*自己紹介* わたしはわたしらしく生きていく
Twitterを始めていなければ、この言葉は生まれていなかったと思います。
はじめましての方も、
Twitterでお世話になっている方も、
このnoteを開いていただきありがとうございます。
わたしはTwitterで「こころに寄り添う」「自分らしく生きる」をテーマに発信をしております、ゆう(@jibuntime322)と申します。
このnoteを書くきっかけとなったのは、
Twitterです。
昨年の3月末からTwitterの発信を始め、11か月が経過しました。現在、1800人以上のフォロワー様とご縁をいただくことができました。
わたしは、どこにでもいる43歳女性です。
看護師の資格は持っていますが、今は全く別のお仕事をしていますし、特に自慢できることもありません。
内向的な性格で、できれば目立ちたくない、
自分時間を静かに過ごしたい、
仕事から帰ると淡々と家事をこなして、ちょっと疲れたらお昼寝タイム…
こんな感じで日々、穏やかに暮らしています。
今回、自己紹介noteを書いたのは、
フォロワー様2000人という節目を迎える直前に、
わたしのことをより深く知っていただきたいと思ったからです。
ありのままの自分のことを書くのは少し抵抗がありましたが、
書き出すことで自分を見つめ直すきっかけにもなる
そう思って、思い切って書き始めました。
このnoteは、例えばこんな方に読んでいただけたらうれしいです。
自分の気持ちに素直になりたい。
ありのままの自分を認めたい。
わたしらしく自分のペースで進みたい。
そして、わたしの体験談から、
と前向きな気持ちになっていただけたらうれしいです。
これまでわたしが投稿したTwitterのツイートも合わせて紹介していきます。
しばらくの時間、お付き合いいただけたらうれしいです。
それではこれから、わたしが生きてきた43年間を綴っていきます。
①幼少期~小学生のころ
1979年3月22日。クレーン車の運転手の父と専業主婦の母との間に長女として誕生しました。そして、ふたつ下の妹と5つ下の弟、5人家族でした。
今思うと、裕福な家庭ではありませんでしたが、いつも家には母がいて、たくさん遊んでくれました。なにより母の手づくりおやつが楽しみで、一番好きだったのは、さつまいもの入った蒸しパン。あったかくてふっくら柔らかい蒸しパンを甘い香りといっしょにほおばる…とても幸せな時間でした。
小学校に入学して間もなく母がパートで働きだし、その日から生活が一変します。
洗濯物を取り込んでたたんだり、弟を保育園に迎えに行ったり、わたしは母のお手伝いをするようになりました。母の帰りが遅いときは、妹や弟のためにレンジでごはんを温めておにぎりを作ってあげたりもしました。
母は毎日20時近くまで働いて、家に帰ってからは急いで夕飯の支度をする…休む間もありません。そんな母のうしろ姿をみて育ちました。そのころから、おやつの蒸しパンも作ってもらえず寂しかったけれど、「おかあさん、蒸しパン作って」とは言えなくなりました。
『わたしにできることは何でもしよう』
わたしの気持ちは変化します。
洗濯物が上手くたためなくても母を助けたい。大好きな母の笑顔が見たい。
母への想いは、さらに強くなっていきました。
そして、9歳の秋…。
わたしの人生に大きな影響を与えた出来事が起きるのです。
わたしのからだを襲ったのは、『ペルテス病』という病でした。
この病気は、小学校低学年を中心とした、小さめの活発な男児に多くみられるのが特徴だそうです。当時、女の子がこの病気にかかる確率は低く、病院の先生もとても驚いていました。
突然、強い痛みに襲われて怖くなり、涙をこらえながら左足を引きずって歩いていました。
そんな状態でも、わたしは母に甘えることもできず、なぜか、
『わたしがしっかりしなきゃ』
と強く思っていました。痛みを我慢していたこと、母が仕事を休めなかったことが重なって、病院を受診した時には病状がかなり進行した状態に。
