比較ではなく対比
「比較」というのはあまり意味がないと思う今日この頃。
私の知人に比較好きな人がいて、
その人の話が、ひどく虚しいものに思えてきたからである。
その人は学歴や収入に酷く拘りがあり、他人との関係性は、
「自分よりも上か下か」でしか築こうとしない。
自分の子供に対しても「偏差値の高い学校」や、
「収入や社会的地位の高い職業」に就かせることにしか興味がない。
収入は多いかもしれないが、ひどく貧しく息苦しい感じがする。
その人の御蔭で、
私の中に少なからずあった比較の意識を
解消しようと思えるようになった。
そもそも「比較」というものは何故やってしまうのだろう?
それは、自分の存在についての不安があるからやってしまうのではないか?
その「比較好きな知人」を観ていてそう思うのだが、
不安が強い人ほど、自分の優位性に執着しやすいようだ。
他者に対する自分の優位性を確認することでしか心の平安は得られない。
だから、なるべく自分が優位性を感じられるようにするため、
自分にとって比較優位性を発揮しやすい基準(その人にとっては偏差値や収入)のみを用い、その他の基準を一切無視し、他者のスペックを測定するのである。
つまり、比較というのは、
ある固定された基準でしか他者との関係性を
捉えようとしない精神状態の時に起こり易いのだと思う。
その人は、よく他人を「頭がいい・悪い」と評価したがるが、
その人にとっての「頭のよさ」とは、
学力偏差値のことだけを指しているようだ。
しかし、知能には、さまざまな種類があることを
この人はご存知ないようだ。
果たしてそれは「頭がいい」ことなのだろうか?
そう考えると、比較するという事の目的を考えると、
実は自己矛盾なのではないかと思えてしまう。
その人は、自分の頭の良さを確認したくて、
「学力偏差値」という基準のみを用いているのだが、
そのこと自体に知見の狭さが内包されていることに
気づいていないからである。
ただ、この知人のような「比較好き者」は、
「優位性を認め自ら屈服する存在」がいるからこそ、
蔓延ってしまうことにも注意したい。
つまり、優位に立とうとする者の欲求が叶えられるためには、
優位性の根拠となる「基準」を認め、
その劣後関係を受け入れる存在が必要となるのだ。
そういう意味では、「劣等感を味わいたがる人」
というのも2重の意味で問題だと思う。
一つはいうまでもなく、自分自身の可能性を狭めるという意味で。
二つ目は、「比較好き者」に養分を与えているという意味で。
ピラミッド構造というのは、得てしてこの両者の共依存関係
によって成立してしまうのではないかとも思う。
だからこそ、自分本来の価値基準というものを持ち、
比較意識を解消していく必要があると思う。
そのためには、「比較」ではなく「対比」に留めるようにすればいい。
例えば、自分の左足と右足を意識した時、
確かに利き足である右足の方が意識の密度が高いのだが、
だからと言って、右足と比較して左足を嘆いたり、
右足に優越感を持ったりはしない。
あくまでも、「左足と右足とでは感覚や出力の違いがある」
という対比に過ぎない。
対比は、観察や分析を行うための基準であり、
そこには優劣関係を導こうという意識はない。
なぜなら観察の目的が、あくまでもある一つの側面に
絞られているからである。
だから、あくまで違いを把握するという点に留まりやすい。
そう考えれば、この対比感覚を他者との関係にも
適用すればいいのではないか。
自分と相手、比較ではなく対比の意識で接すれば、
余計な優越感や劣等感を持つこともなくなりそうだ。
なぜなら、一つの基準に囚われなくなるし、
彼我の違いを愉しめるからである。
そう考えると、
比較ってすこぶるコスパとタイパが悪過ぎなのではないかと思う。
比較の概念にメスを入れることで、
比較という悪習慣を止めることができそうだ。