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30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象11 クリミア半島3 スダク1


コクテベリを離れ、スダクへ向かった。
約40㎞離れているので、多分1時間程度バスに揺られた。

GoogleMapでは車42分となっている ↓

↑ 赤いマークの所がスダック


町は非常に独特で、
前半に紹介スペースを長く(⅔近く)取ってある。(画像多め)

この町の”旅”は、
目次の後半「旅の続き」から。


スダクはどんな街

Судак、Sudak、スダク
aの音に力点があり、自分にはスダックと(いう発音に)聞こえていた。
スダークでもいいが、ここではスダクと書く。

ここを選んだのは、古い要塞跡の写真をいくつも見たことで、実際に訪れて歩きたかったからである。

荒涼とした大地に建つ、荒れ果てた要塞



スダクの町の紹介

現在は人気のリゾート地。
要塞とビーチで有名。

現在の、要塞からの海岸の眺め


隣の小さいけど高い岩山「砂糖の山」から要塞を見ると


隣の小さいけど高い岩山「砂糖の山」から


Wiki ロシア語版と英語版を見る

ロシア語版から

「4 世紀の最初の 3 分の 1 にコンスタンティヌス 1 世の治世中にローマ兵士によって建てられた大きな防御施設 (ブルク) の名前に由来しています。

オスマン帝国時代にこの都市はスダクという名前になり…

市の名前のもう一つの可能​​性は、古代チュルク語の「弓」に由来するもので、海岸の曲がり角であるスダク湾が古代の手武器のアーチの形をしていることから来ています。」


歴史を抜き出し~Wikiロシア語より

(古代)
ソビエト民族学者の学者 A・V・ガドロの結論によると 、この都市はアラン人(イランの部族)によって設立されたという。
おそらく212 年

III-IV世紀の変わり目。ローマ軍事政権・・・。激しいケルソネソス・ボスポラス戦争が起こり、その間ローマはケルソネソスの同盟者として行動しました。
その結果、コンスタンティヌス1世の治世中の4世紀の最初の3分の1に、湾の岸に2つの四角い塔「ブルグ」という強力な防御施設が建設されました 。
中世にこの集落の・・・基礎となり、その後、現代の都市スダクが誕生しました。ローマの城塞の主な任務は、港、船、貨物、係留所、そして湾の岸に生じた集落を保護することでした。
450年代に、入植地と港はフン族によって破壊されました。
560年代にビザンチウムは再び活動を再開しました。

中世には、この都市はスグデヤおよびソルダヤと呼ばれ、ギリシャ人やイタリア人を含むさまざまな国からの商人、商人、職人の到来により人口が増加。

8 世紀末または 9 世紀初頭のルーシによるスロシュの占領。

シルクロードの重要な中継点となり、 12世紀から13 世紀にかけて最大の繁栄を極めました。

1206年コンスタンティノープルの征服とビザンティウムの分割後、この都市はヴェネツィア貿易共和国の支配下に入ったが、実際にはキプチャク朝によって統治されていた。
1222年頃小アジアのセルジューク朝によって襲撃され 、セルジューク朝はキプチャク軍を破り、ロシアもそれに加わった。

13 世紀から14 世紀にかけて、都市はモンゴル人によって荒廃し、破壊されましたが、すぐに修復。

1365年ジェノバ人に征服され、ソルダヤ領事館の中心地としてクリミアのジェノバ領に組み込まれた。この期間中、毎年選出されるイタリア領事によって統治されました。

この時代から「ジェノヴァの要塞」と呼ばれる塔や城壁が保存されています。

1475 年、ジェノバの全領土とクリミアのテオドロ正教公国とともに、スダクはオスマン帝国によって征服されました。

1783年スダクはクリミア全土とともにロシア帝国に渡った。

1774 年にポチョムキンに代わってハンガリーのビンボラザールがブドウ畑 (トカイのブドウ 5,000 本) を復元し、地下室と噴水を備えたコニャックとリキュールの生産のための工場をスダクに設立しました。

