樺太(サハリン)残留邦人について

昔、お母さんが樺太の郵便局に勤めていた、
という友達がいた。
その局長はウクライナ人で、彼女はロシア語を教わり
ロシア語で会話していたそうだ。
もちろん、彼女は日本に戻った。

自分は最初、独学でロシア語を勉強していたので、
その友達のお母さんに発音を教えてもらったことが何度かある。
もっと色々な話を聞いておくべきだった。


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南サハリンは40年間、日本領だった。
その間には、地元を離れずに残ったロシア人もいた。

残留ロシア人(ざんりゅうロシアじん)とは、ポーツマス条約によりロシア帝国から大日本帝国に編入された南樺太に、そのまま残留し続けた元ロシア帝国国民のうち、元からの先住民族を除く者を指す。「残留露人」ともいった。

1905年11月に発効されたポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された。
1945年8月のソ連対日参戦とともに赤軍が南樺太に侵攻(樺太の戦い)してソ連が南樺太を実効支配

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樺太(サハリン)残留邦人について検索すると中国残留孤児の事ばかりで、
サハリンのみは例が比較的少なかった為か見つかりにくかった。
中国残留日本人孤児や中国帰国者に関する記事に含まれている場合も多い。


 樺太は、日本の「内地」だった所


樺太からサハリンへ ↓  (改名された)

            リンク先に昔の写真あり


「サハリン」を知っていますか?(ある広報誌より)
「樺太残留邦人」についても触れている
  ↓ その広報誌(PDF)のリンク先
https://www.hkk.or.jp/kouhou/file/no702_outside-report.pdf

歴史  ざっくりと
1875(明治 8 )年 樺太・千島交換条約で
         日本領から樺太が除外される
1904(明治37)年 日露戦争開戦
1905(明治38)年 日露戦争の停戦後結ばれた
       ポーツマス条約により南樺太
     (北緯50度線以南)が日本領となる
1941(昭和16)年 日ソ中立条約が発効、
        相互不可侵が義務づけられる
1945(昭和20)年 8 月11日 ソ連軍が北緯50度線を
        越えて侵入し、交戦開始
同年 8 月15日 日本、ポツダム宣言を受諾
同年 8 月22日 樺太での停戦合意が成立
1951(昭和26)年 サンフランシスコ平和条約により
        日本国は樺太に関する権利を放棄



引揚者(ひきあげしゃ)とは、1945年昭和20年)8月15日日本大東亜戦争太平洋戦争および日中戦争)で連合国に降伏したことを受け、日本の外地[注釈 1]占領地[注釈 2]または内地ソ連軍被占領地[注釈 3]居住ないし移住していた民間日本人のうち、日本の本土内地)へ帰還(引き揚げ)した者を指す[1][注釈 4]


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戦後、当地にいた日本人が、
戦前まで日本の領土だった場所から、
現在の日本領内への引き上げたが、
できなかった人や、親を失った子達が当地に残された。

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中国と樺太等残留邦人についてとその帰国 (PDF)
http://www.hokkaido-sien-center.jp/papers/panelsample1.pdf

1905年(明治38年)のポーツマス条約
     サハリン島の北緯50度以南が日本領となる
945年(昭和20年)8月9日 ソ連軍の対日参戦
      樺太には11日に侵攻し戦闘態勢に
1946年(昭和21年)12月 ソ連地区引揚に関する米ソ協定
1949年(昭和24年)7月までにおよそ29万人が引き揚げ
1956年(昭和31年)日ソ国交正常化
1959年(昭和34年)までに約800世帯が引き揚げ
1965年(昭和40年)サハリン墓参始まる
1989年(平成元年) 「樺太同胞一時帰国促進の会」設立
1990年(平成2年) 「樺太同胞一時帰国促進の会」による
             集団一時帰国開始

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中国帰国者支援・交流センター(厚生労働省の管轄)
https://www.sien-center.or.jp/index.html

 樺太等残留邦人関係統計一覧
         平成27年3月31日現在

1 帰国者数(平成元年度以降)
・既に永住帰国した者の数 103世帯 273名
・既に一時帰国した者の数 2,158世帯 3,091名

2 現在樺太等に残っている邦人数
・現在樺太等に残っている邦人数
410名 (内訳) 樺太 353名  
旧ソ連本土 57名  

3 身元引受人登録者数等
  ・身元引受人登録者数 29名
    (団体5を含む)
  ・あっせん実績 82世帯


『中国残留邦人等とは「中国残留邦人」の方々と
「樺太等残留邦人」の方々を「中国残留邦人等」と総称しています。』
厚生省 → https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido02/index.html


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十数年前、ある駅前を歩いていると、前方から中年の男女が
ロシア語を話しながら歩いてくるのに気づいた。
東洋人の女性はロシアにいる東洋人風だったが、
日本人が話す時の日本語訛りはないようだった。
場違いに驚いて思わず立ち止まって見つめてしまったら、
気づいた奥さんがたどたどしい日本語で声をかけてきた。
少し話すと、サハリンからの帰国者で訓練中なのだと言った。
ご主人はロシア人。(ご夫婦だった)
息子は結婚してドイツにいるが、ドイツは遠いから…と。
(確かに日本からの方が、直通便がありそうだ)
今後は北海道に住むことになっているとの事だった。



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 下に「本」の紹介文があるが、
 サハリンの朝鮮系の残留者にも言及。
 どちらも大日本帝国だった。
 朝鮮半島からサハリンに渡った日本(帝国)国籍?の人達。
 →  http://www.kokusai-shoin.co.jp/296.html


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中国とサハリン以外にも残された日本人がいる。
  「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」

https://asiandocs.co.jp/set/485/con/478
ドキュメンタリー映画。太平洋戦争以前、フィリピンには3万人もの日本人移民社会が存在した。彼らの運命を変えたのは、日本軍のフィリピン占領。軍属に徴用された父親は、敗戦後に日本へ送還。母親と共に置き去りにされた子は、年老いた今も多くが無国籍状態のままだ。日本の植民地・満州国にも、敗戦後に置き去りにされた子どもたちがいた。戦後30余年を経て帰国できたが、言葉や社会制度の壁による差別と貧困に苦しんだ。




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ー ー お ー ま ー け ー ー 

19世紀文学作品

『サハリン島』 «Остров Сахалин»

劇作家・小説家として知られるアントン・チェーホフによるロシア帝国サハリン(樺太)への旅行記録および流刑地調査の記録である[1]

アントン・チェーホフはサハリン島に流刑に処せられた囚人の生活に興味を持ち、流刑囚の実態を研究するため1889年モスクワを出発してシベリアを経由し、そこでいくつかのエッセイを執筆したのち、1890年7月にサハリンに渡った[1]

(チェーホフは日本人女性にも魅せられた!らしい)

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