そして、
「手術をするしか方法はありません。」
と医師の宣告を受けました。
横を向くと、涙を流している母と、母の背中を優しくさすっている看護師さんが見えました。その映像だけが切り取られて、しばらく目の前から離れてくれずに苦しみました。そして、
『終わった…』
わずか9歳でしたが、人生が終わってしまったかのように感じていました。
この文字がずっと頭にこびりついて、どうしようもできない。
アルコール消毒の匂いも気持ち悪く感じ、
病院の医療機器の電子音も頭の奥でずっと響いて、
『今すぐこの場所から消えたい』
と思いながら医師の説明を聞いていました。
わたしの足は今ここにあるのに、
実際はわたしのものではないような感覚になり、自ら太ももあたりをつねり、痛み刺激を与えてました。
そして痛みを感じるとほっとして痛みつけてしまった太ももを
「こんなことをして、ごめんね」
とこころのなかで謝りながら優しくさすってあげました。
小さなからだで、この現状を受け止めるまでには時間がかかりました。
自分のことよりも、大好きな母を悲しませたくない。
病院で初めて母の涙を見て以降も、時々ひっそりと泣いているのをわたしは知っていました。家族みんなが寝静まった夜に居間で泣いている母の姿を見たときから、母を悲しませてしまった自分を責めるようになりました。
入院後も毎日、母は仕事終わりに面会に来てくれました。自宅から病院まで車で30分。母が面会に来てもすぐに、
「早く帰って。明日はもう来んでいい(来なくていい。の意味)」
と強がって言ってしまう…。妹や弟が母の帰りを待っているだろうと心配になって、面会を素直に喜ぶことができなかったのです。
わたしの病気のせいで、家族みんながたくさん我慢をしていることに申し訳なさを感じていました。9歳で…と思うでしょうが、
この病にかかったことがきっかけとなり、これから先の人生に大きな影響を与えました。現在のわたしの土台になっていると言えます。
内に内にふさぎ込んでしまったわたしのこころに
そっと寄り添ってくれるあたたかさと、
どんな時もそばにいて黙って話を聞いてくれる安心感…。
新しい親友が誕生します。
9歳のクリスマスの夜、ちいさなくまのぬいぐるみに出会いました。
院長先生サンタからの贈り物。しかし、いただいたときは正直うれしくありませんでした。一緒に添えられたメッセージカードには、
「ぼくもいっしょだよ」
と書いていましたが、すぐに破って捨てました。そのころのわたしは、どんなに優しい言葉も受け止めることができなかったのです。
だけど、くまちゃんはとても気になる存在。
なにも言わず、わたしをじっと見つめてくれる、ずっと見守ってくれている…そんなくまちゃんとの日常が当たり前になり、少しずつくまちゃんにこころを開いていきました。
くまちゃんがいてくれたから術後の痛みに耐えることができたし、つらいリハビリにも前向きに取り組めました。
くまちゃんからの言葉はなくても、あったかくて優しいまなざしからは、
「ぼくもいっしょだよ」とわたしへの想いが伝わる。そして、冷たく凍ったわたしのこころを少しずつ溶かしてくれました。
くまちゃんとの出会いはキセキ。
この出会いがきっかけで、わたしは優しさを取り戻していきました。
3か月間の入院生活を経て、一度退院します。そして、翌年の夏に再手術をして1ヶ月間の入院生活を送りました。
松葉杖は両方→片方、そしてひとりで歩けるようになるまで、約1年かかりました。その間、行動が制限されていたので仲の良かった友だちとも遊ぶ機会がぐっと減ってしまいました。
運動神経がよかったわたしは、足も速かったし、跳び箱も6段が軽く飛べていました。病気にかかる前は、体育の時間が唯一自分の力を発揮できる場。そんなこともみんなの記憶から薄れていき、わたしは徐々に自分らしさを失っていきました。
