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しっかり聞く、ていねいに出会う ーマイクロアグレッションとルッキズム

私が物語創作や脚本のテーマとして、常に意識していることの一つに「マイクロアグレッション」がある。

マイクロアグレッション。
つまり「小さな(マイクロ)攻撃性(アグレッション)」。
人と関わるとき、相手を差別したり、傷つけたりする意図はないのに、相手の心にちょっとした影をおとすような言動や行動をしてしまうこと。

なぜそれが問題視されるのか。

その言葉や行動の奥には、人種や文化背景、性別、障害、価値観など、自分と異なる人に対する無意識の偏見や無理解、差別心が含まれているから。
「悪気はなかった」という言葉に回収されてしまいがちだけど、それを受ける側にとっては、攻撃と感じてしまうもの、そういう’マイクロアグレッション’は日常にいっぱいある。

わかりやすく紹介されていたものを引用する。

海外
- 西洋人からの、「君は日本人っぽくなくて大胆な考え方をしていいね!」といった発言
- 「アジア人だから数学が得意」「黒人はダンスが上手い」という特定の人種へのステレオタイプ的言動
- 英語圏に長く住んでいるのに、何年経っても「英語が上手だね」と伝える
- 「日本人の女の子が好き。大人しくて可愛いから」というアジアンハンター
-  アジア人の真似!といって無邪気に両目をつりあげる行動
-  LGBTQなの?見えない!意外!すごくまともに見える、といった発言

日本
- 白人系の見た目がかっこいいと、初対面で褒めたたえる
- 「〇〇さんはブラジル人だから、サッカーとかやります?」「〇〇さんは韓国人
だからキムチ常備してるんでしょ?(笑)」といった文化的ステレオタイプ
- 日本に住んでいる外国人(に見える人)に「日本語上手ですね」「お箸使えるのすごい」等と褒める
- 会議室に入ってきた男性スタッフと女性スタッフのうち、女性スタッフをアシスタントだと思って飲み物を注文する
- 女の子はオシャレとスイーツが好きだし喜ぶと思う、といった発言

「社会をもっとよくする世界のアイデアマガジン IDEAS FOR GOOD」より


人種やマイノリティに関する発言で、マイクロアグレッションが発動することが多い。
そして、
「え、その発言がマイクロアグレッションになるの???」
と思ったものが少なからずあるかもしれない。
「(言ったとしても)悪気はなかった」としてこういう発言をしてしまうのは、常にマジョリティ側/普通の側にいる人。
私たちは、自分の立ち位置、自分の’普通’を起点にしか、世界をとらえることができない。

知人のAさんの例を挙げる。
Aさんは日本で生まれ、ずっと日本で暮らし、日本語を話す。
お父さんが日本、お母さんが南アフリカの方。
その彼女が幼少の頃からずっと初対面の時に必ず言われ続けている言葉は、
「どこの国の人?」。
Aさん、日本国籍だし普通に日本語話者なのに。
初めて会った人との会話のスタートが、100%「ねぇ、どこから来たの?」。
生まれて20数年、Aさんは言われ続けている。
そのボディブロー感たるや…。

仮に、Aさんは’日本語のみ話者’だとする。
南アフリカに行くとして、そこでは言葉が通じない。
すると南アフリカでも同じ言葉を浴びることになる。
「どこから来たの?」
「どこの国の人?」

「どこからいらしたんですか?」。
いつになっても、どこに行っても、これがずっと続く。
果たして、Aさんはどこの国の人なのか。
Aさんのアイデンティティーは一体どうなってしまうのか。
そう考えると、この問いかけは‘マイクロ’以上の攻撃力と言わざるを得ない。

「どこから来たの?」と聞く人に悪気はないとする。

でも、悪気がなければOK?  
本当に?

