浅野部隊(白系ロシア人部隊)とは? 旧日本軍にあった…
3回前のNOTEで「シベリア出兵」について調べた時、
「浅野部隊」が気になったので、再度検索した。
浅野部隊
Wiki 日本語版
浅野部隊(あさのぶたい)は、満州国軍にあった白系ロシア人部隊の通称。関東軍の指導を受け、対ソビエト連邦の諜報・破壊工作を目的に編成された。通称名は初代部隊長浅野節(あさの まこと)にちなむ。
浅野部隊の日本人・白系ロシア人軍官(前列)および副士官(後列)。軍官の佩刀には日本式とロシア式とが混在している。
創設 1937年6月
廃止 1945年4月~6月上旬
所属政体 満洲国
所属組織 満洲国軍
部隊編制単位 営(大隊)
兵科 騎兵 / 歩兵
人員 約700名(1941年)
所在地 ハルビン近郊第二松花江河畔
主な戦歴 ノモンハン事件、関東軍特種演習
背景
1917年のロシア革命とそれに続くロシア内戦により本国を離れ、満州国内に居住していた白系ロシア人(白系露人)は約7万人であった。その居住分布は ハルビン近郊に約3万人、ハイラル周辺に約2万人、牡丹江周辺に約1万人となっていた。関東軍のハルビン特務機関は対ソ連情報活動や、有事の際に利用できるようにするためにも白系ロシア人を統一把握したいと考え、1934年に白系露人事務局を設立しその内面指導をおこなっていた[1][2]。
また、関東軍の対ソ作戦計画の基本は「西(北)守・東攻」[3]であり、北正面においてシベリア鉄道が満ソ国境近くを走行しているという戦力的弱点に乗じ、ゲリラ戦による鉄道破壊などの威力謀略が研究されていた。そして、そのトンネル・鉄橋等を目標とした鉄道破壊には、白系ロシア人を含む謀略部隊を平素から訓練しておく必要があると考えられていた[4]。
1936年末頃、関東軍第2課長(情報)河辺虎四郎大佐の発想により、白系ロシア人部隊の編成構想が具体化され、第2課山岡道武参謀とハルビン特務機関小野打寛少佐が部隊の創設業務を担当した[5]。要員はザバイカル・コサック移民部落のある興安北省三河地方の一般軍事教育を終了した青年を中心として、その他ハルビン市民や旧東清鉄道南部の住民、脱走ソ連兵も少数含まれた[6]。(松花江部隊、後述)
編成
松花江部隊
1937年6月、満州国治安部に属する部隊として白系ロシア人部隊が設立された。指揮官には浅野節[7]満州国軍中校(のち上校)が任命され、通称「浅野部隊」(特にこの主力部隊は「松花江部隊」)と呼ばれた。ハルビン近郊の第二松花江鉄道橋の畔にあった旧ロシア軍兵舎を駐屯地とし、コサックを主とする騎兵2個連(中隊)より成った。幹部は日本人・ロシア人・満州人の混成で、覆面部隊としてその存在は秘匿された。表向きは満州国軍の一部隊として処理されたが、実際には関東軍ハルビン特務機関長の指揮を受けることになっていた[5]。
浅野部隊の目的は関東軍の命令により平時・戦時問わずソ連領内に潜入し、スパイ工作・破壊工作などによってソ連を内部から崩壊させることにあった。隊員の教育訓練は潜入、偵察、破壊の謀略技術を主としており、例として鉄道・工場・軍事施設の爆破、列車の転覆、放火、ビラ散布、渡河などを訓練した。用語はロシア語を使用し、部隊は外部との交渉を遮断していた。隊員は、頭髪を長髪とし、隊内では満州国軍軍服を着用、外出の場合は軍服の着用が禁止された。そのほか謀略用資材として、現行ソ連軍と同様の軍服、ソ連紙幣、その他一切の携行品が動員用に用意されていた[8]。1941年の編成表によれば、松花江の第1、第2連(騎兵)と横道河子の第3連(歩兵)の兵員数は約700名であった[9]。
横道河子部隊
北満鉄道東部線ハルビン―牡丹江間にある横道河子(おうどうかし)付近には、北鉄接収以前から有力なロシア人森林警察隊があり、ハルビン特務機関の指導員が出て軍事訓練や謀略教育を行っていた。1941年の関東軍特種演習(関特演)を機会に改編、横道河子部隊(歩兵隊1個連)として満州国軍に編入され、松花江浅野部隊の兄弟部隊として関東軍情報部(旧ハルビン特務機関)の指揮下に置かれた[5]。
