なやカフェゆうきさんのご飯と長澤知之さんの歌。もう愛しかない。2019.7.22

こんばんは、赤阪正敏です。

京都を離れる前に会いたい人がたくさんいて、訪れたい場所がたくさんあって。そんな中、タイミングがあった時に叶うことだけに身を委ねているわけですが。

先日、なやカフェに行きました。畑とカリーの場所として、毎週水曜日に一年と少しお借りしていたので、純粋なお客さんとして、まゆと二人で訪れるのは久しぶりでした。

ゆうきさんのご飯

ああ、そうやった。こうやった。ゆうきさんのご飯というのはこういう風に美味しいのだった。頭の中に浮かんでくる言葉に触れつつ、そこに耽溺してしまわないように、あくまで舌の上に広がる喜びを逃さないように、と思って夢中で食べた。

長澤知之さんの歌を聴いている時の感じなんだな、と思った。僕がゆうきさんを知ったのは長澤さんを知るよりずっと前で、その時からずっとゆうきさんのご飯は美味しかった。長澤知之さんの歌を知って、僕はゆうきさんのご飯について書く言葉を得たんだな。

食べやすいわけじゃない美味しさ

昔エレカシの宮本さんがラジオで、新作アルバムについて「食べにくい」という比喩を用いた発言をしたパーソナリティに激怒したのを聴いたことがあるので、ちょっとこの表現はダメなのかなぁ、と怖くもあるのですが。

でも、もう少し丁寧に書かせてください。

ゆうきさんのご飯にはたくさんの野菜が使われています。ゆうきさんが気持ちを込めて育てたり買ったりした野菜が、美しく盛り付けられていて、しかも美味しい。その様はそれぞれの野菜がそれぞれの自然なあり方で笑っているよう。

僕は料理に詳しくないけど、例えばパスタに使う玉ねぎやピーマンは細切りだったり輪切りだったり「するものだ」という前提があるように思う。そうなっているものだ、というか。

それは食べやすさのためでもあるけど、一方で調理する方の都合でもあったりするのだと思う。食べる人のためなのか、作る人のためなのか、その比率が揺らぎながら存在するのだろうけど、「作る人のため」が強くなると、その料理からフッと美味しさが消える…ような気がするんです。個人的に。

ゆうきさんのご飯を構成する野菜たちとは一つ一つ向き合う必要がある。

このししとうどれくらいかじろうかな、

とか、

このキュウリを茄子と一緒に食べたらどんな味がするかな、

とか。

自分を問われるというか、自分と対話するというか、そういうご飯なんです。

で、それは僕にとっての長澤さんの歌ととても近いんです。

長澤知之さんの歌

長澤さんの声はとても特徴的。言葉は強く、メロディは身体と心の必然性に沿っている。いい意味でBGMにはなり得ない、聴くからには聴いている自分を見つめざるを得ないような歌。
とても美しい歌。

もう愛しかない

結局これに尽きるなと思います。

ゆうきさんのご飯も長澤知之さんの歌も、愛。

愛は嘘や怒りも含むもの。ゆうきさんのご飯にも苦みや渋みはあるし、長澤さんの歌にも人を傷つけるかもしれない言葉は使われている。

味覚は人それぞれ、言葉に対する反応も人それぞれだから。

それでも、いやだからこそか、それは愛そのものなんだ。

もう愛しかない、し、もう愛しかほしくない。

だから僕も愛そのものでありたいな。

先は遠いけど、そう思います。

京都にいるのもあと10日を切りました。

愛と共に生きていきたいな。

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