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9 戒名をめぐる仏教と社会のズレ/イオンとアマゾンをめぐるお布施論争⑧

 実は全日本仏教会では、このイオンとの間に騒動があった約十年前にも、似たような問題が起きている。

  それは平成九年六月二十一日の朝日新聞の朝刊に、浄土宗宗務総長で作家の寺内大吉氏(ペンネーム/本名は成田有恒)と宗教学者の山折哲雄氏の対談が掲載されたことがきっかけだった。

  対談のタイトルは「戒名はいる? いらない?」である。

  対談では、それぞれの立場から、戒名の意義や歴史などについて淡々と解説していたが、司会の「戒名料というのはどうですか」との質問を受けて、寺内氏が、ざっくばらんな意見を述べ始めたのである。 

寺内 『お戒名は?』と聞かれたら、私は檀家の方にはっきり言っちゃう。『おたくは年が若いんで、院号をどうしても希望するなら五十万円ぐらいはどうだろう』『おたくのご主人の一ヶ月の給料くらいの基準で考えておくれよ』と。 
山折 サラリーマンの感覚では高すぎるのでは? 
寺内 そりゃそうです。でも、一生に一度のことだから。
山折 寺の経営にかかわる? 寺内 そうです。何も恥ずかしいことではない。坊主自身がそのお金を変に使おうとするから恥ずかしいんであってね。

  寺内氏は前述の通り、当時、浄土宗の宗務総長という重責を担っていた。浄土宗というのは、法然上人を祖とし、京都の知恩院を本山とする宗派で、全国に約七千の寺院を有する。宗務総長というのは、浄土宗の行政的な代表者で、日本という国における総理大臣のような存在である。ちなみに浄土宗には、浄土門主という代表者もあり、それは宗教としてのトップで、日本における天皇のような存在だ。

  寺内氏は、僧侶としては異色の経歴を持っていて、作家として『はぐれ念仏』という作品で直木賞を受賞している。スポーツ評論家としても活躍し、ラジオなどで、野球、ボクシング、競輪の解説をすることもしばしばだった。

  だいたい新聞などで発言をする人は、丁寧に言葉を選んで、失言にならないようにするものである。しかしこの寺内氏というのは、言葉に衣着せぬ発言というのも魅力のひとつで、前掲の発言も、寺内氏らしい率直な意見であった。

  これが、一僧侶、一作家としての発言だったら、さして問題にされることもなかったのだろう。だが当時の寺内氏は、浄土宗を代表する宗務総長という立場にあった。この発言が、戒名を売り物にするような誤解を与えかねないとして宗派内で批判の声があがったのである。

  そしてその批判を受けて、寺内氏は責任をとって宗務総長を辞任するという事態に追い込まれたのである。その後、寺内氏は選挙で再選され、再び宗務総長になるが、これをきっかけに、戒名の問題に注目が集まるようになってきた。マスコミでも取り上げられることが増え、仏教界内部からも批判や反省の声があがってきたのである。 

 こうして全日仏も、「これは一宗派でというより、仏教界全体で取り組むこと」(白幡憲祐全日仏理事長/当時)として、「戒名問題に関する研究会」を設置し、議論を始めたのだ。

  第一回の研究会は、九年十二月四日、京都で行われた。この時、戒名問題について考える上での問題提起として、仏教大学元学長の水谷幸正氏が「戒名(法名)問題の意義——仏教の現代的課題」と題する講演を行っている。

  水谷氏はこの時、「戒名の問題に関しては(中略)よりよい方向に改善していくことが重要であると思う」「戒名は大いにやるべきであると考える」「戒名料は廃止すべきである」といった発言をしている。そして、この講演が、その後の全日仏における戒名問題の取り組みの方向性を定めたとも言える。

  その後、全日仏は、「葬儀のこれからを考える」と題するシンポジウムを二回にわたって開催、同時に「戒名(法名)問題に関する研究会」を重ね、議論に議論を重ねていく。そうして寺内氏と山折氏の対談が朝日新聞に掲載されてから約二年半の後、研究会は報告書を提出した。