横道河子では、歩兵隊編成後も引き続き、森林警察訓練所で白系森林警察隊員のほか、時々白系鉄道警護隊員を召集し、軍事訓練を実施していた。1944年、この森林警察訓練所の主力は横道河子歩兵隊と合同され、その編成は本部・通信排(小隊)1個・歩兵連(中隊)2個となった[5]。
海拉爾部隊
西のハイラル(海拉爾)地区における三河付近はザバイカル・コサックの中心地として反共主義を掲げ、その結束も強かった。1941年の関特演の際には、白系露人事務局長アレクセイ・バクシェーエフ(ロシア語版)(元白衛軍中将)が、祖国復興を熱望する青年約100名を自主的に動員し関東軍に協力を申し出た。情報部ハイラル支部は威力謀略要員として、約3週間の特別教育を施した。ロシア内戦時にパルチザン隊を組織して戦ったコサック大尉I・A・ペシュコフを隊長とし、陸軍中野学校出身の久保盛太大尉と下士官1名が付いて指導を行った。ハイラル支部は情報部長の許可を得てこの隊をコサック警察予備隊とし、松花江の浅野部隊から馬を約80頭無償で保管転換を受け、兵器は日本軍から融通した。服装はザバイカル・コサックのズボンとルパシカ、軍帽を作り、1942年には兵舎が完成、軍旗も制定した。1943年、この警察隊も満州国軍に編入され、浅野部隊の別働隊(騎兵約1個連)となった[5][10]。
活動
1939年夏に発生したノモンハン事件において、ハルビン特務機関はソ連・モンゴル軍の情報収集や対ソ蒙謀略工作をおこなうため、第1、第2野戦情報隊をノモンハンへ出動させた。この隊員は日本人工作員のほか、浅野部隊白系ロシア人、満州国軍人、脱走外蒙軍人で構成されていた。戦場では捕虜の取り調べ、無線機による敵情報の収集・報告、謀略工作等をおこなっていたが、ソ連軍戦車集団の激しい集中攻撃に巻き込まれ四散してしまった[11]。
1941年、関東軍特種演習(関特演)が開始されると、日本人挺進隊、白系ロシア人部隊(浅野部隊)による威力謀略(挺進攻撃)準備が実行に移された。その構想は、満州北端黒河省の漠河、鴎浦各付近に選抜隊員を進出させて、隠密に偵察・訓練をおこなうとともに、弾爆薬・衣料など戦闘物資を集積し、態勢が整えばこの両地点からソ連軍軍服をまとい、国境を突破してマグダガチ(ロシア語版)、ルハロヴォ付近に進出してシベリア鉄道を遮断しようと企図したものであった[12]。
8月中旬、漠河、鴎浦には村田武経少佐を始めとする中野学校出身の将校・下士官、その他工作員が派遣され、偽名を使い満州国国境警察隊員に身分を隠し、本隊進出の準備を進めた。また漠河には、日本人からなる特別挺進隊(長:在田良雄上尉、満軍日系軍官2、日系見習士官8)がいち早く進出した。1942年に入ると開拓義勇団から有能な訓練生10名が増派され、挺進隊もまた満州国警察官に偽装して村田少佐らの作業を援助しながら、時期の到来を待った[12]。
浅野部隊主力は嫩江上流の甘河特殊移民部落(現加格達奇区付近)を基地として、全部隊の訓練を実施した。その中より選抜した会田正光上尉以下約40名は黒河、鴎浦を経由して、1941年12月までに漠河付近に進出、猛訓練を行いつつ待機した。浅野部隊長以下約120名は、同年9月江上輸送により鴎浦へ入った[12]。
こうして挺進攻撃の準備は整ったが、結局対ソ戦は行われず、鴎浦部隊は1942年夏、漠河部隊は1943年6月頃、それぞれ原駐地に撤退帰還した[12]。
改編と終焉
