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「医師脳の短歌狂騒曲:診察室から詠む人生の詩」

 医者とは、ある意味で客商売かもしれぬ。
 そのうえ、看護師や事務スタッフへの気遣いも欠かせない。
「こう言われたら、相手はどう感じるだろう?」と、常に考えて行動しているつもりだ。
 だが、生身の人間である。
 イライラが高じて、腹立ちまぎれに発した一言がもとで大騒動となり、その解決に大変なエネルギーを要した経験はないだろうか。最初に受けたストレスは、何倍にも膨れ上がって……。
 
 『徒然草』の第十九段に、吉田兼好もこう記している。
「おぼしきこと言わぬは腹膨るるわざなれば、筆に任せつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず」――。
 ならば我も、と始めたのが『短歌de繰り言』である。雅号は医師脳(いしあたま)とした。
七十歳(しちじふ)の手習ひなるや歌の道つづけてかならず辞世を詠まむ(医師脳)
 
 半世紀以上も昔のこと。
 青森高校で古文を習わされた。教師の名は忘れたが、脂ぎったオジサン顔と渾名だけは覚えている。
「無駄だよ」と十七のころ厭ひたる古文の教師の渾名は「ばふん」(医師脳)
 そんな生意気盛りが古希をすぎてから短歌を詠もうとは……。
趣味とはれ「短歌」とこたふれど未熟者ゆびをり数ふるななつむつやつ(医師脳)
生き甲斐が働き甲斐なる生活に「老い甲斐あり」とふ痩せ我慢もなす(医師脳)
「先生」と呼ばれ続けて半世紀いまや符牒のやうなものなり(医師脳)
老いはてて彼も汝も誰か薄れ去りいずれ消ゆらし吾の誰かさへ(医師脳)
五年余を「一日一首」と詠み続けやうやう今日で二千首となりぬ(医師脳)

 
 文語文法では、接続助詞「ば」の上に活用語の未然形か已然形が置かれる。  
「妻をめとらば才たけて見目うるわしく情けあり~」と、森繁久彌の節まわしが懐かしい。与謝野鉄幹が作詞した『人を恋うる歌』の風情ある歌いだしである。
 この歌は未然形(めとらば)なので仮定の文脈「もし妻をめとるならば」になる。
 これが已然形(めとれば)なら既婚者の歌になってしまう。
「妻をめとれば」で思い出す内輪話を披露しよう。
 新米産科医の頃、電話口でドップラー聴診器を妻のお腹にあて「孫の心臓の音だよ」と青森の両親に聞かせた。
 しかしエコー検査のない時代に胎児の性別など知るすべもない。
「男だ!」と若い産科医は分娩室で我が子を取り上げ大喜びした。
 そんなことも今となっては笑い話である。
長男の誕生日にと赤飯たく妻の後姿(うしろで)は母性そのもの(医師脳)
 
 女性が男性より長寿であることは論を待たない。
 寿命ばかりではなく、老化や病気においても〈性差〉がある。
 …脳や心臓、骨、筋肉などの老化。
 そして認知症や心筋梗塞、骨折などにも関与するのがエストロジェンである。
 ここに注目するものを「性差医療」と呼ぶ。
 東日本大震災のあと被災地で始めた〈クィーンズクリニック〉を思い出す。
 
 妻は(すこぶる付きの)元気者で(二つばかり)年下だから、当然みとられるのは私のはずだ。
 その一方、妻の産科〈元主治医〉としては「最期まで面倒を見てやりたい」という気持ちもある。
丹念にストレッチ済ましし吾が妻は腰いたはりつつ足の爪切る(医師脳)
七夕に天の川ながめ愚考せり。老ゆる夫婦の程良き距離を(医師脳)
意に反し妻を看取らば家を出で南の島の医者にて果てむ(医師脳)

 願わくは、百寿の医者(?)をめざす覚悟で、森繫久彌をまねて歌おうじゃないか。
「妻をみとらば我家にて、春らんまんの庭ながめ~」と、妻には聞こえぬよう小声で……。

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