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本の風景「人間失格」太宰治(1948年)

読書月間

  2023年読書月間に「小中高生が読んだ本ランキング」(『読売新聞』10・28)が特集されていた。驚いたことに高校生男子の一位は太宰治の『人間失格』だった。太宰治は高校生を中心に支持を集めたと記されていた。太宰の死以来、彼の作品は。人生に悩む若者たちの永遠のバイブルであり続けているのだった。人気女優の吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれ、現在、村上春樹ファンは「ハルキスト」と呼ばれている。太宰治ファンは「ダザイスト」と呼ばれた。彼らは決まって長髪で、一見自堕落な雰囲気を漂わせていた。そして女性にもてた。しかし、それは昔の話だ。

『人間失格』

私はある男の写真を見ている。一枚は、醜く笑っていて、「へんに人をムカムカさせる表情」の幼年時代。二枚目は学生時代。恐ろしく美貌だが「生きている感じが」ない。三枚目は最も奇怪で「表情もないばかりか印象もない」。

そして、写真の男の「手記」が始まる。
「恥の多い生涯を送ってきました」と。

私は東北の田舎で裕福な大家族の中で育ったが、人間の営みというものが理解できなかった。そこで考え出したのが「道化」だった。無邪気な楽天性を装いつつも、常にお道化(どけ)ていた。

続く第二の手記。高校生の私の人間恐怖はつのるが、道化の「演技は実にのびのびして」くるのだった。私は「淫売婦のふところ」で眠り、「非合法」ゆえに共産主義の秘密集会にも出席し、相かわらずのお道化を披露した。お道化る私を愛した何人かの女性たちと関係していく。そして、夫のある女と情死、女は死んで、私だけ助かる。 

第三の手記は、相変わらずの酒浸りと放蕩の「男めかけ」のような日々。「京橋」のバーのママのところに転がり込んだ際、近くに住む。「ヨシ子」という名の娘と、「馬鹿な詩人の甘い感傷」と思いながらも結婚する。しかし、ある日、よし子が知り合いの男に犯される。それを目撃した私は、その場を逃げ去った。以来、よし子はおどおどし、私のお道化の日常がくりかえされる。私は、死にたい、死にたいと言い続け、睡眠剤を大量に飲み、モルヒネ中毒となって、精神病院に隔離される。まさに廃人。人間失格。『手記』は終わる。

 その「手記」は京橋のママに送られてきて、空襲にも不思議と助かった、と、三枚の写真を知る「私」にママは言う。「私たちの知っている葉ちゃんは・・・神様みたいないい子でした」と。

無頼派・太宰治

太宰治

 大戦終了後の混乱期に反社会的、反道徳的、反日常的などの姿勢を描いた、太宰治、坂口安吾らの一連の作家たちを「無頼派」と呼んだ。彼らにはまとまった同人誌はなく、作家自身が自らを「無頼派」と名乗った。従前の文学作品を拒否し、自身の欲望に忠実であろうとした。「無頼」は時代への反骨であり、「無頼」であるためには、無頼であることへの居直りが必要であった。しかし、太宰にはその居直りはなく、居直りの演技、つまりは「道化」を演ずるしか生きられない悲しみがあった。「それが自分の人間に対する最後の求愛でした」(『人間失格』)。一方、太宰は「芥川賞」には執着した。選考委員の川端康成や佐藤春夫に「賞は私に下さいますよう伏して懇願申し上げまする」と、恥も外聞もなく書き送る。そして、落選すると、「私は憤怒に燃えた。・・・大悪党だと思った」と、なりふり構わず川端を罵倒した。「無頼」の演技と「道化」の悲しみは、結局、死への道程しか残されていなかった。愛人山崎富栄と玉川上水に入水する、その際、山崎は太宰の手首を自分の手首にしっかりと結わえ、太宰の懐に石ころを詰めた。二度と「未遂」とならないように。

桜桃忌

太宰は『人間失格』を書いたその年、1948年6月13日に、愛人の山崎と玉川上水に入水心中した。39歳の直前であった。以来、太宰の誕生日である「6月19日」は、「桜桃忌」として、三鷹の禅林寺で法要が営まれている。今も多くのファンが訪れる。また、2023年12月15日、三鷹市の築90年の跨線橋が老朽化のため取り壊されることになり、「渡り納め」イベントが開催された。それは「太宰の愛した跨線橋」として有名だった。晩年の太宰はこの跨線橋が気に入っていた。イベントには三千人を超すファンが詰めかけた。太宰の人気は衰えない。

 太宰は、「無頼」を演じ「道化」に生きながら、いつも「罪」を恐れていた。「紙に問う、無抵抗は罪なりや」。そして語る、「生まれてきてすみません」と。

太宰治は今も若者たちにささやく。(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2024年2月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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