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「体調は愛を世界う」(体調が悪いときに友達に送った文章)

 6日前くらいから体調が悪かった。社会を構成する一員としてこなさなければならない人間的なコミュニケーションが立て続き、私の心は疲弊していた。いくつかの任務を終え、ホッと一息つくと次は実際的な病に犯された。喉が痛くなり鼻水が止まらなくなった。身体の節々が痛くなり気怠さに包まれた。
 それは風邪だった。
 風邪はクソである。
 久しぶりに体調を崩して思ったのは、体調が悪いときに世界平和を考えることは絶対にない。ということだった。
 どこかの遠い国で銃弾が飛び交い、罪のない子供たちが何百人殺されようが、そこに自分の体調の悪さに勝る悪を見出すことはない。
 戦争、殺人、人身売買、大災害、飲酒運転、テロ、ヘイトスピーチ、セクハラ、いじめが原因の自殺、芸能人の性的暴行、裏金問題、大陸間弾道ミサイル、犬の放し飼い、他多数────。
 世界で何が起きていようと、自分の体調の悪さを越える問題はひとつとして存在していない。
世界は自分の体調によってその姿を変える」
自分の体調が良いとき、私たちは世界に目を向けることができるが、体調が悪いときはそんなことをしている暇も気力もない。
「この世を良くするんだ!」と自分の意見の正しさを認めてもらいたい一心で、何だかんだと愚論を垂れているゾンビ人間共も、生牡蠣で食中毒を起こし下痢と嘔吐を繰り返し続けている間は、その饒舌なお口を閉ざすに決まっている。
 まったくもって世界は決まった形を持っていない。
 その時々の自分というソフトに合った形に自由自在に変形するハードなのだ。
 自分自身の生活や能力など、現状の環境に不満を持っている人間にとって、世界は自分を貶めるための「わるいばしょ」になってしまっているわけだ。特定の属性を妬んだり羨んだり、摩訶不思議な陰謀論を振りかざしている人間のほぼ全員がそういう哀れな病人である。

 大切なのは栄養バランスの取れた食事を摂ること。適度な運動をし、よく眠ること。

 体調は世界を救う。いや────

 体調は愛を世界う。



昨夜、体調の悪さがピークを迎えていた私は友達に文章を書いて送った。
体調が悪いときに文章を書くのは初めてだったかも知れない。少なくとも昨夜ほどの体調の悪さで文章を書いたことはない。
現在、私はそれなりに調子を取り戻し、本来の健康的な人間に戻りつつある。明日からまた規則正しい生活を再開するつもりだ。
人生において何よりも大切なのは自分自身の健康である。
狂った環境活動家の声に耳を傾けることなどでは断じてない。

 (以下、体調が悪いときに友達に送った文章。と、最後に一枚の画像)

