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美馬達哉『感染症社会』本日発売です!

本日、いよいよ発売される美馬達哉著『感染症社会――アフターコロナの生政治』。刊行にあたって、美馬先生からコメントをいただきました。また、本書の一部を無料公開いたします。

 新型コロナウイルス感染症は2019年末に発生し、終息がどうなるかはいまのところ見えていません。ウイルス対人間とかコロナ戦争とか封じ込めとか水際作戦とか、はじめの頃は勇ましい戦争の隠喩(メタファー)で語られていましたが、いまではウィズコロナとか「新しい生活習慣」のように人間のほうが、へりくだって歩み寄りし始めています。

 本書では、医学的な基本事項の解説と友に、鳥瞰的に文明の始まりから現代までを感染症を軸に見ながら、虫瞰的に日本でのコロナ差別意識を社会学的に分析し、生物学知と人文知の融合によってコロナの全体像を示しています。

美馬達哉

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第1章 感染症という妖怪

パンデミックと人文知
 パンデミック――地球規模の疫病――の時代において、健康と病気に関わる人文知の果たすべき役割は、パンデミックはウイルスなど病原体が人から人にうつることだという「常識」と距離を置くことだと、私は考えている。

 歴史的にみれば、病気は病原体によって生じるとする「病原体説」は、ワクチンで知られるルイ・パストゥールとコレラ菌や結核菌の発見で知られるロベルト・コッホの時代だった一九世紀末に確立された歴史の浅い思想だ。そして、その病原体説を基礎にして発展を遂げた生物医学的な知は、新型肺炎COVID -19を引き起こしたコロナウイルスに対する治療薬やワクチンを研究開発するバイオテクノロジーの基礎となった。

 だが、医学史の教えるところでは、現在では支配的思想となった病原体説は一九世紀まで少数派だったという。近代の病原体説の先駆は、一六世紀イタリアのジロラモ・フラカストロによって定式化された「コンタギオ(伝染)」説――人間から人間に何かが感染する――の考え方である。もちろん一六世紀以前にも、ある地域で多数の人びとが一斉によく似た病気に罹り、ときには多数の死者が出る疫病という現象は存在していた。たとえば、紀元前二〇〇〇年頃に遡ることのできる古代メソポタミアのギルガメッシュ叙事詩にも「疫病神」が登場している。

 多くの人びとが同時に病に斃れて命を落とす災いを前にしたとき、そこには共通の原因があるはずだと推論することは自然な成り行きだろう。そして、その現象を、疫病神や神の怒りという超自然的な要因にもウイルスなどの病原体にも結び付けないのであれば、過去の人びとは疫病をどのように思考していたのだろうか。

 その代表的な考え方が「ミアスマ(瘴気)」説である。近代医学の源流となったギリシャ・ローマ以来の医学では、その地域一帯に淀む汚れた空気(ミアスマ)が原因となって集団的な病気としての疫病が発生すると考えてきた。たしかに、疫病が多くの人びとを同時に襲うとき、集団全体に対していちどきに影響する何かを見いだそうとする方が、個人から個人への伝染の蓄積を想定するより、はるかに納得しやすい。

 こうしたミアスマの考え方は、じつは現代の私たちにも大きな影響を残している。

 COVID -19の予防に「三密」を避ける生活習慣の重要性が口うるさく言われている。密接と密集と密閉を避けるという三密は、人間間の距離を離して感染予防する社会距離(ソーシャルディスタンシング)という手法を進めるための日本での標語だ。そのなかの密接と密集は身体間の距離そのもので飛沫感染や接触感染を防ぐ役割があり、密閉を避けるのは空中に長く漂う微細な飛沫でのエアロゾル感染を防ぐためのものだ。だが、歴史的にみれば、換気は、生物医学的な有用性以上に、象徴的な意味合いを帯びている。

 ケアの場での新鮮な空気の必要性を強調する考え方の起源は、近代看護の創始者フロレンス・ナイチンゲールにあった。病原体説以前である一九世紀の人であったナイチンゲール自身は、傷病者が詰め込まれた病室の窓を開け放ち、不潔で湿った空気の淀みを部屋から追い出すことが治癒に役立つと考えていた。これはミアスマ説の考え方に基づいている。

