視点の次元という格差の最大要因
ある方が、
「理性を用いて感情や思考を一旦自分から切り離すことで、主観から客観へ視点をシフトできるが、こうした、主観から客観の視点のシフトは視点の次元を高めることだと言える。
視点の次元が違えば見える世界が変わって結果も違ってくる。
世の中の格差って、こういう”次元の差”が起点となっているのではないか。」
と仰っているのを聴いて、強く納得している。
「格差」というと、経済力や能力といった社会の中で評価され易い基準ばかりが注目されがちだが、
「視点の次元の差」こそが、本来論じられるべき「格差の最大要因」ではなかろうかと思う。
同じ格差でも、前者の格差を埋めるためには、大掛かりな政策や努力と時間を要するが、
後者の格差は、まさに「今、ここ」で自分が決断すれば、その瞬間に「自分事」として克服する方向に進めるものであろう。
「私が私が」というのは、自分という一点しか認識しない「点の視点」であり、1次元。
「私とあなたが」というのは、点と点をつないだ「線の視点」であり、2次元。
「私とあなたとその他の人々」というのは、線と線が結びついた「面の視点」であり、これも2次元。
更にそれらを上から俯瞰した視点が「立体の視点」であり、3次元。
そして、過去や未来という時間軸を踏まえてその立体の成り立ちと今後を洞察するという視点であり、4次元。
とまあ、視点の次元を自分なりにザックリとまとめているとこんな感じである。
ところで、今この文章を書いている場所は隣町のカフェだが、
大声で話し合っている2人組の客や、子供を野放しにして店内を走り回せている親子連れは線の視点であり、
所謂公共マナーというのは、少なくとも面の視点で状況を捉えることを促す機能を果たしているのだと思った。
また、「自分の集中が乱されている」とか、「公共マナーは守るべきだ」という認識に基づいて苛立っている私自身は、もしかしたら、私という「点の視点」で一次元になっているかもしれず、
コロナ禍以前の社会においてはそれほど客同士の会話は気にならなかったであろうことや、もし、私に子供がいたら、むしろそうした親子連れに共感を示していたかもしれないという4次元の視点で捉え直せば、1次元の視点でのイラ立ちから幾分解放されうるかもしれないだろう。
そう考えると、視点にこそ、「次元の概念」を活用したいと思えるし、視点の次元を高めるには、主観から客観に視点をシフトすべく理性を用いて感情を一旦切り離すという精神活動が必要だと思う。
どんなに学力が高く、知識や思考力といった「脳みそのスペック」が高くても、視点の次元が高いとは限らない。
逆に、世間的な基準でそれほどスペックが高いとは評価されにくい人が、視点の次元が高く、非常に素晴らしい言動をされる事例も多々見受けられる。
だからこそ、自分の視点の次元を日々意識したいと思っているし、誰もが少なくとも面の視点で日常を過ごせる余裕を持てれば、そう間違いは起こりにくいのではないかと考えている