 *


「君はカメラを意識し過ぎているよ」

 監督と呼ばれる男は彼女にそう言った。
 女は無名のAV女優で、単体作品はまだない。
 単体作品とはある特定の女優一人を主役として作られるアダルトビデオのことで、容姿の優れた女優やメーカーが売り出すために特に力を入れている女優が抜擢される。
 つまり彼女は名前のない企画女優の一人だった。
 先に書いておくが、今後も(彼女が33歳でAV女優を引退するまで)彼女の単体作品が世に出ることはなかった。
 遠慮なしに言えば、彼女はそれほど美人ではなかった。小学校のクラスで考えれば、上から9.10番目といったレベルだろう。
 君の記憶を辿ればよく分かるはずだ。
 クラスで一番かわいいあの子が、水の入った掃除用のバケツを運ぶのを男子に手伝ってもらっているとき、同じ量の水が入ったバケツを自分の力だけでせっせと運んでいた、何の特徴もない放送局員のあの女の子のことだ。
 彼女の立場を考えると、見るも無惨な劣等遺伝子を受け継いだ伝説級のブサイク女はなんと幸せな出身だろうと思う。
 幼い頃からこの世のルッキズムの被害者として望まない罵詈雑言を浴びせられ、さまざまな不平等に晒され続けてきたブサイク女は、長い我慢の末、この世界での自らの立ち位置を把握し、節操のある言動と広い視野を手にすることができる。
 それは哲学的テクニックに変換され、分厚いコミュニケーション能力を構築し、勉学や芸能への意欲に昇華されることになる。
 マイナスがプラスになる。短所が長所になる。先天的な障害を持った身体の弱いフリークたちが地方を巡業するサーカス団員として活躍したように、突出したブサイクにはそれぞれ宿命的な役割が与えられることになった。
 見た目こそ普通な彼女だったが、女であるということにはもちろんそれなりの価値がついた。高校一年生の時に初めての彼氏ができ(同じ吹奏楽部でホルンを吹く二年生だった)、16歳で初めてのセックスを経験した。処女でなくなった女の性的衝動は広がりを見せ、ホルン吹きと付き合いを続けながら、三年の「digiuno」というスリーピースバンドのベーシストと肉体関係を持ち始めた。
 ベーシストの方からの熱烈なアプローチだったという。
 女性誌に載っている流行りのメイクを真似て、ブラウスの第一ボタンを開け、言葉の節々に性的交渉可能性をチラつかせれば、大抵の男は彼女を好きになった。
 三年に上がり、部活の引退を境にホルン吹きとの恋愛関係は自然消滅したが、地元の音楽専門学校に進学したdigiunoのベーシストとは、高校卒業までの間、月に何度かセックスをする関係を続けていた。
 高校卒業後、彼女は東京の内装工事会社の事務職に就職した。上京後もベーシストとは連絡を取り合っていたが、その年の12月にdigiunoは解散し、年明けから間もない1月5日、ベーシストはバイクの単独事故でこの世を去った。上半身と下半身が真っ二つになったベーシストの身体からは、基準値の8倍以上のアルコールが検知されたという。
 彼らのバンド名の「digiuno」とはイタリア語で「絶食」を意味する言葉で、ギターボーカルのS曰く、バンド名を考えたのはベーシストで「音楽で食えないなら食べ物なんかいらない」という意味が含まれているとのことだった。
 ちなみに身長172cmのベーシストは、体重89kgでBMI30.08肥満度2の小太り体型だった。
 彼が頻繁に通っていたというモスバーガーで貯めたdポイントは1235ポイントだったという。

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「君はカメラを意識し過ぎているよ」
 監督と呼ばれる男は業界ではエスパニョール高橋と名乗っていた。
 本名は高橋英樹と言い、同姓同名の俳優 高橋英樹は越後製菓やサントリー黒烏龍茶のcmで観ることができる。
 彼のその発言は未来のない彼女に対するささやかな優しさでもあった。もし正直に言ってしまっていいのであれば彼はこう言っていただろう。

「君は何か大きな勘違いをしている。まずはその太い土色の脚で建て付けの悪いボロアパートに帰り、カビだらけのユニットバスの水アカだらけの鏡で自分の顔面を拝んでみるといい。一体この世界のどこに大事な一回の射精をその顔面で消費したい男がいるだろうか?その中国製の空気清浄機の説明書みたいに退屈な顔面の下に、Gカップ、いやHカップの乳房がついているならまだ救いはあるが、そこにあるのは、大衆居酒屋の薄汚れた喫煙室に置いてある薄いステンレスの粗末な灰皿2つだけじゃないか。悪いことは言わないから早くこの世界から足を洗いなさい。残念ながら今の君にはもう価値はない。女であることに価値があるのは、飛び抜けた容姿を持っているか、あるいはせいぜい22歳くらいまでなんだよ」
 その日に撮影されていたアダルトビデオのタイトルはこういうものだった。

『雌!牝!メス!めす!どこへ逃げても女だらけの種付け地獄!米軍開発の強力媚薬が投下された広◯県の大乱交の夜!』

 *

 家に帰った女は風呂場でメイクを落とし身体を洗った。
 ボディソープをまんこの毛で泡立てて陰唇の間を指で擦った。ちんこを咥えていた口をイソジンうがい薬を使って入念にゆすいだ。シャンプーをした後、通販のセールで買ったコンディショナーを髪に馴染ませた。
 脱衣所代わりのキッチンでドライヤーをかけていると、昨日よりも枝毛がひどくなっていることに気が付いた。まだ人に指摘されることはないが、日々、若白髪が増えていることがよく分かった。
 女はまだ髪が乾き切ってない状態で頭にタオルを巻き、冷凍食品のエビとイカのペスカトーレを電子レンジに入れた。
 パスタを食べながら、YouTubeの登録チャンネルの動画をチェックした。大学生男女4人のチャンネルと仲が良すぎると話題の兄(25)と妹(17)のチャンネルがお気に入りだった。

