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短編 「ある男」


 ある男の話。
 その男は優しさというものを知らなかった。
 家庭環境に問題があったわけではなく、不幸なことに彼は生まれつき優しさを感じる脳の機能(心の機能とも言える)がすっぽりと抜け落ちていた。
 他人から物を貰ったり気を遣われたりしても、彼は優しさを感じることができず、ただそういった現象が起こっていると認識することしかできなかった。しかし、彼は優しさという言葉の意味や優しさが存在している理由を知っていたので、他人から優しさと呼ばれる感情が起因の言動をされたときは、感謝の言葉や優しさを受けた取ったときの反応を見かけ上は正しく取ることができた。
 優しさを感じることができないのであれば自分自身も他人に対して優しくできないのではないか?
 と疑問に思う人もいるかも知れない。
 それは心配に及ばない。この社会では真の意味での優しさを知らなくとも充分に他人との関係を構築し生活していくことができるからだ。朝起きて、職場に向かい、決められた仕事を決められた時間までこなす。ミスやトラブルが起きたときは、それまでの長い年月で培われてきたマニュアルに従い適切に問題を解決する。自分のすべき業務を処理しさえすれば他人からの評価を下げることはない。帰りに肉や野菜などの食材を買い調理をして栄養を補給する。選び切れないほどの娯楽から好きなものを選択して時間を潰し、次の日の英気を養うために睡眠を取る。
 少し考えて欲しい。あなたやあなたを取り巻く環境には一体どれだけの優しさがあって、その優しさのうちどれほどの割合が優しさとして認知されているだろうか。
 あなたが優しさだと思っていることは誰かにとってはただのお節介やありがた迷惑かも知れない。逆にあなたが悲しみや怒りを感じる他人の言動には実はその人なりの優しさが含まれているのかも知れない。

 優しさこそ知らなかった彼だが、彼は両親に愛されていたし人を好きになることだってあった。好きになった人には愛の言葉を囁くこともできたし、教養やユーモアを持つ彼には親友と呼べる人間だっていた。休日には散歩をして自然を満喫したり、好きなバンドの新譜を聴いたり自らギターを奏でたりした。
 この社会を生きるうえで優しさを知らないことは彼にとって何の問題もなかった。
 たとえ彼の優しさの欠如による穴があったとしても、それは彼の周りにいる優しさを知っている他人が補ってくれた。

 この世界にはいくつもの欠陥があるがそれらは誰かの努力によって見えにくくなっている。そして幸か不幸か、その努力が日の目を浴びることはほとんどない。
 というのが彼の考えだった。

 そんな彼だが人生でたった一度だけ、優しさを感じるという体験をしたことがあった。
 彼が25歳のときである。
 大学院からの帰り、いつも乗っている地下鉄のホームで彼は手に持っていたいくつかの書類を落としてしまった。彼がそれを拾い上げ地上に続く階段を登ろうとしたとき後ろから声をかけられた。
「これも落ちてましたよ」
 彼の後ろには二人の女子高生がいて、そのうちの一人が紙を一枚こちらに差し出していた。
「あ、どうもありがとうございます」
 彼が(彼が普段そうしているように)そう言って紙を受け取ると二人の女子高生は地下鉄のホームに戻って行った。
 なぜ彼がそのときだけ優しさという感情を得たのかは分からないが、彼にとってその瞬間に湧き上がってきた感情は人生で初めてのものだった。
 自分より年下の異性と接する機会が少なかったというわけではないし、その女子高生の顔立ちが彼の好みにぴったりだったというわけでもない。
 彼が落とした紙を一枚だけ拾い忘れていたことに気が付いた女子高生が、それを拾って彼に渡したというだけのことなのだ。
 しかし彼はその些細な一幕で初めて優しさというものを感じた。
 地上に出た彼は家に向かうバスを待ちながらこう考えた。

 世界は優しい人で溢れている。しかし僕はそれを上手に知ることができなかった。それは過失10対0で僕の落ち度である。紙を拾って貰った僕はいつも通り彼女たちに感謝の言葉を伝えたが、本当にそれだけでよかったのだろうか。僕は僕に優しさを与えてくれた他人に対して、本当の意味で感謝の言葉を伝えることができない。丁寧にラッピングをしたお礼の品を渡すこともできない。僕にできるのは一人になったあとでいつまでも彼女らの優しさをくどくどと思い出すことだけじゃないか。
 僕にできることはもっと他にあったんじゃないだろうか────。

 実際に彼は家に帰ってからも彼女たちから受けた初めての優しさを忘れることができなかった。次の日も次の週も彼は外出するたび街に彼女たちの姿を探し、もしもまた出会うことができたらそのときは心から感謝の気持ちを伝えようと考え続けた。
「僕は今まで優しさというものを知ることがなかった。しかしあなたたちが僕の落とした紙を拾ってくれたとき、僕は初めて優しさというものを知ることができた。それは他の何物にも変えがたい素晴らしい体験だった。どうかあなたたちにこの感謝の気持ちを伝えたい。あなたたちが望むのであれば僕は何だってするつもりだ。その純粋で真っ直ぐな優しい心を汚せるものなどこの世には一つとして存在しないのだから」
 彼は彼女たちに再び会えたとき、彼女たちに自分の思いを一字一句伝えるための文章を何度も復唱した。
 そして、それはずっと続いた。


 それがもう25年も前のことである。
 現在、彼は50歳になり今年で51歳を迎える。
 その出来事のあとで彼が優しさというものを感じたことは一度もない。

 私は思うのである。
 彼は生まれながらの不幸にして人生でたったの一度しか人の優しさというものを享受することができなかったわけだが、果たして彼は優しさというものを‘知っていなかった”のだろうか、と。
 日々、ニュースやインターネットには優しさとはかけ離れた出来事や言葉が溢れている。その一方で地球に優しく、誰それに優しくなどという人々を扇動しようとする文言をあらゆる政党や公的機関が掲げているのを目にする。人は人をあの人は優しい、あの人は優しくない、良い人悪い人、と簡単に定義し、それがまるで自明のものであるかのように口にしている。
 果たして我々が常日頃から口にしている言葉、何かを指し示すときに使われる表現を我々は充分に理解しているのだろうか。そしてその言葉や表現が他人に与え得る影響をどれほどまでに理解できているのだろうか。
 私が感じることができるのは、同時にたくさん出た複数の中の一つに過ぎないのではないだろうか。
 そう考えると、もはや私には何もかもが分からないことのように思えるのである。

 50歳になった彼が今どうしているかは分からない。
 もしかすると彼は今でも、見かけ上は普通の社会生活を送りながらも、あのとき紙を拾ってくれた女子高生に伝えたい言葉を何度も練り直しているのかも知れない。
 たとえそうだとしても私は彼をおかしな人だとは思わない。
 決められた目的のために発せられる音にしか過ぎない綺麗なだけの文言に比べ、伝えられる確証もないまま幾度も紡ぎ直される音にはならない想いの方が、遥かに美しい言葉だと私には思えるからだ。

 伝わることなく死んでいったすべての美しき言葉たちに愛を込めて。


 2023/06/16 渡辺浩平


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