休み時間はほとんどひとりぼっちで、自由帳に絵を描いてみてもおもしろくないし、下手。読書も苦手だったので、机に頬づえをつき時計の秒針を目で追いながらチャイムが鳴るのをずっと待っていました。孤独を感じる日々が卒業するまで続きました。
②中学~高校生のころ
中学生になってからも運動は禁止されていたので、体育の授業は見学でした。松葉杖はつかずに生活できるようになっただけでも、からだもこころも軽くなって少しずつ笑顔を取り戻せていました。
しかし、また別の試練が襲ってきます。
『偏見』です。
松葉杖をついていたころは、
『足の悪い女の子』
だと見ただけで理解されていたので、手を貸してくれたり、優しい言葉をかけてくれる友だちがたくさんいました。はじめて出会った人にも松葉杖をついているとわかるので、ある意味生きやすかったところはあります。
それが、松葉杖がわたしのからだから離れた途端に
『健康な女の子』
としてみんなに映ってしまいます。なので、体育を見学してて、
「またさぼってる」
と言われたり、
「あの人、嫌なことから逃げているよね」
と上級生から陰口を言われることが増えました。
『やっぱり、人って見た目で判断されてしまう』
『仕方ないよね』
だって、感じ方は人それぞれだし、受け止め方も違うから。
その時のわたしは、周りの視線や陰口にこころが揺れ動いてしまいましたが、気持ちはそれ以上沈んでいくことはなく、その時間さえももったいないと思っていました。すごく前向きな考え方ができていたように思います。
小学生の頃とは違って、孤独を感じていてもどこか勇気も感じるようになっていました。そして、鏡に映る自分が嫌ではなくなったのに気がつきました。
何が、わたしを変えてくれたのか。
それは、
『合唱』との出会いでした。
中学校の音楽の先生が、
「一緒に歌わない?」
と声をかけてくれました。あとで先生から聞いた話ですが、わたしは、
『すべての欲求を失った子』
に見えていたそうです。
心配になった先生はわたしに声をかけ、放課後の音楽室に連れて行ってくれました。教室に入った瞬間、
なんだろう…このあったかい雰囲気
歌声がこんなに心地よく感じたのは初めて。からだの力が抜けて、崩れ落ちそうになりました。
その様子に気づいた先生がわたしの背中をそっと支える。その手のぬくもりが背中からこころにも伝わって、安心感を与えてくれました。
合唱部には20人くらいの部員がいました。からだで、表情で、こころで、ハーモニーを奏で、歌に込められたメッセージを全身で表現している姿に感動し、自然と涙がこぼれました…
ほとんどの合唱部員は、今まで挨拶も交わしたことのない人ばかり。そして、今まで仲良くしてきた友だちとは全く違うタイプでとても緊張しましたが、すぐに打ち解けました。
音楽室にいるとき、部員と一緒にいるときは、素直になれました。
『こころは通い合っている』
わたしもまわりの部員も、先生も、自然と笑顔でいっぱいになりました。
先生は私が高校3年生の時、亡くなりました。
生前、私によく言っていた言葉があります。
『すべての欲求を失った子』に
たくさん愛のある言葉をたっぷりと注いでくれた先生との思い出は
わたしの宝物です。
今もなお、当時の仲間と新しく加わった仲間とともに、月2回、新しいハーモニーを奏でています。
③看護師の経験から学んだこと
高校卒業後、3年制の看護専門学校に進学しました。県内にありましたが、わたしはあえて寮生活を選択し、在学中はとにかく勉強しました。友達はアルバイトをしたり、車の免許を取得したり、友だち同士で旅行に行ったり…とプライベートも充実させていました。しかし、当時のわたしはその時間すら「もったいない」と思っていました。
なぜ、そんなに勉強ばかりしていたのか。
ひとつは、恩師(中学校の音楽の先生)の言葉を大切にしたかったから。
もうひとつは、早く看護師になりたかったから。
わたしは、9歳から闘病生活を経験し、たくさんの人に支えられて生きてきました。特に入院中、看護師さんの存在は大きく、どんなときも寄り添い、優しく声をかけてくれました。その優しさを素直に受け止めることができないときは、少し距離をとって見守ってくれました。
