『苦役列車』人生は旅やマラソンにあらず

人生に例えられるものは数多い。
旅、登山、マラソン...。
これらに共通するのは「明確なゴールに向かって、自らの意思で確実に一歩一歩進んでいくものである」という点だ。

が、第144回芥川賞受賞作『苦役列車』(西村賢太、新潮文庫)を読み、ハタと気づかされた。
人生とはそれほどまでに自らの意思および意志に基づいて歩んでいけるものなのか?
そもそも、何の位多くの人が各々の人生に明確なゴールを設定しているのだろうか?

人生を列車に例えてみる。
実は、乗客は自分の席が二等席か、一等席か、特等席か、そして、列車種別が鈍行か、急行か、特急か程度しかわからず、いったい、どこを走っているのか、ましてや行く先など全くわからないのではないか。

私小説『苦役列車』の主人公、19歳の北町貫多は、つまりは19歳の著者、西村賢太は、ぼろぼろで落書きだらけのごみ溜めの様な鈍行列車に、ほかの乗客らと共に席すらも与えられず、雑魚寝乗車していることを知っている。そして、この列車の全停車駅が等しく無様で、絶対に幸福な駅に停車することがないことも知っている。
(幸いにして、読者は西村賢太氏の作家としての成功を通し、北町貫多の将来が暗くないことを知っているのだが。)

話を戻そう。

我々にできることは、現在の乗車席と運航速度、そして、車窓からの眺めだけを頼りに、「次の駅で降りるのか、降りないのか」を選択するに過ぎないのではないか。

限られた情報を頼りに、なんとなく良さそうな駅で列車からエイヤと飛び降りる。

次にやってくる列車がどういう列車か、そしてその行く先もわからずに。
果たして乗るべき列車がその駅に停車するのか、あるいはそもそもその路線を通るのかどうかもわからずに。

さらには、乗車中に「終着駅はここです」と、無表情な車掌から突然言い渡されたりもするのだ。

「19歳の数カ月」から人生を演繹させた構成。その内容は一切の虚飾を廃した「一糸纏わぬ裸ん坊の私小説」(結果として内容は醜悪、体裁は無垢という正反対の取りあわせ)。それゆえに手触りは至極ドロドロであり、その一部は読者の皮膚を通じ、体内に沈殿する。

読み応え抜群の「私小説中の私小説」である。

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