1944年9月、関東軍情報部長土居明夫少将は、当時の情勢上からできるだけ対ソ刺激を避けることを目的として、従来秘密部隊であった浅野部隊を一般部隊に切り替え、白系ロシア人青年の団体的訓練所たるものとするよう改編を行った。元コサック大佐ヤコフ・スミルノフを満州国軍上校に特別任用して隊長とした。スミルノフ上校以下、幹部全員が白系ロシア人軍官となり、情報部から中野学校出身の将校・下士官が教育・錬成・管理全般の指導顧問として派遣される仕組みとなった。兵士は一般満州国軍と同様に志願者から採用し、在営年限は9年半が標準とされた[13]。部隊創設以来長く隊長だった浅野節上校は、ハルビンの情報部本部で、白系ロシア人部隊の運営・訓練に関する第4班の顧問となった[14]。
1945年4月、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、内外の情勢に鑑み、対ソ緊急措置の一環として白系ロシア人部隊を解散するよう指示した。こうして6月上旬までに松花江主力部隊(当時の在隊兵員約250名)、海拉爾部隊(在隊兵員約150名)、横道河子部隊(在隊兵員約50名)および森林警察訓練所は、全部隊解隊された。その後は隊員の中で希望者をもって勤労団を組織し、情報部援助のもとで農耕や平和的建設作業等に振り向けることとなった[15][15]。
同年8月、ソ連対日参戦にあたり、ハイラルではかつての海拉爾部隊の一部が集結して、白系コサック部隊としてソ連軍の背後で遊撃戦を展開しようと行動を起こしたが、連絡の不備と誤解した現地日本軍の攻撃を受け隊長以下がその犠牲となった[16][17]。
8月15日、浅野上校のところへ、かつて浅野部隊の隊付幹部で特に信頼を寄せていたグルゲン・ナゴリャン(ロシア語版)(ナゴレン)少校が現れ、進駐してくるソ連軍本部へ同行するよう求めた。浅野上校は自室において青酸カリを飲み自決を図ったが、ナゴリャン少校に発見され、昏睡状態のままトラックでソ連軍司令部に運ばれていった[17]。ナゴリャン少校は敗戦前からソ連軍と通諜しており、日系軍官の摘発に力を貸していた[18]。このほかに松花江部隊長スミルノフ上校をはじめ、白系露人事務局幹部の中にもソ連の内通者がいたことが敗戦後判明している[19]。
脚注
^ 西原(1980年)、201-202頁。
^ 西原(1980年)、206-207頁。
^ 日ソ開戦の場合に西(北)方面では一部兵力で持久し、東正面において日本軍主力で攻勢をとり沿海州のソ連軍を無力化、その後西(北)方面に兵力を移しソ連軍主力と大持久戦を行うという計画。
^ 西原(1980年)、172-173頁。
^ 牧南(2004年)、73頁。
^ 日本軍予備役、陸士第33期。
^ 牧南(2004年)、74頁。
^ 牧南(2004年)、75頁。
^ 西原(1980年)、109-110頁。
^ 西原(1980年)、279-280頁。
^ 西原(1980年)、182-183頁。
^ 西原(1980年)、183-184頁。
^ 西原(1980年)、110頁。
^ 牧南(2004年)、77頁。
^ 西原(1980年)、216頁。
参考文献
西原征夫 『全記録ハルビン特務機関―関東軍情報部の軌跡』 毎日新聞社、1980年。
牧南恭子 『五千日の軍隊―満洲国軍の軍官たち』 創林社、2004年。ISBN 978-4906153169
小澤親光 『秘史満州国軍―日系軍官の役割』 柏書房、1976年。
関連項目
カテゴリ:
最終更新 2023年11月24日 (金) 20:13 (日時
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Wiki ロシア語版
浅野部隊
Бригада Асано
浅野旅団 浅野部隊
設立年 1938年~1943年
国名 満州国
件名 関東軍、満州帝国軍
従属 満州帝国陸軍
種類 分遣隊、旅団、破壊工作および偵察隊
含む 分遣隊(部分)鷲尾、朝倉、櫛田、大村
機能 破壊工作と偵察
番号 800-3500
位置 スンガリII、ハンダオヘジ
庇護 勝利の守護聖人ゲオルギー
スローガン "勝利へ!"