 三密と並べて見直せば、密接や密集を避ける生活習慣を強制されることがいかにも道徳的で窮屈であるのに比べて、ミアスマ説の唱える「新鮮な空気の大切さ」には密閉性を打ち破る自然な軽やかさがあって趣が異なる(ような気もする……)。

 さきほどナイチンゲールの名前を出したのは一例に過ぎない。一九世紀当時のイギリスでは、疫病の医学理論としては、一種のミアスマ説(特殊な「伝染性大気コンスティテューション」が住民全体を襲う疫病の原因であるとする説)とコンタギオ説が共存していた。そのなかで、コレラのパン
デミックをきっかけに、ミアスマ(コンスティテューション)説の信奉者たちによって、一九世紀の衛生改革、すなわち上下水道の整備や都市の塵芥処理や換気の奨励が大規模に導入された。こうして実現された生活環境の改善は、病原体が発見される以前に、コレラに限らずさまざまな感染症での死亡率を引き下げることに成功していた。

 ミアスマやコンスティテューションが何を指していたのかは、現在からみると曖昧模糊としている(引用に出てくるトマス・シデナムは一七世紀の高名な医師で「イギリスのヒポクラテス」とも呼ばれる)。

シデナムのいう「コンスティテューション」とは自律的な自然ではなく、いくつかの自然的な出来事の総体が、かりそめの結び目のような具合に形成する複合体である。自然的な出来事と出来事の総体が、かりそめの結び目のような具合に形成する複合体である。自然的な出来事出来事の総体が、かりそめの結び目のような具合に形成する複合体である。自然的な出来事はたとえば地質、気候、季節、雨、ひでり、流行病中心地、ききんなど。(中略)「年毎の体質は常に多様であって、その発生は暑さ、寒さ、乾燥、湿気によるものではなく、むしろその土地の内部にある、説明不可能な、隠れた何らかの変化によるものである。」(フーコー『臨床医学の誕生』)

 これは、ミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』のなかでの説明だが、むりやりに現代の考え方を当てはめて解釈すれば、おそらくコンスティテューション(ミアスマ)とは感染拡大に関わる広い意味での社会・環境因子の複合した状況を指していたと思われる。

 こうした視点は、COVID -19パンデミックを考える上でも重要だ。一つのウイルスによる世界の均質化というにはあまりに複雑な事態が生じており、感染拡大や死亡率の国家間や地域間での差異の大きさのほうが私たちの目を引く。気候などの環境の要因はもちろん、地域の人間社会や清潔さの文化、政治経済状況など、シデナムの時代に想定されたよりもさらに多様な「コンスティテューション」が影響して、感染症の広がりと重症度の違いを生み出しているのだろう。こうした個別的で複雑な局面状況を、細部に目を配りつつ複雑なままに取り扱うことこそ、現代の人文知の役割ではないだろうか。

 そんな視点から本書は、人間対ウイルスという二項対立の短絡的な考え方を相対化し、社会現象としてのパンデミックとコロナウイルスの存在との隙間にあるさまざまなコンスティテューションの軋みに耳を澄ませて、思考を積み重ねることを目指している。

 なお、「コンスティテューション」は多義的な言葉で、日本語に翻訳することは困難だ。一般的には、構成と訳され、医学史のなかでは体質や組成との訳語が当てられることが多い。だが、それ以外に政治の領域では、憲法や政体をも意味する(たとえば、日本国憲法は”The Constitution
of Japan”)。

 本書の導きの糸の一つであるフーコーの生政治(バイオポリティクス)という概念のなかには、このコンスティテューションのもつ多義性が反響している。『臨床医学の誕生』の一三年後、権力を戦略的なものとして捉える独自な理論を練り上げる際に、フーコーは、そうした社会的諸力の絡まりあいを指すために、「ほぼ(引用者註:一七世紀の)医者たちが使っている意味でのコンスティテューションのようなもの、すなわち、力関係、比率のバランスと作用、安定状態にある非対称性、一致する不平等」というイメージをもちだしている。

※続きはぜひ本書でお楽しみください。

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#美馬達哉 #新型コロナウィルス #アフターコロナ #COVID -19 #社会学

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