『風の歌を聴け』「村上春樹小説の定義」と「普遍性の追求」

かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。

『風の歌を聴け』(村上春樹、講談社文庫)

すっかり忘れていたが、私にも確かにそんな時代があった。
しかしそれは長続きせず、「言わざる(猿)」の境地には至らなかったし、今は至るつもりもない。
また、村上春樹作品群に特徴的な、無味無臭な無機質的ライフに憧れもした。が、私がそのようなライフを過ごすことはまるでなかったし、この先もないのだろう。

「村上春樹小説」=「自分を含む、特別ではないみんなの啓発のためのもの」

さて、デビュー作やデビューアルバムにはその作家や音楽家のすべての萌芽が詰まっているともいわれる。村上春樹氏のデビュー作『風の歌を聴け』(1979年4月発表)においては、主人公である<僕>、その友人<鼠>、<僕>が最も影響を受けた架空の作家<デレク・ハートフィールド>らの言葉を借りて、彼が考える「小説および小説家の理想」が極めて分かりやすい形で惜しげもなく述べられる。
その中でも最重要部分を紹介したい。

【89ページ】
<彼女>と表現される登場人物より、ほとんど唐突に「A=B、B=C、ゆえにA=C」という、いわゆる三段論法の話が語られる。

【117ぺージ】
<僕>にどんな小説を書くのかと問われた<鼠>は語る。

「良い小説さ。自分にとってね。俺はね、自分に才能があるなんて思っちゃいないよ。しかし少なくとも、書くたびに自分自身が啓発されていくようなものじゃなくちゃ意味がないと思うんだ。そうだろ?」

上記二つを統合すると

自分自身=特別な人間ではない(≒みんなと同類)、
小説=自分自身の啓発のために書くもの、
ゆえに、
「村上春樹小説」=「自分を含む、特別ではないみんなの啓発のためのもの」

という理論が導かれるのだ。

令和を生きる我々は彼のその理想や夢の有言実行を知っている。
おそらく同作発表時の29歳の彼の想像を遥かに超えて。

「普遍性の追求」か、「特殊性の蓄積」か。

また、別の萌芽として、本作全般(特に中盤まで)を通して、彼得意の「何処かわからない無味無臭のクールで無期質な世界」が描かれる。
これはきっと「普遍性の追求」によるものである。
結果、読者は各々の経験に基づいた最もしっくりくる絵作りを促される。

「普遍性の追求」(演繹的)か、「特殊性の蓄積」(帰納的)か。
いずれも「多くの人に自分の思いを伝えたい」という目的は変わらないが、その手段は正反対である。

村上春樹氏は前者の代表格といえる。
また、海外展開視点においては「普遍性の追求」の方がより適切な手段なのだろう。
(逆に言うなら、日本的な日常風景や文化習慣のディテールにより具体的なイメージを読者に想起させ、その蓄積により確定的な絵作りを促す後者の手法は、外国人には通用しにくい場合がある)

彼の思いが、日本のみならず、海を越えて世界の人々に伝わり、支持・評価されることへの小さくない要因であろう。

村上春樹作品においては『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、短編集『神の子どもたちはみな踊る』と、いくつかの作品を読んだが、彼自身の人となりを知ろうとしたことはなかった。
しかし、本作『風の歌を聴け』を機に、彼自身への関心が高まった。
既読作品を再び手に取り、新たに未読作品にも触れようと思う。

完全なる「普通の人」である私は、本作により啓発された、といえよう。

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