色 カーキ
装備品 アリサカ式38口径小銃、
シュタイヤー・ソロターンS1-100、
騎兵用サーベル32型、南部式14口径拳銃
参加 ハサンの戦い、ハルキン・ゴルの戦い
徽章 肩章、コケード(円形章)、十字形の胸バッジ
司令部 名部隊長 浅野節(あさの まこと)
浅野旅団(日本語では浅野部隊)は、満州に住む白人移民で編成された満州国軍の武装隊である。
1,企画
1936年末、関東軍司令部の虎城川辺大佐の立案した計画により、森林警察、山岳警察、特殊訓練を受けた警備分隊など、バラバラに編成されていた準軍事的な移民部隊(1932年から結成)を一つの軍隊に統合することが決定された。しかし、ロシア移民による一個軍部隊の編成は遅れ、登場したのは1938年初頭であった[1]。
2,設立
1938年初頭、満州国軍の中で最初のロシア軍部隊が編成され、指揮官の浅野誠少佐(1939年からは中佐、後に大佐)にちなんで命名された[2]。彼の側近は、移住者のH・H・ナゴリアン[1]であった。偵察・破壊工作部隊として編成されたこの部隊は、ハルピンから60キロ離れたスンガリ2号鉄道駅付近に潜伏していた。最初の部隊は、ロシアの森林警察部隊から特別に派遣された者、ロシアファシスト連合の訓練チームのメンバー、君主制協会の代表者、技術系の職業の若者、コサックの若者などで、最大で250人が編成された。正式な創設日は1938年4月29日で、募集が終了し、満州国国事行為[3]を受けた時である。
3,組織
当初は、指揮官の名前を冠した「ワシオ隊」「アサクラ隊」「クシダ隊」「オオムラ隊」の4つの隊があった。ワシオ部隊は、日本製の小銃で武装したライフル部隊であった。朝倉の部隊は、計画では散兵部隊であったが、実際には小銃部隊として運用された。クシハダ隊は砲兵隊(武装は山砲と馬上爆撃機)であった。大村の部分は無線電信装置であった。分遣隊での勤務期間は3年であった[4]。1939年、浅野別働隊は騎兵隊となった。その後、スンガリ騎兵隊、ハンダオヘジ歩兵隊、ハイラル・カザーク隊という3つのロシア軍分遣隊があった。分遣隊の総数は最大で800人であった[5]。
4,構成
浅野別働隊は、当初は有志を募っていた。その後、18歳から36歳の移民を動員しての採用が行われた[6]。白人の動員は、日本の軍事使節団によって組織された。それは、健康上の理由から徴兵者の兵役適合性を判断するものであった[7]。
5,ユニフォーム
浅野分遣隊の士官候補生は、日本の軍服を真似た満州国軍の軍服-98式-を着用していた。二等兵は頭に五芒星(ごぼうせい)のついた帽子をかぶっていた。警官もキャップを使用した。
6,戦闘
1938年、日本軍が朝鮮ゲリラとの戦闘に使用した[8]。浅野分隊小隊はハサン湖での戦闘に参加した。小隊のメンバーは、主に日本軍部隊間の通信を復旧させるために使われた。浅野隊は、ハルキンゴル川付近での戦闘(1939年5月〜9月)、いわゆるノモンガン事件(ハルキンゴル川沿いの領土をめぐる日ソの衝突)に参加した。戦闘中、分遣隊の無線オペレーター、ミハイル・ナタロフが殺された。いろいろな資料によると、アサノフ隊には成功と失敗があり、それは隊員の中にソ連の工作員がいたためだという。一方、日本に仕えたロシア人の中には、武士の模範となるような活躍をした者もいた。
7,1940年から1943年にかけて
1940年、浅野のロシア歩兵部隊が半田尾崎駅に駐屯していた。指揮をとるのは、満州国勤務のロシア人少佐A.N.グカエフである。大祖国戦争が始まると、「浅野」というグループのロシア人の中から、優秀な兵士400人が選ばれ、ソ連後方に派遣されて破壊工作を行った。人目を避けるために私服に身を包み、5つのグループに分かれて鉄道でサハリンに向かい、クマエル村に送られた。75ミリ砲を含むロシア製と日本製の武器が与えられた。アサノフの人たちは、その場で反共産主義的な扱いを強化された。彼らはプロパガンダの短期講習を受けた後、破壊工作をマスターした。各班にはハルビンの日本軍公使の代表者がいて、厳しい規律を課し、日ソ両軍の規則を各兵士にはっきり認識させた。1941年夏、スンガリ二号駐屯地に浅野分遣隊の第二陣が編成され、秋にはハンダオヘジ駐屯地に新しいロシア軍部隊「アサヨコ」(ハンダオヘジ駐屯地浅野班)が編成された。これは9月に30歳以下のロシア山林警察と片平隊、加治山隊から採用した浅野班のメンバーで構成されたものである。朝陽子の部隊は、2個歩兵小隊約100人。分隊長は木村盛雄大尉、第1小隊長は満州国陸軍中尉のA・N・グカエフ大尉、第2小隊長は元憲兵学校士官候補生のアゲイエフ中尉であった。
