を焼き尽くされ、その結果「瓦礫」なり「無」なりが原風景、彼の思想のスタート地点になった。種村の初仕事であり、その後の活動全てに一貫するモチーフを提供することになったG・R・ホッケ『迷宮としての世界』(美術出版社、1965)の翻訳であるが、ホッケはローマ劫掠のあとに生じた16世紀マニエリスムアートと、第一次世界大戦の「荒地」の果てに生じたシュルレアリスムに明らかな相関関係を認め、この幻視とさえ言えそうな強烈なアナロジーが軸となってマニエリスムは時代精神と条件さえ一致すれば何度でも繰り返される「歴史的常数」と再定義された。
明らかに訳者の種村は、ローマ劫掠や第一次世界大戦のあとの惨状を、自らの戦後体験とダブらせながらマニエリスムを捉えていた。芸術家より詐欺師、ホンモノより贋物、情熱より計算を礼讃するあの人を食ったような老獪さも、イロニーも、仮面術も、すべて戦後という転形期を生き抜くためのハードドライなマニエリスム的甲冑様式であり、若きにして「晩年の思想」(花田清輝)から彼は始めざるをえなかった。つまり戦「火」を潜り抜けた種村季弘の原初体験には、すべてを焼き払う「火」のエレメントがちらちら見える。「火」とは種村が好んで取り上げた鍛冶師や錬金術師のような人工性を司る人々の宰領するエレメントであり、初期の論考「自動人形庭園」(『怪物の解剖学』所収)に種村は以下のように書き付けている。
自然(女性原理)を嫌悪し、人工(男性原理)を賛美する「火性の人」こそが幾何学的マニエリスト——母胎を必要としない単性生殖の独身者機械たち——なのだとしたら【図1】、上の短い一文は種村批評全体のステイトメントになりおおせている、とも一見思える。マニエリスト種村季弘の戦後体験やパブリック・イメージを考える場合、四大元素のなかでも「火」というものが強い印象を読者に与えるのは事実だろう。
水源への遡行——『水の迷宮』『壺中天奇聞』の流れ
しかし、「火」よりも以前に遡る「水」の記憶が、種村のなかで常に拮抗していることが私には気にかかっていた[2]。まずは、種村死後に編まれたものの中では最新刊の『水の迷宮』(国書刊行会、2020)という美々しく瑞々しいタイトルから、その「水で書かれた物語」(吉田喜重)を始めていきたい[3]。國學院大學で種村の薫陶を受けた弟子の齋藤靖朗が編纂した本書は、一貫して水のモチーフに拘り続けた作家・泉鏡花の作品論・作家論をまとめたものである。特に「水中花変幻」は日本幻想文学論でも屈指の名作として語り継がれる逸品であり、ちくま文庫の『泉鏡花集成』全14巻を編んでいることからも、鏡花は種村思想の中核をなす作家と言える。
種村は鏡花作品に頻出する、主人公を慰撫する個性的特徴を欠いたのっぺらぼうな顔をした「水の女」を、出口米吉『原始母神論』を援用しつつ以下のように論じている。「しかしこの恐ろしい美女たちはその非人間的な顔によってまさに顔のない女である原母的な存在一般のかけがえのない化身となった」。いわば鏡花の「水の女」とは退行願望の象徴であり、個ではなく類としての女、分節化される前のグレートマザー的全一性、未生の世界というユートピアを惹起せしめる羊水的存在だと知れる。「現在を液状に溶解して大洋的退行の果ての原風景を現象せしめるたくらみ」と鏡花文学を評した言葉は、そっくりそのまま種村に送り返される言葉だと思われる、ということを以下見ていきたい。
[1]種村季弘『怪物の解剖学』(河出書房新社、1994年5版)、153ページ。
本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。
人文書院関連書籍
その他関連書籍
諏訪哲史編『種村季弘傑作撰Ⅰ 世界知の迷宮』(国書刊行会)
諏訪哲史編『種村季弘傑作撰Ⅱ 自在郷への退行』(国書刊行会)
種村季弘『水の迷宮』(国書刊行会)
執筆者プロフィール
後藤護(ごとう・まもる)1988年山形県生まれ。暗黒批評。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社)で第1回音楽本大賞「個人賞」を受賞(渡邊未帆選)。その他の著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン)。魔誌『機関精神史』編集主幹。Real Sound Bookに「マンガとゴシック」、出版人・広告人に「博覧狂気の怪物誌」をそれぞれ連載中。訳文校正を担当したJ・G・フレイザー『金枝篇8巻 スケープゴート』(国書刊行会)が年内刊行予定。
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