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助けられるということ。

私は数年前に大病を患い入院していた時期がある。
コロナ禍だったこともあり、面会には制限があって誰それと面会に訪れる事はできなかった。
入院生活を終えて無事に退院をし、挨拶をしに叔父に会った時の事。
叔父は私の姿を見るなりポロポロと涙を流して私の退院を喜んでくれた。
まさかそんなに心配していてくれたとは思わなくて、ハグをされた瞬間に私も釣られて泣いてしまった。
初めて助かってよかったと思った瞬間だったかもしれない。

叔父は、小さい頃から私達家族を良くしてくれてきた人だ。
お年玉なんて小さい子にあげるような金額ではない額をホイホイとくれたりした。
小さい頃から可愛い可愛いと言ってくれて好きなものを買ってくれたりもした。
一度も怒られた事もないしいつも可笑しな事をしてよく笑わせてくれていた。
そんな子煩悩な叔父は独り身で子供はいない。
そんな叔父からしたら私達家族は本当に自分の家族のような感覚なのかもしれない。
そして現在、叔父は免許がなく仕事もしていないので買い物なども私達家族が連れて行ったり買って持って行ったりなどしている。
正直、既に介護の一端を担っているようなものでしんどい時がある。
仕事をしている時は特に、貴重な休日を叔父の為に割く時間を育ててもらったわけではないのに何故ここまでしなければならないのと思ってしまう時もあった。
しかし、そんな時やはり思い出すのだ。
叔父にしてきてもらったことを。

愛は与えたら与えられるのだと思う。
助けてもらったら助けたくなるのだと思う。

叔父はそんな忖度をしてきたわけでは無い事はわかっている。
純粋に愛しいと思ってくれて純粋に生きていることを喜んでくれた。
それが私の心を突き動かしている。
葛藤を凌ぐほどに。

また、叔父はよく人の手伝いに出かけていく。
呼ばれれば駆けつけていく。
何かを貸してくれと言われたらホイホイ貸すし何でも人にあげる。
その為か、道行く人から頂き物をしたりなどもよくするし、叔父が困っていたらまた人が手伝いに来てくれたりもする。
きっと皆同じなのではないかと思う。
叔父の忖度のない優しさに助けられた人もいるのだと思う。
そうして助け合って生きている。
与えて与えられて生きている。
私にはまだ少し難しい事だが、私も忖度のない優しさで誰かを助けられたらいいなと思う。
そして叔父への感謝を忘れずに、何度でも思い出していくのだ。


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