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布教、そして伝道

布教
伝道


一語として語られることもあるこの2つ。
その違いはいったいどこにあるのだろうか。

この2つはニュアンスが違う。布教というと、我々浄土真宗本願寺派でいえば主に「ご法話」を指す。仏様のお話をすることを布教と言う。では、伝道はどうか。伝道はもっと広いイメージ。布教も広くは伝道だし、教えを広め伝えることが伝道と言える。ただし、この2つは明確に使い分けられているわけでもなく、なんとなしニュアンスの違いはわかるのだけれどはっきりと言語化できない。んな思いを表すかの如く「布教伝道」というずるい言葉もあったりする。恐らくだが学術的定義もできていないだろう。むむむ。むずかし。

布教と伝道の違い。ビビッときた。これはキーだ。住職として寺院活動をしていく上で何より大切な視点。ずっと考え続けていたけれど答えが見出せなかったそこにヒントを与えてくれたのはこちら。

心的レキシコン

の存在だ。メンタルレキシコン。本能的理解をしている言語。それが布教と伝道。本能的理解は自らのこととおけばこの上ない理解であるのだが、他方で当事者以外にとっては理解しづらい内容である。そればかりか当事者は本能的に理解しているので知識的説明ができない。ここをこうぐいっとやってバーンと、みたいなことしか言えない。

だけれども、「あ、これ本能的理解だ」と立ち返ることによって考え方を改めることができることにも気づいた。知識的理解だと思って語る本能的理解は、前提が間違っているので、そもそもなんだやばい。あれ、つまりあり。わかっているふりをして語るやつになりがちだ。

今日はかなり踏み込む。頭を使う話をする。覚悟はいいかな?
今日はキミと私の学びの時間だ。

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23歳のある日、私は住職になりました。突然のことでした。それからはや7年。何を考え、何を目指し、何を成して、何を失敗し、どこへ向かうのか。…

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