まるで、わたしのこころの中が常に見えているかのように。
次は、わたしが
『誰かを支えたい』
『寄り添ってあげたい』
この想いを胸に、どんなことも諦めることなく、看護の道に進むと決心しました。
そして21歳、ずっと憧れていた正看護師になりました。「救命救急病棟」への配属を希望していましたがその夢は叶わず、急性期の患者様が多くいらっしゃる「血管外科病棟」に配属。今思うとその当時のわたしは、どこに配属されたとしてもきっと1年しか続かなかったと思います。
入職して1週間、わたしは先輩看護師から地方出身であることや方言が「おかしい」とバカにされ、全くしゃべれなくなってしまいました。そして、さらに追い打ちをかけるように嫌なことが続きます。
「あいつ、使えないな…」
わたしのいないナースステーションで、先輩二人が話しているのを聞いてしまったのです。ショックでした。それも、私のプリセプター(看護師一年目の新人にマンツーマンで指導してくださる先輩看護師のこと。お姉さん的存在)の方から言われて、わたしと先輩との距離が離れていき、関係が悪化。
あんなになりたかった看護師像が、たった半年で崩れ落ちていくなんて…
だれが想像していたでしょう。
わたしはナースステーションにいるのが怖くなりました。
そんなわたしは、患者様のところに自然と足が向くようになりました。
もちろん、患者様の体調に配慮しつつ、疲れさせない程度に関わることを大事にしていました。
髪や手、足を丁寧に洗ったり、からだを優しくゆっくりと拭く…長く入院生活を送っていると、患者様は今まで当たり前のようにできていたことが満たされずにストレスに感じることが多くなります。
そして、病院という閉鎖的な空間での生活、病との闘い、医療を提供する医師や看護師との人間関係などにも不安を感じていると理解していました。
『わたしには経験がある』
9歳で病にかかり入院生活から学んだことが看護に生かされました。直接的な関わりは、患者様とのこころの距離をぐっと縮めます。わたしにとっていちばん幸せを感じる瞬間でした。
「気持ちよかった」
「生き返った」
「あなたにお願いして最高だった」
患者様のお名前や言葉、笑顔、手をつないだときのぬくもりをこころに刻む。そして、
『私のやりたかったことはこれだ…』
そう思った瞬間、大学病院では自分のやりたい看護はできないと確信しました。同僚に相談しましたが、
「1年で決断しなくても…」
とみんなが口をそろえって言ってくれました。しかし、私の意志は固まっていて、1年で病院を退職しました。
看護学校でお世話になった先生からも
「もったいない」
と何度も言われましたし、『諦めた』と受け取られて厳しいお言葉もいただきました。
そんな中、母だけはわたしの味方になってくれました。
「大丈夫。人生まだまだこれからなんだから。」
と励ましてくれました。
母は、私のすべてを優しく包み込んでくれる、大きな大きな存在です。
退職後すぐに、関西地方で就職していた彼(今の夫)のところに向かい、結婚。2か月後、市立の総合病院に再就職をしました。その病院でも人間関係でうまく行かない時期がありました。
わたしは、なぜかターゲットになりやすいようです。
大学病院勤務の頃と比べると大したことではなかったので、そんなに気にすることなくスルーできていました。
わたしにとって看護師として働いた10年は、わたしと患者様、わたしと先輩看護師との人間関係から学ぶことが多かったです。そして、
『自分を信じて、今やりたいことを大切に生きていく』
ことを患者様から教えていただきました。
④家族のこと
わが家は7人家族です。簡単に紹介しますね。
夫の両親(60代後半・農家)
夫(44歳・会社員)
長男(20歳・大学2年生)
次男(18歳・高校3年生)
長女(11歳・小学6年生)
そして、私。
ゆう(43歳・長男の嫁歴21年目)
です。