 気がつくと日付が変わっていて、女は歯を磨き、うんこを少しとおしっこして眠りについた。
 明日は撮影はなく、コールセンターのアルバイトが入っている。日本橋にある雑居ビルの2階に構えた小さなオフィスで、派遣社員として雇われている彼女は周りのパート社員より時給が120円高かった。
 AVに出演していることは誰にも言っていない。そもそもコールセンターという職場は、従業員同士が会話をする機会があまりない。
 それでも、最近喫煙室でときどき話す男の従業員がいた。彼も彼女と同じ派遣会社の登録者だった。男は彼女の6歳年上で、名をサイトウと言った。今年11歳になる男の子を一人で育てているのだという。なぜ奥さんと別れることになったのかはまだ聞けていない。彼女はその男に惹かれているわけではなかったが、彼女にとってその男は唯一繋がっている「まともな世界」の男だった。日々、ちんこを咥えたり、まんこにちんこを出し入れされてる彼女だったが、そのほとんどが名前も知らない、一度きりしか会わない男だった。
 彼女は布団の中で明日会うかも知れないサイトウのことを自然のうちに考えていた。サイトウは私のことをどう思ってくれているだろう。もし少しでも好意を抱いてくれていたら嬉しいな。と彼女は思った。サイトウを男として良いと思っているわけではなかったけれど、サイトウという「普通の男」が自分の物語の登場人物にいることが、彼女にとっては貴重なことだった。そして、妄想は飛躍し、もしもサイトウと付き合うことになって結婚することになったら、11歳の息子が自分の子供になるのだなと考えた。それはとても不思議なことだった。出産はもちろん妊娠もしたことがない(19歳の時に一度だけ人口妊娠中絶はしたことがあった)自分に突然、子供ができる。しかも、どこかの女が産んだ子供が。
 彼女はいつか自分も母親になるときが来るのだろうな。とは思っていたが、自分の遺伝子が受け継がれるということには抵抗を感じていた。それがもし女の子だったら、またきっと自分と同じ運命を辿ることになるだろうと思っていたのだ。

────監督、私もっとこの業界で認められたいのですが、どうしたらいいんでしょうか?
 撮影後の自分の言葉が鮮明に甦ってきた。
 私は一体何がしたくて今こんなことをしているのだろう。

 お金が欲しかった?
 有名になりたかった?
 男に必要とされたかった?

────私は大きくなったらアイドルになって、テレビで歌を歌ったりダンスをおどったりします。そしてお正月の歌番組に出て、それを家族のみんなが見てくれるのが将来の夢です。

 ニュースアプリ グノシーからの通知が来たiPhoneの画面が光る。
 時刻は0:59
 もう眠らなければ。
 明日も仕事をして生活費を稼がなければいけない。今は何も考えず、ただ眠ればいいのだ。

 *

 その夜彼女は夢を見た。
 夢には彼女が小さい頃、大切にしていたクマのぬいぐるみが出てきた。彼女はそのぬいぐるみに「プッチ」という名前をつけていた。
 夢の中で彼女とプッチは広い草原に寝転んでいた。そこには彼女とプッチ以外は何もなかった。遠くを見渡しても緑色の草原が永遠に続いているだけだった。
 彼女はプッチのお腹に頭を乗せた。プッチは実際のサイズよりずいぶんと大きかった。彼女はいつまでもプッチとその草原にいたいと思った。

 今まで経験した何もかもを忘れて、全部思い出せなくなって、ただ草原を抜ける静かな風を感じていたいと思った────。



 追記) 彼女がプッチと名付けたそのクマのぬいぐるみは、1990年に中国の玩具メーカー「DOMAチャイナ」から発売されたぬいぐるみで、とある有名キャラクターに酷似しているということから、発売から僅か3週間で生産終了となったことで有名である。ちなみに同社はその騒動の6ヶ月後に本社ビルを全焼させてしまい、事実上の倒産となった。出火元は社員食堂のキッチンで、その日のメニューだった回鍋肉を作っている最中の出来事だったという。

 以下、そのクマのぬいぐるみのイメージ画像を貼ってこの話は完結となる。











 

 2024/01/31 渡辺浩平

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