1805 年の国勢調査によると、わずか 33 人でした。
1804 年にロシア初のワイン醸造学校がここに開校されました。
1982 年になって初めて都市の地位を取り戻しました。
1920年、ワイン製造企業SE「スダック」が設立された

1941 年 11 月から 1944 年 4 月までの大祖国戦争中、ドイツ・ルーマニア軍によって占領されました。
1942 年 1 月、スダック上陸部隊が市に上陸し、市は解放され、ほぼ 2 週間にわたって優勢な敵軍から守られました。」


  ※chromeの自動翻訳にて。一部を転載。


 要塞いつ、誰によって
作られたかを知りたかったため、
この自分の手記に歴史の記述を借用した。

 14世紀(1365年~)に、
ジェノヴァ人によって、
という事が分かった。

 多くの民族がこの地で 
争奪戦を繰り広げた事を想像できたが、
イタリア人が出てきたのは予想外だった。
ただ要塞の形状がヨーロッパ的だと
思えたので納得できた。

マルコ・ポーロより少し後か。
アジアへの道は、ここも経由したのか。

ロシアとイタリアが 
こんなところで繋がっていた

(地中海から黒海) 
(陸路では遠いが海路だと意外と近い)

(ロシアとイタリアの共通点を 
見つける度に不思議な気がしていた)


※ マルコ・ポーロ とは  
Marco Polo   
1254年頃 - 1324年1月8日
ヴェネツィア共和国の商人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AD



スダク、Wiki英語版と比較 ↓

「6 世紀に海岸近くでかなりの建設活動が行われた。[2]ビザンチンの影響下で、この都市はキリスト教化の対象となり、コンスタンティノープル総主教のもとで司教座が置かれ、787 年の第 2 回ニカイア公会議で初めて認証された。

考古学的証拠は、6 世紀の建造物が 8 ~ 9 世紀に放棄されたことを示していますが、その後のロシアの伝説 (おそらく偽典) では、この都市はほぼ同時期にロシアの族長ブラヴリンによって占領されたと主張されてます。
ビザンツ帝国の支配は失われ、その後この都市はおそらくハザール人の宗主権下に置かれ、それは 11 世紀初頭まで続きました。10世紀初頭、地元の司教座は大司教座に昇格した。」

   ※※ (英語版に) ハザール人が出てきた!!!
(露語版では触れていない)

「14 世紀のアラブ人旅行者イブン バットゥータは、その港をアレクサンドリアの港と比較しています。 13 世紀の年代記作家イブン アル アスィールは、この街を「キフジャクの都市」と書いています。そこから彼らの物質的な所有物が流れ出ます。ハザール海に面しています。船が衣服を積んでやって来ます。キフジク族は彼らから奴隷、毛皮を買ったり売ったりします。

おそらく 1016 年にハザール人の将軍ゲオルギウス・ツルが敗北した後、11 世紀半ばまでにスグダイアはビザンチンの支配下に戻りました。
世紀末までにクマン人の支配下に入り、それは 13 世紀まで続きました。
1222 年にセルジューク朝トルコ軍が包囲し、続いて1223 年と 1238 年にモンゴル帝国による破壊的な襲撃が行われました。 
1249年、都市はモンゴル黄金の大群の支配下に入りました。当時の人口はギリシャ人、アラン人、モンゴル人、アルメニア人、ラテン人、ユダヤ人を含む8,300人であったとされています。

13 世紀後半にクリミアにヴェネツィアジェノヴァの商業植民地が設立されたことによって繁栄しましたが、同時に、これら 2 つのライバル都市間の絶え間ない紛争に巻き込まれました。
14 世紀初頭、この都市はジェノヴァの植民地タナカッファに侵食されました。

(タタール人はイスラム教に改宗し、そのことが都市のギリシャ語を話す住民やキリスト教徒との関係悪化につながり、住民の多くは都市からの退去を余儀なくされた。)

1365 年 7 月 19 日、カッファ出身のジェノバ人がこの都市を占領し、ジェノバ貿易植民地となりました。ジェノバ人は都市を強化し、城塞を建設し、追放されたギリシャ人の大部分を帰還させました。

