意見とは
ワイドショーだったり、Twitterだったり、人の意見を目にすることがよくあります。
「ああ、あの人はこんなこと言っている」、「こっちの人は、こんなことを言っている」。
私は・・・
とりあえず、いいなあと思ったものに、いいねを押してみる・・・
発信をしない私って、意見がないのかなあ・・・
きっと、そうだ。そう言えば、あんなことがあった。
中学時代の社会科のテスト
中学時代の社会の期末テスト。
私は、100点を狙っていました。なぜなら、どれか一つでも100点を取ると、新しいサッカーのスパイクが買ってもらえるからでした。
可能性が高いのは、社会、国語、英語。
ここに力を入れました。
試験当日、社会のテストにこんな問題がありました。(うろ覚えですが・・・)
「住んでいる地区のゴミの分別回収について、住民同士で話し合いをすることになりました。ある人は、分別ルールが複雑すぎると、面倒なのでそもそもルールをを守らなくなってしまうかもしれないと言いました。また、ある人は、きっちりとしたルールは地球環境を守るため大切であると言いました。こんな時、あなたならどうしますか。意見を述べなさい。」
2つの意見が話し合いの場に出ている時、どうするかというような問題でした。(内容は違うかもしれません。)
ここでいう「意見を述べる」とは、話し合いの場に出ている2つのアイデアのどちらに賛同するか表明し、その理由を述べることでしょう。
今考えれば、学校の問題である限りそのような「意見」を述べなければならなかったのでしょうが、当時の私は言葉通りを理解し、こう答えました。
「しばらく様子を伺って、多数派の意見に賛成する」
なにが悪いのでしょうか。これが現実世界の処世術というやつです。
しかし、この回答にはバツがつきました。
意見が意見でない
なぜ?
私は、サッカーのスパイクが欲しいのです。
テストをもらった直後に、社会の先生に抗議にいきました。
そして言われたのが、「それは意見ではない」。
はひ?
多数派に巻かれるというのは、意見ではないのか。
現実世界は、対処につぐ、対処の嵐。
学校のテストだって、受験勉強だってそうです。
「限られた時間(資源)の中で、解ける問題(効用)を最大化する」
これを教えてきたのが、学校教育ではなかったのですか。
解ける問題を最大化するには、分かる問題から解けって言いましたよね!
逆に言えば、どうにもならないことは、無視しろってことですよね。
効率性を求め、勉強し続けた結果がこうでした。
効率化した意見
この社会のテストの問題に対して私が持った「意見」は、地球の環境問題は確かに大きな問題であるが、しかし、目下重要なのはこの退屈で、揉める価値もない話し合いをどう、角を立てずに終わらせるかということである。
「終わらせる」、言い換えるなら、「短い時間で、問題を解く」という視点に立つならば、対立を生むような立場をとることは非効率であるのだ。
ここで、立場という言葉を使ったのは、心のうち(他人に分からない)にある考えとしての「意見」と、考えとしての他人の前に表された「立場」を区別するためである。
この考えからすれば、「意見」には戦略があるが、「立場」には戦略がない。
広義には、意見が戦略を含むことは往々にしてあるのだが、ここでの「意見」には戦略がないものとしている。
100点にしろ
現実問題、この問題の回答が意見ではないとされたせいで、100点にはならなかった。
そして、結果、どの教科も100点には届かなかった。
終わった。
さよなら、サッカーのスパイク。
時は流れ、16年後。
今でも、この「社会の問題」は、私の心に刻み込まれている。
忘れることはない。
そして、私には「意見がまだない」。
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