夫とは、中学時代の同級生。ずっと同じ時を過ごしてきました。別々の高校に進学してからいったん関係はなくなりましたが、ハタチの成人式で再会し、恋愛を再スタートさせました。
2年間の遠距離恋愛を乗り越え、2001年5月に入籍しました。当時は、夫の職場が関西地方にあったので、ふたりだけの生活は1年弱くらいありました。
今、振り返ると、遠距離恋愛から結婚まで、新生活を夢見てワクワクしていた時期…このころが一番楽しかったですね。
その後、地元に子会社ができたタイミングで、わたしたちは地元に帰省することになりました。
夫の両親のこと、その家の習慣、住んでいるところの地域性…
地元に戻り、実際に夫の両親と濃い関係を築くまでは、わからないことばかり。わたしの意識と全く異なり、とにかくひとり悩みました。その中でも一番驚いたのは、
「一度、嫁として家に入ったら、実家には戻ることは許されない」
と義父に言われたこと。
いつの時代の人なんでしょう。
その言葉のせいで、わたしは結婚してから実家に帰っても長居はしないし、もちろん泊まったこともありません。産前産後は実家で過ごしたかったのですが、先に言われてしまったので帰れませんでした。
夫は、
「気にせずに実家に帰ればいい」
とわたしには言うのですが、夫の両親には何も言ってくれません。
当時は、そんな夫の態度に腹が立ちました。
けれど言い争うのは嫌だったので、自分の感覚を夫や夫の両親に合わせたほうが精神的に楽でした。
闘ったところで勝ち目はないし、
勝ったところでいい関係が保たれるとは思わない。
夫にとっては大切な両親であることには違いない。
気持ちは受け止めていました。
夫のことが好きで結婚し、3人の子どもに恵まれただけで幸せ。
当時はとても寂しかったけど、家族の笑顔を守ろうと決めてからは気持ちも前向きになりました。今では、夫の両親に助けていただくこともたくさんあります。昔と変わらず、子どもたちを大切に思ってくれています。
それだけで幸せです。
家族の中でわたしが一番頼りにしているのは、
夫…
と言いたいところですが、
実は、長女です。
いつもわたしに寄り添ってくれる娘には、こころから感謝しています。わたしが小さい頃、母のことを助けてあげたいと想っていた時のように娘も想ってくれているのかな…
けれど、無理はしてほしくない。
わたしのからだのことを気にかけてくれたり、靴下を履かせてくれる娘に素直に頼っていこうと思います。
母が、わが子に頼るなんて…
と思われて当然です。
わたしも娘もお互いが必要としている…
だから、支えあって生きていきます。
そして、わたしは家族みんなが幸せに暮らせるように、これからも長男の嫁として家族を支えていきます。
⑤Twitterとの出会い
家での過ごし方と言えば、家事をして、ちょっと夫の両親のことも気にかけて一緒に買い物に出かけたり、娘の習い事の送迎をしたり…
それ以外は自由な時間。SNSを開いて、大好きなアーティストのインスタやTwitterを眺めては、『いいね』を押す…要は、ひまつぶしでした。
特にやりたいこともなく、
朝起きて、ごはんとお弁当作って、家事して、仕事して、帰ってきて家事して…毎日同じ時が流れて、平凡な毎日。そんな生活がおもしろくありませんでした。
自分時間を作ろうと思えば時間はたっぷりとあったのですが、毎日疲れやすくて、これ以上何か新しいことに挑戦しようという気持ちにはなれませんでした。
毎日の暮らしには全く『いいね』が押せないわたし。
他人のつぶやきに共感したりうらやましいと思ったりする時間が、とてもむなしく感じていました。
『誰かに反応してもらいたい』
そう思うようになって、
2022年3月22日。
43歳の誕生日にTwitterの発信をはじめました。
とは言うものの、初めはどうしていいのかわからなかったので、芸能人のように日常で起こった出来事をつぶやいてみました。
もちろん、『いいね』は全くつきません。
どうしたら、『いいね』がいただけるのか。