任期は当初3カ月、後に6カ月となった。1942年からは、ロシア移民の若者はすべて浅野に徴兵されることになった。ロシア旅団は3,500人の銃剣とサーベル、そして同じ数の予備兵を擁していた。1943年夏、スンガリIIから朝倉大尉とロシア人教官数名が到着した。小銃手、擲弾筒手、無線手、爆撃手など、新しいグループが中隊に加わり、下士官は80人から100人にまで増加した。
クルスクの戦いの後、日本がついにソ連への攻撃を当面見送った後も、日本の諜報機関は正規軍に編入された「浅野」分遣隊から偵察やサボタージュの人員を引き抜いていたのである。また、ロシア部隊は満州国軍の中で最も信頼性が高く、戦闘能力が高いとされていたため、満州部隊の反乱鎮圧や対パルチザン作戦の可能性も準備されていた。1943年11月まで、ロシア軍分遣隊の指揮官には日本人の将校が多くいた。こうして、それまで浅野別働隊の隊長は、浅野誠が務めていた。1943年11月からは、日本人の将校に代わってロシア人の将校が就任した。
6,活動の改革と終了
1943年12月、浅野分遣隊は満州帝国陸軍のロシア軍に編入された。この浅野別働隊という軍隊の歴史は、そこで終わっている。にもかかわらず、関東軍側のロシア軍部隊のさらなる編成を「浅野旅団」と誤って呼ぶ者が多かった[9]。
(deepleで翻訳、読みやすいよう多少手を加えた)
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Wiki ポーランド語版
浅野旅団 Google自動翻訳・全文コピペ
歴史
国 満州国
形成 1938年
脱型 1943年
軍事作戦
日中戦争
組織
コード名 独立奇兵隊
脱臼 スンガリ川沿い
形成 満州国軍
軍隊の種類 歩兵
構成 4つのサブユニット
「浅野」旅団 Brygada Asano(日本語: 浅野部隊、ロシア語: Асано-Бутай) -満州国に奉仕する白系ロシア人で構成されるボランティア協力主義戦術組合。
1936年末、日本の関東軍司令部は、 1932年以来存在していた「白人」ロシア人とコサック移民 で構成されるすべての編隊と部隊を1つの軍事部隊に統合する計画を立てた。
この考えの実現が可能になったのは1938 年の初めになってからでした。4月末には、いわゆる満州国陸軍の編成が完了しました。 「浅野」部隊の名前は、日本の陸軍少佐であり、その指揮を執った満州国軍の名誉中佐(後に大佐)である浅野誠の姓に由来しています。副議長はグルゲン・C・H氏でした。ナゴリアン。
この支部への主な貢献者の一人は、ハルビンに本拠を置くロシア・ファシスト党の指導者、コンスタンチン・W・キンデフスキーであった。偽情報の目的で独立奇兵隊、すなわち独立騎兵部隊「浅野」という名称が使用された。彼らは、それが別のコサック騎兵部隊であるという印象を作りたかったのです。
日本軍はソ連極東とシベリアを攻撃する計画を準備していた。この目的のために、彼らは満州国との国境にロシアの傀儡国家を創設するという構想を検討した。 「アサノ」部隊は、これらの計画に対するロシア人とコサックの支持を確保することになっていた。彼の任務は国境のソ連側で破壊活動と偵察活動を行うことであった。
この部隊はスンガリ川沿いのスンガリ II駅に駐屯していた。当初の参加者は、民兵組織森林警察、ロシア・ファシスト党の訓練部隊、君主主義者協会、その他の移民団体、およびロシア人とコサックの若者から約250名であった。彼らの勤務は3年間続くことになっていた。彼らは日本の軍服を着ていましたが、後に赤軍の軍服を受け取りました。この部隊は、小銃兵、工兵、砲兵、無線電信の 4 つの下位部隊で構成されていました。彼らの名前は日本の指揮官の姓に由来しています。
1938 年、部隊は最初に地元の共産主義パルチザンとの戦闘に参加し、その後 7 月と 8 月の変わり目に、部隊の小隊はチャサン湖でのソ連軍との戦闘に参加しました(参照: 1938 年のチャサン湖での戦闘)。彼はそこで連絡任務を遂行しただけだった。