「悪気がなかった」
「知らなかった」
「そのつもりはなかった」

これって、それが攻撃となり得るかもしれないという想像力が養われてこなかった、ということなのかなとも思う。
そして、すっごく雑にまとめてしまうと、日本の教育の環境とかあり方っていうのも影響するんじゃないのかなって、感じてしまう。

そして、「見た目でどうこう言う」点において、マイクロアグレッションとルッキズムの関連性は高いはず。

これ、人種に関係しない領域でも、普通に起こること。

例えば、高校生のB子さんが、ニキビに苦しんでいるとする。
にきびって先天性のものではなく、思春期なら誰にでも起こりうるもの。
それが前提ではあるけど、B子さんのにきび状況はなかなかに悩ましい状態になっているとする。
そんなとき、B子さんの友達のCちゃんのママが、
「B子ちゃん、あら、ニキビすごいわね。ニキビなかったらほんとかわいいのにねぇ」
って言ったとする。褒め言葉のつもりで。

果たして、これ、B子さんはどう受け止めるか。

「ニキビなかったら」…?

「え? 何がいけないの?だってにきびって治るものでしょ?」って、言った人は思ってるはず。
でも彼女はこの2、3年ずっとにきびと戦っているわけで。
どんなに洗顔しても治らない。
どんなにチョコレートを食べるのを控えてもよくならない。
この数年、他のどんなり悩みより重く重くのしかかっている「ニキビが全然治らない」。
それなのに「ニキビなければかわいいのに」って…。
これって「ニキビのある今の状態はOUT」って言ってるのと同じ。
言った側からは想像もつかないほどの、深いダメージ。

仮に、B子さんが「その言葉に傷ついた」って抗議するとするとしても、
絶対それは伝わらない。
「え?なんで?今の褒め言葉なのに」ってなるはず。
それがマイクロアグレッション。
悪気がない、で終わり。
なかなかに通じ合えない。わかり合う道は遠い。

これ、私もその昔受けたことがあった。
私にはそばかすがあって、中学生の頃、
「○○(私の名前)って、そばかすなかったらめっちゃイケてる」
って友だちに言われた。
その頃の私には、ま、世界的にも’マイクロアグレッション’という概念は存在せず、ただただ笑って受け流していた。
その後も何度か同じような小さな攻撃に会ってきたけど、そこまで深いダメージを受けていない気がするのは、母がかけてくれた魔法があったから。
小学校低学年の頃、母に聞いてみたことがある。
「他の子にはないそばかすが、なぜ私の顔の上ではこんなにも自由奔放に展開しているのか」と。
その時、母が魔法の言葉をくれた。
「そばかすってね、海外では素敵な女の子の印って言われてるんだよ」
その言葉に私は救われていたのだと思う。
「そばかすは’異形’ではなく’特別’」っていうセルフプロテクトができたのだと思う。
だから、「お前の顔のそのブツブツ何?」と心無い男子にどストレートにひどい言われ方をされようと、「ふん、あいつは海外事情を知らないな」とスルーを決めてきた。
(とはいえ傷つきはした、もちろん)

今だって、化粧品の広告を見て、恨めしくはなる。
「シミ一つない美肌へ」

は?

シミが一つでもあったら美しくないの?
こちとらそばかす満載ですけど!って。

そう、受ける側は少しずつ傷が深くなっていくものなのだ。

ああ、やっぱりこうやって言語化すると、
「おいおい、世の中マイクロアグレッションだらけじゃん」
みたいな気持ちになる。

ただ、今私は「自分は絶対言わない」側にいるわけではない。
私も言っている可能性が大いにある。
加害している可能性がある。
価値観の押し付けになってしまうことのリスクは、いつだって誰にでもある。

もし、自分がマジョリティ側にいる/普通の側にいると、疑いもなく思っているとしたら、まずはそこから点検する必要があると思う。

「‘普通’って何?」
「何を持って’普通’とするのか?」

たとえば‘純ジャパ’という言葉。
「私、純ジャパです」と言う時。
はい、すでにそこにはマイクロアグレッションが忍び込んでいる。

「純なジャパニーズ」とは?

例えば冒頭に挙げたAさんは?
日本で生まれた日本語話者で、お父さんは日本人、お母さんは南アフリカ人であるAさんは純ジャパ?