1475 年にオスマン帝国大宰相 ゲディク・アハメッド・パシャが長い包囲の末にジェノヴァを占領。スダクは軍事的および商業的な大部分を失いました。

1771 年、スダクはルミャンツェフの軍隊によって占領されました。
1783 年に、クリミアともに、決定的にロシア帝国に譲渡されました。
その時代に続いた不安定の結果として大量移住が起こったようです。
1778年にポチョムキンでさえ、 クリミアからのキリスト教徒の立ち退きを命じた。町は急速に小さな村に変わり、1805 年の国勢調査によると、スダクの住民はわずか 33 人でした。

1804 年に、ロシア初のブドウ栽培学校がここに開校されました。

町が現在の地位になったのは 1982 年です。」

  ※chromeの自動翻訳にて。一部を転載。

英語版には次のような記載もある。
「複数の旧東方正教司教座と二重ラテン・カトリック教会の称号を持つ町である。」

正教はロシア正教やウクライナ正教等であろう。
カトリックはイタリアの名残かは分からない。


   ※ハザールについてWiki日本語のリンク先 ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB



スダクの地図

Google mapでスダク。写真も見れる。
町の中心はやはり海辺らしい。
https://goo.gl/maps/3fkLjSfjNqDx3i1A



Yandex map で スダクを見る。
気球のマークをクリックすると上空からの360°パノラマが見れる。

ここからの風景が特に美しい。
これの180度逆の方向も、街並みの向こうがなだらかな山に繋がっていて、何ともいえない。ぜひリンク先を開いてご覧になって頂きたい。↓

リンク先 https://yandex.ru/maps/-/CDQZVY1E


* 余談             
町の地図を見ていたら”tokio”という店が目に入った。
スシ・バーらしいがパンダのマーク! (^^)
https://yandex.ru/maps/-/CDQFzV77



YouTube動画での旅

YouTubeで、紹介してくれている動画を見てみた。

1,
”シンとカーチャんねる/モスクワ在住夫婦”
このお2人の動画は時々見ているが、この動画は今回知った。


2,
スダクの町を歩く動画。今年6月19日でクリミア大橋の爆破(テロ)があった日、その事を話している。「いつもと街は何も違わない」と言いながらあちこちの通りを撮影している。動画の前半は原宿のように混んでいるが、興味深いのは後の方の 古めかしさがまだ残っているあたり。


3,
別の動画では、このビーチhttps://goo.gl/maps/dhzKGhAMmdV78kRy6でヴァカンスを楽しんでいる家族がカキを食べている様子が18分ごろ映っている。
https://www.youtube.com/watch?v=Mmv5Lpuh5Ro
(ロシア人もカキ食べるんだ!と驚いたので。
30年前に、貝を気持ち悪がって食べなかったのを覚えている。これについては次回に)




  ** 余談だが、同名の魚が存在する。この町とは全く関係ない。
    スダクでスダクは食べれないと思う・・・

町の名とは無関係のスダクという淡水魚
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9E%D0%B1%D1%8B%D0%BA%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B5%D0%BD%D0%BD%D1%8B%D0%B9_%D1%81%D1%83%D0%B4%D0%B0%D0%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%81



アイヴァゾフスキーの絵 で19世紀のスダク

前回と前々回で名前の出た海の画家アイヴァゾフスキーは、スダクも何度も訪れていて沢山の絵を残している。
Google画像検索でアイヴァゾフスキー、スダク、絵と入れると出てくる。


1856年 Утро на морском берегу


1867 Приём императора в Судаке「スダクでの皇帝の歓迎」
”Wikiの一覧 (下※参照)” にないがアイヴァゾフスキーのサインらしきものがある。

このサイト↑に この絵はどの方向から描いたか地図で示してある。


1879年 https://www.wikiart.org/ru/ivan-ayvazovskiy/vid-sudakskoy-bukhty-1879


1893年 Судак. Крепость
手前の低い山に要塞が見える
https://yavarda.ru/images/artmir/sub_40030.jpg