  報告書は、議論された様々な意見を述べた後、次の二つの結論を述べる。

 一、今後、「戒名(法名)料」という表現・呼称は用いない。  仏教本来の考え方からすれば、僧侶・寺院が受ける金品は、全てお布施(財施)である。従って、戒名〈法名〉は売買の対象ではないことを表明する。
 二、戒名(法名)の本来の意義を広く一般に知らしめるため、主な宗派から資料をご提供いただき、全日本仏教会が以下の内容のリーフレットを作成して、必要な所へ配布する。 
①当該宗派に於ける戒名(法名)の教理的な意味、
②戒名(法名)に関する当該宗派の規定〈例えば院号)又は慣行、
③一般信者が生前に戒名(法名)を受ける方法、④戒名(法名)に関する一般信者等からの相談窓口 

 この報告書の最も重要なところは、一の「今後、「戒名(法名)料」という表現・呼称は用いない」ということである。

  つまり戒名というのはお布施であって、売り買いの対象ではない、つまり料金ではない、ということだ。

  これは、全日仏が全国の僧侶に対して、戒名(法名)料という言葉を使わないように、という指導の意味合いと同時に、今後、仏教界では戒名(法名)料という言葉を使いません、という一般社会に対する宣言でもある。これが徹底されれば、戒名に関する問題は無くなっていくはずだった。

  しかし、この約十年後にイオンと全日仏の間で同じような論点で騒動がおこる。同じような問題が起きてしまうということは、報告書から十年が経過しても、お布施問題、戒名問題が、何も改善されず、何も変わっていなかったということである。

  この報告書の後、「戒名料」という言葉を使わなくなった僧侶もいる。しかし現実には、依然として「戒名料」という言葉を使う僧侶も存在し続けている。

  ただ、そもそも「戒名料」という言葉を使わないということで、戒名に関する問題が何か少しでも解決するのだろうか?  「戒名料」という言葉を使わなくなっても、戒名をめぐるお金の実態が変わるわけではない。むしろ、この言葉を使わないことに満足して、水谷氏が講演で語った「よりよい方向に改善していく」ことを辞めてしまったようにも見えなくもない。

  もちろん現実として、そう簡単に「改善していく」ことはできない理由もある。それは「戒名は料金ではない」「お布施は料金ではない」という考え方は、仏教界では犯すべからざる絶対的な考えだからである。

  お布施のあり方を変える、戒名のあり方を変える、というのも、宗派に属している僧侶ならば、そう簡単に口には出せない。

  しかしこれがあまりにも絶対的すぎて、一般の人たちとの対話を阻害しているのも現実である。僧侶の中には一般の方々の気持ちを汲もうとしている人が少なくないが、この考え方が絶対的すぎて、ここから外れそうになると、心理的なブレーキかかってしまう人が多い。

  戒名をめぐる報告書を出した全日仏の研究会のスタンスも「もっと戒名の意味を一般の人に理解してもらわないとだめだ」というものだ。つまり裏をかえせば、仏教界の提示する戒名のあり方は間違っていない、人々が戒名の意味を理解していないことが問題なのだというニュアンスが含まれている。

  お布施のあり方、戒名のあり方が絶対的に正しいというのは、もちろん教義的な前提があるからである。教えが何よりも大切である、教えから外れてはならないというのは、宗教としてはごく自然なスタンスであ。

  しかし現実の宗教は、時代時代にあわせて変化してきた。それは仏教もキリスト教もイスラム教も同じだ。もちろん、時には変化が間違った方向に行く場合もある。しかし、時代にあわせて変化することが無かったら、仏教もキリスト教もイスラム教も現代には残っていないだろう。まして日本の仏教は、釈迦の仏教から、変化に変化を重ねて現代まで来ている。 

 その意味では、お布施のあり方を「変える」ことを社会全体で考えるのも、宗教のあり方としては間違っていない。何よりも、これまでのお布施のあり方は、現代社会との間に大きなズレを生じてしまっている。仏教が、人々に安心を与えることのできる存在になるためにも、お布施とは何かを、もう一度、考えて行かなくてはならない時期に来ているのだ。(続く)

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