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本の風景「老人と海」ヘミングウエイ(1952年)


老人


 ある時期まで「老人」とは遠い存在だった。50歳の時、「50年」の数字に驚いた。60歳になったとき「老い」が言葉から身体に染みてきた。70歳になった時、遂に「老人」の仲間になった。しかし「75歳」の時に役所から送付された、あの「後期高齢者」保険証には愕然とした。思えば、友人たちの訃報がしばしば舞い込み、時間が止めどもなく早く過ぎていく。

老人と海



 「彼は年をとっていた」。老人の名はサンチャゴ。老人の船が84日間も魚を捕れなかった。85日目の朝も、老人は一人で漁に出る。空が明るくなり始めるころにはかなりの沖に出た。太陽が輝き白雲が盛り上がっているだけの海を更に沖に出る。その時、吊り下げた綱に、強い手ごたえがあった。「老人と魚は静かな海をのどかに滑って」いった。夜が来る。そして、二日目の朝がきた。遂に魚は姿を見せる。船よりも大きなカジキマグロだった。「おれはあまり信心ぶかい方じゃない」とつぶやきながら、『アヴェマリア』の祈りを10回」唱える。太陽が沈み、三度目の太陽が昇った。「いよいよ戦闘開始だ」。魚は船の下を悠然と泳ぎながら、輪を描いて近づいてきた。老人は気を失いながらも、全身の力で、銛(もり)を魚の横腹に突き刺し、オールでたたきつづけた。魚は「その力と美しさとを惜しみなくみせつける」。遂に老人は魚を倒した。魚を船に括り付け、港に向かう。しかしその1時間後、血の匂いを嗅ぎつけたサメの襲撃がはじまった。最初の一匹はオールにつけたナイフで打ち倒すが、魚の4分の1は食いちぎられた。さらにサメは群れとなって襲ってくる。戦闘は終わった。「老人の船は軽々と海をすべって」いった。港に着き、やっとの思いで船から這い出し、後ろをふり返る。そこには魚の「大きな尾が白い骨と頭部のかたまりだけが」見えていた。

ヘミングウエイ


アーネスト・ヘミングウェイ


 ヘミングウエイ(1899~1961年)のように1880年代に生まれた世代は「ロストジェネレーション」と呼ばれた。青年期に第1次世界大戦が勃発し、世界大恐慌も始まり、西欧の築いてきた世界観、価値観等が「失われ」た。しかし彼らには失われたことへのセンチメンタリズムは一切なかった、ヘミングウエイの作品は「ハードボイルドリアリズム」と呼ばれる。彼はアメリカ人でありながら、第1次大戦ではイタリア戦線に従軍、また1937年にはスペイン内戦に国際義勇軍として参戦しフランコ政権と戦った。ピカソの『ゲルニカ』に描かれた戦いであった。彼らの文学は、理想や正義は語らない。作品『日はまた昇る』は希望を意味するのではなく、争いや戦い、愛や憎しみなど、人々の変わらぬ日常の空しさ、虚無に満ちた日々がまた始まることを意味する。そして1952年、53歳の時、『老人と海』は書かれた。まさにハードボイルドリアリズムの結晶だった。2年後「ノーベル文学賞」が授与される。
しかし・・・。

猟銃と死


 しかし、1961年62歳の時、猟銃で自らの命を絶った。『老人と海』は遺書だった。老人は「罪」についてしゃべり続ける。「愛しているなら殺したって罪にはならないんだ」。ヘミングウエイの人物たちは常に戦い続け、その戦いは孤独と虚無に満ちている。彼は人物たちを、風景も、きわめて突き放して、写実的、客観的に描く。そこには、人と人との内面感情のやり取り、すなわち主観的感情は、一切描かれない。それはまさに彼の徹底した現実肯定を表している。愛することは戦う事だ、と。生きていくことの罪は愛さないことにある、と。彼はすでにこの世界に戦いの場を、愛する場を、見失っていた。
大魚との戦いの後、「老人はライオンの夢を見ていた」。 死はライオンの咆哮に誘われたのかもしれない。(大石重範)

 

(地域情報誌cocogane 2024年1月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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