1897年 Ливень в Судаке
https://www.wikiart.org/ru/ivan-ayvazovskiy/liven-v-sudake-1897

スダクでアイヴァゾフスキーが見た風景 ↓


※(これはWikiのアイヴァゾフスキーの絵の一覧 ↓ )




ー ー ー ー ー  


ジェノヴァの要塞 について

要塞跡の紹介

場所はここ↓


Wikiで ロシア語版 ”スダク要塞” (英語版はないので)

↑ 要塞は1371 年から 1469 年にかけてジェノバ人によって建設された、とある。


興味のある方は下のサイトに、多くの写真入りで歴史と要塞について非常に細かく説明されている。↓ ロシア語だがchrome自動翻訳でよく解る。
https://isar.org.ua/malenkaya-krepost/genuezskaya-krepost-v-sudake.html


スダクのジェノヴァ要塞のアルバム

沢山の美しい写真はこちら。
トリップアドヴァイザーtripadvisorのサイトで見れる。
(拝借させていただいた)
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g313973-d3676476-Reviews-Sudak_Fortress-Sudak.html

上の城壁
貴重な昔の大砲。クリミアには僅かしか残っていないそうだ。


あちこちから眺める

上の城壁
海からの眺め
東側から見た要塞


西側の山から見た要塞




どこを切り取っても美しい



要塞の入り口から登り始める

城門


高低差がかなりあるが、まだ余裕がある辺り
かなり急
登るのはけっこう大変



要塞向かって左を上って中腹から、壁の外側を眺めると岩礁が見える (記憶にある)
要塞に向かって左側を登った、中腹の城壁の上からの眺め




上の城壁を見上げる



上の城壁の展望デッキ


上の城壁を上から。上の展望デッキはここ。その奥の小屋が拷問具展の位置
かつて頂上へはここから登れたが…


頂上にも人がいるが、危険な為、今は閉鎖されているらしい



馬は観光用かな





 ※実は、同じような要塞は前日にいたフェオドシアにもあり、それを知ったのはこの手記の為に地図を見ていた時だった。
https://goo.gl/maps/kgUAYHVMtfSKwvsZA
ただ、こちらはまともに残っていず、修復もまだのようだ。

ジェノヴァ人達はクリミアにいくつの要塞を建てたのだろうかと興味が湧く。

https://karta-krym.com/kreposti-kryma
この ↑のサイトではクリミアの要塞を紹介している。
クリミアにある要塞はジェノヴァのだけではなさそう。




動画でジェノヴァの要塞

1,
空撮 4分半

2,
空撮、4K の美しい映像。12分 


3,
よく見せてくれて、頂上にも登った映像を披露してくれている。20分
(広角レンズなのでまっすぐな物が丸く見えている。)

下のリンク先 ↓ は上↑ と同じ人の動画、2019年4月霧の中での撮影。19分
https://www.youtube.com/watch?v=S1ayYK9deqE
10分頃:頂上から下りてきた時、柵の外にいるのを家族連れに見られてしまった様子だが、これが昔はなかった壁で、頂上への道が立ち入り禁止になっている。(この下の5番の動画でもそれに触れている。)

夏場はその壁を隠すように、ヨーロッパのお城あるあるの”拷問具展”になっているのを別な動画で見た。

4,
キョロキョロと風景を見まわしながら撮影してくれているので空間の位置関係が分かりやすいかも。13分
https://www.youtube.com/watch?v=lDaZKvdAKDI


5,
地元の夫婦らしい。ロシア語でおしゃべり多めだが、会話なので割と聞きやすい。2年前の2021年の訪問時の映像。監視カメラもあちこちにあり、2017年の訪問時と随分変わったと言っている。「子供の時はどこからでも入れた。城壁が ”修復” されてしまった。」 40分 (https://www.youtube.com/watch?v=A77BjoNb2ng)