「純ジャパ」とは、何と何を分ける言葉、分けたい言葉なんだろう。

たぶん、またまたここには「悪気」というものは存在しないのかもしれない。
そうなると、やはり自分自身のことも総点検しないと。
果たして自分がナチュラルに選んでいる言葉や考え方は、何から出来上がったもの?
何か偏った考えをベースにしていないか?

私が加害側になる可能性が高かったケースを紹介すると。

ある時、知人が「うちのワンコのことを見るたびに『でっかいねぇ』って言う人がいて、すごくストレスなのよ」って話をした。
え?
わかんない。
何でストレス?
そう思ってしまった私には、加害側に回る可能性がたっぷりある。
ワンちゃんを「でっかい」ということが攻撃になりえる可能性が想像できないのだ。
「わからない」。
はい、これが’加害の種’。

知人のワンちゃんはトイプードルで、標準よりかなり大きめなんだそう。
ん? 
だから?
それでも、「でっかい」の加害性がよくわからない。
やっぱり私は加害側になりそうだ。
もしこの話をする前に知人のワンちゃんに出会っていたら、「でっかいね」とは言わないにしても、「へぇ、トイプーなのね(知ってるトイプーより大きいよねのニュアンスと共に)」って言ってしまいそう。
まさに悪気なく。

難しい。

どうやら、トイプードル界隈では「小さい=正義」のようだった。
これって女子の世界で「小柄・華奢・線が細い=正義」ってのとも通じてる?

「え、そんなこともアウトなら、何も言えなくなるじゃん」
と、うちの夫は言いそう。
常々、夫がルッキズム的な発言をするたびに、私が警告ホイッスルを吹いている。
そして、いつも返ってくる言葉がこれ。
「何も言えなくはないから。考えなきゃ」とは言ってはみるが、確かに本当に難しい。

は。
またまた思い出した。
私、小さい頃から大きかった。
小学校5年ぐらいの時に「高校生?」とか言われてた。
縦ばかりじゃなくて発育がよかった。
そして自分でも周りより大きいことを気にしていた。
よく一緒にいる友だちが小柄さんばかりだったこともそれを助長した。
例えば中学校で仲良くしてた子は138cm。
その頃の私は163cm。
彼女はモテた。
「大きい私はかわいげがない。小さく生まれたかった」って思ったりした。
小柄さんはいろんなものに「届かないー」ってなるし、非力で「あー、開かないー」とかってなる。
もちろん私は全部しっかり届くし、全部きっちり開けられる。
「守りたい」とか、全く思わせない女。

で、ある日、近所のおばさまに言われた。
「○○ちゃん、体格がいいわねぇ」って。
その人にとっては「体格がいい=発育がいい→褒め言葉」だったのかもしれない。
「健康的」とかってレベルで言っていたのかもしれない。
でも。
思春期の女子に、あっけらかんと「体格がいいね」って絶対言っちゃだめ!
その言葉を受け止めながら、私の脳内には力士がたくさんあふれていた。

「こういうふうに言われたくないです」っていう希望シート、出会った瞬間に手渡すわけにはいかないし、ほんと難しい。

「こんにちは。わー、背おっきいですね」
「ちっちゃいのに、がんばっててすごいですね」

そういうの、要る???

何を感じようと、その人の自由。
「感じるな!」なんて、こちら側がコントロールすることはできない。
でも、だからって、いちいち思ったことをさも当然のように伝えてくるなって思う。
それを伝えられても、こちら側ができることは何一つないのだ。

そんな言葉ではなくても、もっと違うかたちでいくらでも出会えるはずだ。

そうなると、結局何が大事なんだろう。
つまりは、まずは相手の言葉を思いをしっかり聞く。
そうやって丁寧に知り合っていく、出会っていく。
それしかないんだろうと思う。

何かをジャッジするようなところからスタートはしたくない。

私たちは、もっと豊かな出会いと対話の可能性を持っているはずだ。

(終わり)

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