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根深く残る自分の心の癖を取り除いて楽に生きよう!!

何を伝えたかったのだろうか。
何か伝えたいことがあったのだろうか。

何も聞けないまま、終わってしまった。

「ありがとうございました。
お世話になりました。お体大切に。」

『ありがとう。元気で。
無理しないで頑張って。』

そんなありきたりな言葉だけを交わして
さよならをした。

最後の言葉を交わした時に見た
あの表情がふと思い浮かんだ。

何か伝えたいことがあったんだろうか。
それとも、ただ最後の別れの挨拶だから
見ていただけなのだろうか。

今となってはその真相を知ることはもうない。

『一言でいうとよくわからない。』

それが一年間、一緒に仕事をした私への印象だ
と話してくれた。

私にとってその言葉は妙にしっくりくる言葉で
「そうです。その通りです。」
と、その時思った。

「自分でもよくわからない。」

そう思っていたから。

だから教えて欲しかった。

「私はこれでいいんでしょうか。
どのようにすればいいんでしょうか。」

『順番に面談するから。』
その言葉に私はとても安心感を抱いていた。
いつか教えてくれると思っていた。

だけど、その日がくることはなく
最後の日を迎え、そして私も聞くことなく
ありきたりな挨拶の言葉だけを交わして
その場を立ち去った。

ずっと待っているだけだった。
待っていれば、アクションを起こしてくれると
思い込んでいた。

もしかしたらアクションを起こそうと
思ってくれていたのかもしれない。

私がより良く進める方法、道しるべを
考えてくれていたのかもしれない。

だけど、つかみどころのない空気間を放つ
変わり者の私にかける言葉を
最後の最後まで見つけることが
できなかったのかもしれない。

そんな私に送ってくれた言葉

『よくわからない。』

本当はどう思っているんだろうって
思いながらも聞くことができなかった私。
聞く勇気を持てなかった私。

勇気を持って、アクションを起こそうと思えば
チャンスはいくらでもあったはず。
行動を起こせば、違った現実が生まれていたかもしれない。

だけど、行動起こさなかった私に今あるのは、
すべて想像で作った私の頭の中だけのストーリーだけ。

真相はわからぬまま。

本当の真実を知りたいのであれば
ただストレートに聞けばいいだけのこと。

本当に伝えたいことがあるのならば
ただ伝えるだけ。

それを相手が受け取ってくれるか
くれないかは別として。

伝えなければ、何もわからないし
何も変わらない。

知りたいのであるならば、
聞かなければ何もわからないし
何も変わらない。

ずっと知りたかったのに、
聞くことができなかった。

聞くことを怖れて、行動を起こせなかった理由。

それは『よくわからない。』
=本当に全く興味がなく、アウトオブ眼中である。

という真実を受け入れたくなかったから。

見たくない真実。
受け入れたくない真実。

私が本当に怖れているのは
自分の存在が忘れ去られてしまうこと。

私はここにいる。
私の存在意義。
今、私がここにいる意味、
必要性を感じていたい。

いつもそんな欲求を持っている私がいる。
過去を振り返っても、
ずっと変わらずその欲求を抱き続けながら
私は生きていた。

だから、自分がいるのかいないのかわからない
空気のように存在が薄れてしまっているのを感じた時、
あらゆる方法で、自分という存在をアピールする行動を取る。

その行動がいい行動の時もあれば
人を困らせたり、迷惑をかけてしまう行動の時もある。

こんなことをしたら、人を困らせる。
迷惑をかけてしまう、嫌われてしまう。

そうわかっているのに、
自分の行動を止めることができない。
やめることができない。

そこに隠れている深層心理が
自分という存在が忘れ去られてしまう恐怖。

誰の役にも、何の役にも立たない自分。
そんな自分を見たくない。
受け入れたくない。

色んな思いが複雑に絡み合って
反応するように、無意識に行動を起こしている。

そのことに気付き、
意識的に行動を起こせば現実は変わる。

やめたいのにやめられない自分の行動。

自分という存在が忘れられてしまうという
恐怖感をいち早く、手っ取り早く逃れるための
行動を自分が取る傾向にあるということに
まず自分で気付けば、
やめたい行動をやめられそうな気がする。

やめたい、やりたくないと思っているのに、
その行動を取ってしまい、苦しむ自分。

それは、自分が根深く持っている恐怖感を
いち早く手放し、安心をしたいから。

ある意味それは、自分を守るために
本能的に行っている行動。

一時的に自分の恐怖を
和らげられるのかもしれないけれど、
本当はやりたくないことで、
その恐怖感を解消しているだけだから
結局またすぐに、
反省や落ち込みという感情で自分を苦しめる
という負のスパイラルに陥ってしまう。

その状態を例えるならば、
雑草を抜いても抜いても
また生えてくる状態。
根っこを取り除かなければ
根本的な解決にはならない。

この場合の根っこは、
自分の存在が何の役にも誰の役にも立たない、
いてもいなくてもわからないような
無意味な忘れ去られる存在になることへの恐怖。

この根っこを取り除く。

自分の存在が、誰が見てもすぐに気が付くような
目立つ存在ではなくても、
役に立つ存在であるということを
自分で認める、受け入れるということ。

目には見えない空気のように
実際にはあるのかないのかわからないけれど、
確実にあるという情報を信じていて、
そしてその空気はとっても大切なものである
という事を信じ、認識している。

私たちひとりひとりは
実際には目に見えているけど、
たくさんいる人々の中に埋もれた時、
姿はあるけど、大勢の中にいるひとりとして認識し、
その人の名前が何か、どういう人なのかまでを
すべての人に対して認識、理解するまでには至れない。

だけど、自分を見てほしい、自分に気付いてほしい
自分の存在を価値のあるものだと認めてほしい。

そんな欲求が強い人ほど、
あの手この手で自分の存在をアピールするための
行動を取ろうとするのだろう。

そしてその欲求を
誰に満たしてもらおうとするかによって
その対象に向けて、
自分ができることで
自分の存在をアピールしようとする行動を取る。

自分の心と行動に向き合いながら
こんなことを考えていたのだけど、
これって誰もがみんなそれぞれに
誰かに向けてやっていることなのではないかと思った。

自分の身近にいる人を思い浮かべながら
AさんはBさんに対して、
BさんはCさんに対してやっている行動なのではないか
と勝手に思い浮かべて想像していると
何だかおもしろくなってきてしまった。

子供は親に向けてやっているし、
その親はパートナーだったり、
自分の親や兄弟だったり、
ママ友だったり、職場の人だったりと
あらゆる人があらゆる場所で
あらゆる人に対していつもいつもいつも
自分の存在を認めてほしいという
承認欲求を満たすために
一生懸命頑張って生きている。

そんな風に感じた。

そのことに気付くとなんだかもう
他者に自分の存在を認めてもらうために
頑張るのはやめようかなって思った。

自分の存在は
自分で認めてあげればいいじゃないか。

自分の存在価値を
他者の基準に委ねるということ自体が
自分を苦しめ自分を不自由にしていた。

そんなカラクリというか
心の仕組みのようなものに気が付いたら
なんかもう楽に生きようかなと
思った今日この頃です。

とりとめもなく思いつくまま書き綴ったら
長文になりましたが、
最後までお読みいただきありがとうございます!!

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