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本の風景「若きウェルテルの悩み」ゲーテ(1774年)


誰でもゲーテ

日本人でゲーテを知らない人はまずいない。1871年(明治四年)、明治維新直後には日本に紹介されていた。明治二〇年代に森鴎外が本格的にゲーテを翻訳し、日本中に広がった。「かのなつかしき山の道を しるやかなたへ 君と共にゆかまし」(『ミニヨンの歌』)を多くの若者たちが口ずさんだ。さらにはゲーテが死の間際叫んだとされる「もっと光を」は(実際は様子が違うようであるが)詩人ゲーテの最後の一言として「名言集」に欠かせない。

若きウェルテル の悩み



 「いざロッテ!死の陶酔をのみほすべく、・・・あなたのために死ぬのだという幸福にあやかりたい。・・・弾は込めてあります。十二時の鐘が鳴っています。ではロッテ、ロッテ!さようなら!」。最終章、ウェルテルは書き残す。
 ウェルテルは都会の生活から、ヴァールハイムという小さな村に逃れ住む。そこは「自然のみが無限に豊か」で、「友よ私は幸福だ」と、友人に書き送る。そんなある日、舞踏会へ行く馬車の中で『天使』に出会う。「理知的で、しっかりしていながら、しかも無邪気」な
ロッテを一瞬で愛し、ロッテもウェルテルに好意を示す。二人は村の隈々を歩き、語り、常に共にあった。それは「幸福な日々だった」。しかし、ロッテにはアルベルトという婚約者がいた。そして彼は旅から帰ってきた。彼自身もウェルテルを歓迎し、三人の奇妙な日々が始まる。ウェルテルはふざけ、「道化のまねやきちがいじみた行動」をとり続け、彼もロッテも共に傷つく。そして遂に、誰にも告げずに村を去る。しかし新天地は彼の魂の居場所とは程遠く、再びロッテのいる村へ舞い戻る。ロッテはすでに結婚していた。ウェルテルは狂おしさと、空虚さを抱えながらも、ロッテをひたすら求める、ロッテはウェルテルを求めながらも、彼を遠去ける。ある日、アルベルトの不在の日、ウェルテルはロッテの唇を奪う。その時、ウェルテルは確信する。「あの人は自分を愛している」と。その夜、ウェルテルはピストルを手に取る。

ゲーテ



ゲーテ(1749~1832年)は大学卒業後、ライン地方にある帝国高等法学院で実習生として働き始めた。その交わりの中で、ゲーテは親友「ケストナー」の許嫁シャルロッテを恋するようになった。ケストナーは、はじめは温かく見守っていたが、徐々に険悪となってきた。その夏の終わりに、ゲーテはその地を去る。同じころ、別の友人が、人妻との恋からピストル自殺をした。『若きウェルテルの悩み』はこの二つの経験をベースにしている。この小説は発表と同時にドイツ中の若者に支持され、ゲーテは25歳にしてドイツ精神の「華々しい旗手」となった。26歳の時、ワイマール公国に行政官として招かれ、後には宰相を務め、貴族にも任命された。以降、『ファウスト』『詩と真実』など、作家、詩人としても活躍し、文人宰相と呼ばれた。

黄色いチョッキ


 ウェルテルがピストル自殺をした時の服装は「青い燕尾服に黄色のチョッキと黄色のズボン」だった。若者たちは熱狂した。その頃のドイツ精神は、英雄たちや神話の人物たちの物語が主流の「古典ロマン主義」だった。ウェルテルの一途な恋と絶望、激しい自己否定と肯定、自由への憧憬と死への誘惑、社会や権威への反抗等々、個人の内面の激しい葛藤が、青年たちの心を捉えた。若者たちの多くが、黄色のチョッキと黄色のズボンで自殺を図った。その流れはヨーロッパ中に拡散した。ライプチヒでは罰金を課して出版を禁止した。
74歳のゲーテは19歳の「ウルリーケ」を恋した。その年齢差は55歳だった。正式に結婚を申し込むも振られてしまった。ゲーテ愛の遍歴の最終章となる。
恐るべきゲーテ!(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2024年8月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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