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改名

ともだちの彼氏が、裁判所で改名をした。
その名前のせいで、いつも嫌な思いをしてきたのだという。

わたしはあの頃、裁判所で名前を変えられることも知らなかったし、いつも読み間違えられて気に入らなかった自分の名前ですら、そこまで考えたことがなかったものだから、「改名」というワードに、とても驚いたものだった。

だけど、その時のわたしは、

(そんなことがあるのか)

と、驚きつつも、

(ま、それで自分が自分らしくいられるんなら、いいんじゃない?)

と思った。

思えば、この発想が、わたしのこの先の人生においても、あちこちに出てくる。

ともだちとの育った環境の違いの時も、価値観の違いも、時には、性的嗜好の違いの時も。

「そういうのもいいよね。いいんじゃない?」

これが、わたしの長年に渡る、価値観の源だ。

親に対してまでそこまで寛容になれるには、時間が必要だったけれど、思えば、かなり早い時期から、わたしはきょうだいに対しても、そういう思いでいたのだった。
ましてや、ともだちになら...という話なわけで。

そして、この価値基準があるからこそ、わたしは、その後の数々の酷い出来事にも、多大なる文化の違いにも、なんとか乗り切る耐性を身につけていけたのではないか?と思う。

...話を戻して、名前。改名という手段。
しかも、苗字ではなく、名前の改名。

なんとなく、整形のメンタリティに似ているなと、感じてしまうのは、わたしだけだろうか....

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