「体育」ではなく「體育」      ~「身體との対話」を愉しんでいく~

私は、一日平均で15キロの距離を自転車で移動しているが、
あることを意識することで、この時間をかなり愉しめるようになった。

それは、「全身のチームワークを活かす」
ということである。

向かい風が強い時や暑さで怠い時ほど、
この意識が役に立っている。

◆「全身のチームワークを活かす」
風の強さや暑さの辛さに注意を向ける代わりに、
自転車を漕ぐため全身で力を合わせることに注意を
向けるようにするのである。

どうせ自転車を漕ぐのならば、
何らかの発見をひねり出す機会にしたいからだ。

そこで體に意識を向けると、各部位ごとにきつさが違うことに気づく。

例えば、ペダルをこぐ脚部付近に負荷が集中しているのだが、
それと比べて腕や胴体はそれほど忙しく動いていない。

この負荷の偏りを平らにできれば、もっと楽に自転車を漕げるはずだ。

そう考えて、脚部の負担をどうやれば全身に分散できるか考えてみると、
まずは背骨や骨盤を動かしてみようと思いつく。

体幹部の筋肉を動かし、それを背骨のうねりを通じて骨盤に伝えれば、
自ずと脚部にも伝わるので、2割ほど楽になるのを感じる。

そこでさらに活用できる部分はないか探してみると、
ハンドルを握る腕部と胸部に余裕があることに気づく。

なので、ハンドルを握る力を腕を通して背骨に伝えるようにすれば、
それがさらに脚部へと伝わる。そこで3割ほど楽になる。

このような感じで、

他の部位からも力を借りて脚の負担を分散するようにしていくと、
向かい風の強さや暑さがそこまで気にならなり、
意識はただ、全身で自転車を漕ぐことにシフトしていった。


◆「注意の向け方と解釈の仕方で概念は変えられる」
この経験から、やはり物事は
「注意の向け方と解釈の仕方に尽きる」
と実感できた。

また、「自転車を漕ぐ」という事に対する概念を
「単なる移動」と捉えるか、「體と対話する機会」と捉えるかで、
その意味と目的と達成感が変わってくる。

暑さと風の抵抗という「きつくてダルイ要素」も、

自転車漕ぎの概念を変更することで、
「面白さを発見するためのきっかけ」と再解釈することもできたのだ。

さらには、「運動」というものの概念も変えることができた。

これまで、私にとっての「運動の概念」とは、
体力を使ってカロリーを消費するという義務的で辛さを伴う作業
というものであったが、それを「身體と対話し、その力を総動員する技術
の練習」というものに変えることができたのだ。

身體との対話なので、自転車漕ぎのみならず、
色んな運動に応用ができそうだ。
そうなると義務感というものも無くなってくる。


◆「体育」ではなく「體育」
そういえば私は学校教育の「体育」という科目が大の苦手だった。
所謂「スポーツ」とやらができず、走るのも極端に遅かったからだ。

勝敗や優劣を争う競技はどうも肌に合わなかったが、

ここ最近、「からだを動かす」ことが面白くなったのは、
「体育」から「體育」にシフトできたからだと思う。

学校を卒業すれば「体育」の授業がなくなり、
人よりも早く走ったり上手くスポーツをすることが
評価される機会は激減したわけだが、

逆にからだを自分で維持管理する能力や技術の方が、
大事になってくる。

それを「體育」と呼んでいる。


◆「體」による「からだの概念」の変化」
ところで私は、「からだ」という概念を表す漢字として、
「体」ではなく「體」の方を採用している。

「体」の時には「手、足、胴体、首、頭部」という
ブロック単位で自分の身体を捉え、皮膚の表面積が
自分の身体意識の縄張りであったのが、

「體」に変えたら、まず「骨と間接」に意識がシフトし、
そこから筋肉、神経という風に、身体意識が多層的に
なっていったのである。

この御蔭で身體と対話することの面白さを知り、
あらゆる機会を見つけてはこれを愉しんでいる。


◆「たった一文字で変わる「からだ」を通した世界観」
「体育」というと、身体能力ばかりに注目され、評価の対象になるが、
「體育」ならば、「體とどう向き合うか」という各人の日常に応じた
個別具体的な対応の問題になる。

なのでそこには明確な優劣の基準などなくなる。
だから自由であるし愉しく味わい深い。

「からだ」という文字を「体」にするか「體」にするかで
その概念や価値観、さらには自分との向き合い方も大きく変わってくる。

私は、世間から評価されるためではなく、世界をより深く味わうために、
「體」を意識し、「からだの概念」を耕していきたい。


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