1939年、「浅野」部隊は3個中隊と司令部中隊(実際は小隊規模)からなる騎兵部隊に改組された。その数は約700名に達しました。兵士の一部は18歳から36歳までの移民を秘密裏に動員して獲得した。この募集は、部隊を監督した満州国の日本軍使節団によって組織され、実施された。
1939 年 5 月から 9 月にかけて、「浅野」部隊はハルヒン・ゴルの戦いに参加しました。情報筋によると、ソ連の工作員が部隊への侵入に成功し、白系ロシア人とコサックの戦闘士気の低下を引き起こしたという。
1940 年、部隊の歩兵は満州東部の横道河子駅に駐屯しました。それを率いたのは満州国軍中尉で白系ロシア人のAN・グカエフだった。
1941 年半ばにドイツがソ連を侵略した後、日本軍は約 400 人の兵士を部隊から切り離しました。適切な訓練の後、彼らは国境のすぐ後ろと敵の遠く後方の両方で偵察、破壊活動、ゲリラ戦を行うために集団でソ連側に移送され始めた。彼らは反共産主義のプロパガンダも行うことになっていた。彼らは民間服を着ていた。彼らは日本とソ連の兵器を持っていた。
1941 年半ばから、スンガリ II 基地で新しいサブユニットの編成が始まりました。 9月、横島河子駅に歩兵2個小隊(指揮官:AN・グカジュー中尉とアギエジュー中尉)からなる「朝横」部隊が設立され、その数は約100人となった。それは日本人将校である大佐が率いていました。木村守男。 10月には、約50人からなるハイラル馬警察部隊が設立された。エサウ ・イヴァン・A・ペシコフが司令官となり、エサウ2世・ジコフが副司令官となった。彼の兵士たちは満州国軍の警察の制服を着ていた。
1942年から「浅野」支店の公募が始まりました。彼は、約3.5千人に達する「アサノ」旅団への変革を導きました。兵隊。彼らは満州国軍国境部隊の制服を着ていた。1943 年の夏、大尉はスンガリ II 駅に到着しました。朝倉先生とロシア人講師数名。旅団には、ライフル、グレネードランチャー、無線ユニットといった新しいサブユニットが創設されました。
1943 年12 月、旅団は満州国陸軍ロシア軍部隊に改組された。
参考文献
セルゲイ・S・バルマソフ、北江で兵役に就いているベロ移民たち、2007年
オレグ・G・ゴンチャレンコ、政府とかぎ十字からのベロ移民、2005年
アレクサンドル・V・オコロコフ、ロシア語、2007
外部リンク
浅野部隊の物語を含む、日本とロシアの工作員に対するソ連国境警備隊の戦いに関する記事(ロシア語)
最終編集日は 2019 年 7 月 22 日 20:31
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その他のサイトから
ロシア・ビヨンドの記事
現代のロシア人記者から見た ロシア・ビヨンドの記事 ↓ 写真も興味深い
Weblioの説明では ↓
Youtube 動画より
【ロシアの侍】日本軍とともに戦った白系ロシア人部隊とは 《日本の火力》
↓ Youtube
画像検索
画像検索で出てきた写真も興味深い ↓
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満州つながりで
関係があるか分からないが、前回ご紹介の
最後のコサック、ビクトル古賀さんが生まれた
満州のハイラルという町の名が、
浅野部隊の解説の中で、出てきた。
コサックだったお祖父さんと、
浅野部隊は接点があっただろうか。
「ロシア皇帝ニコライ2世の近衛兵を務めたコサック騎兵隊のアタマン(頭目)だった」(Wikiより) そうだ。
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ロシア語版wikiにあるスンガリ川の名を聞いて、
ロシア・レストラン「スンガリー」の名を思い出した。
「スンガリー」ってどういう意味かと思っことがある。
満州語の川の名で、設立者(加藤登紀子さんの父)が
満州を思って付けたのだそうだ。
(2024年4月13日(土)に、補足、手直し等を行った。)
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