いろんな方のツイートを見て学んで、フォローさせていただいたり、緊張しながらも勇気を出してリプライを送ってみたり…を繰り返しました。そして、発信を始めて10日後、はじめて『いいね』がつきました。
たったひとつの『いいね』がこんなにうれしいなんて。
わたしは、どんどんTwitterにハマっていきました。
『Twitter運用のいろは』が知りたくなって、昨年7月から3か月間、個人コンサルを受けました。
教えていただいたことをその通りにしっかりと行うと、フォロワーさんは確実に右肩上がりに増えていきました。それがうれしくて、
『もっと、もっと頑張らなくちゃ』
と思うようになり、少し伸びが悪くなると、
『しないといけない』
と自分できめつけてしまって、こころがいっぱいいっぱいになりました。
できない理由を見つけることは、自分で自分の悪いところ探し。
言い訳になってしまうことが許せなくて、睡眠時間を削ってまでもTwitterに時間をかける毎日。その時のわたしは『Twitterを楽しむ』のではなく、フォロワーさんを増やすことが目的になっていました。
『フォローされた』『フォロー解除された』ことに一喜一憂。翌日のツイートは0時を過ぎてから作りはじめ、1時間以上かけることもありました。
このまま、Twitterを辞めてしまおうか…
と何度も考えました。
『どうしてツイートを発信したいと思うの』
Twitterを始めて、最初はただ反応してほしかっただけなのに、
とわたしの気持ちはさらに変化していったのです。
Twitterを始めたころとは全く違う感情が生まれてきて、
『わたしは わたしらしく 生きていく』
と強く思うようになりました。
個人コンサルが終了した後、もっと自分の思いが伝わるツイートが書きたくて、オンラインサロンでライティングを学び始めました。入会当初は、個人コンサルを受けていた時よりもツイートの反応率が半減し、フォロワーさんにもたくさん解除されました。
『それでもよかった』
それでもいいから、わたしはわたしらしく届けたい想いを140文字にのせてツイートし続けています。その想いはずっと変わっていません。
わたしが今、どのようにTwitterを楽しんでいるかについては、改めてみなさんにくわしくお伝えしたいと思っています。
Twitterを継続させるためには、
『Twitterを楽しむこと』がとても重要です。
焦らず続けていくことに意味があると思っています。
家族のことも大切ですし、もちろん実生活が最優先です。
『自分のペースで、わたしらしく』を大切にしながら、
毎日1ツイートをコツコツと積み重ねていく。
そして、わたしはこれからもTwitterを継続していきたいと思います。
⑥これからのこと
2023年1月1日。
わたしは今年の目標をTwitterで宣言しました。
この自己紹介note書くことも宣言しています。
1月中に皆さんにお届けしたかったのですが、少し遅れてしまって大変申し訳ありません。
毎日30分、そしてスキマ時間も活用しながらコツコツと積み重ねて、自分の人生を書き出しました。43年間のリアルを整理しながら、「過去のわたし」を認めて「今のわたし」をもっと大切にしたいと思いました。思い出と感情の移り変わりをひも解きながら、ゆっくり、丁寧に書かせていただきました。これからも変わることなく、
『たいせつに ていねいに』
ひとつひとつの目標に取り組んでいきたいと思います。
わたしの挑戦、成長をこれからもあたたかく見守っていただけたらうれしいです。
⑦最後に…
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
もしよろしければ…
わたしからお願いがあります。
頂いた引用RTは、読んだ上ですべてコメントをお返しさせていただきます。
改めまして、長くお付き合いいただきありがとうございました。
このnoteが『大切なあなた』のこころに届いて、前向きな一歩へとつながりますように。