(つまり自分が行った30年前に比べても
大きく変わったという事。)

https://youtu.be/ph1NeDWTFrg?si=h5a0dhjpPubNP8tR
↑ この同じ夫婦が 要塞の隣にある裸の岩山 ”砂糖の山” に登る動画


6,
2010年の動画、4分半
https://www.youtube.com/watch?v=XiyRsv3BsDs
まだウクライナ時代だった時のビデオ。
現在より貧しく派手さはない街並みだがこちらの方が落ち着く。
この動画の最初が何故かゴミだらけの道端の墓石から始まっていてちょっと悲しい。



※※
今の写真と比べると、
30年前ははるかにみすぼらしかった。
建物も人も少なく、あまり観光化されていなかった。
訪れた8月上旬でも観光客も少なかった。
ビーチも人はまばらだった。
要塞は人の手があまり入っていなかった。
要塞に入場料もなく
荒れ果てた廃墟があっただけだった。


上にあげたの5番の動画でも、観光化されて数年であちこち変わってしまったと嘆いていたが、もっと昔の写真を見つけたので数枚ネットから転載する。



昔のスダクの白黒写真

下の写真が何年のものかは不明だが
現在の写真を見ると修復が過剰すぎる気もする。

まばらにしか残っていなかった城壁
20世紀初頭らしい

参照
https://kodak-sudak.ru/articles/istoriya-sudaka
http://fotostarina.ru/sudak/
https://images.app.goo.gl/7kBWtMY3UyGuaLwn7
https://images.app.goo.gl/xhxeRB6o2PJjwokaA
https://vashsudak.com/crimea-tour-sudak/332-sudakskaya-krepost.html

   ( ↑ 動画は10月15日に付け足し)



騎士祭り " ジェノヴァの兜フェスティバル "

https://krym-portal.ru/dostoprimechatelnosti/genuezskaja-krepost/
「現在、ジェノヴァの要塞には歴史文化保護区が作られ、毎年何十万人もの観光客がこの防御要塞を訪れ、映画が製作され、ヨーロッパ中の再現者の間で有名なジェノヴァのかぶとフェスティバルが開催されます。」とあるので、検索してみた。

https://krym-portal.ru/dostoprimechatelnosti/genuezskaja-krepost/



фестиваль «Генуэзский шлем»
" ジェノヴァのかぶとフェスティバル "をGoogle画像で。
https://www.google.co.jp/search?q=%D0%93%D0%B5%D0%BD%D1%83%D1%8D%D0%B7%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9%20%D1%88%D0%BB%D0%B5%D0%BC&tbm=isch
動画では…
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%93%D0%B5%D0%BD%D1%83%D1%8D%D0%B7%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9+%D1%88%D0%BB%D0%B5%D0%BC

時代劇祭り」みたいな物だと納得。
中世に思いを馳せて、騎士や姫たちになったつもりのコスプレで…

YouTubeから短い動画を一つ挙げておく。
(動画は沢山投稿されている、中世劇の好きな人は多いと分かる)


 ーーーーー


ー ー ー ー ー       
ー ー ー ー ー       
  


     

ここから 旅の続き  

旅の続き

朝ワーリャに見送られてコクテベリをバスで出発し、
1時間ほどゆられた後、スダックに着いた。

スダクの旅はバス駅から始まった


Автовокзал Судак バス駅
https://yandex.ru/maps/-/CDQb7Lnz

バス駅にはバスがいくつも停車できるスペースと
切符売り場兼インフォメーションの小屋もある待合スペースがあった。

町の地図も情報もないままバスを降り、
まず目の前の切符売り場の中を覗いた。
中ではTシャツ短パン姿のお兄さんが
椅子にふんぞり返って腰掛けて暇していた。
( 制服などはなく、どこでも大体それが普通 )

・・・で聞いてみる、
「宿泊案内所ってありますか?
町の中心はどっちですか?」

よいしょ、っと、お兄さんはちょっと面倒そうに立ち上がって
「今日泊まるの?その辺におばちゃん達がいるから聞いてみな。」
と約10歩先のおばさん達が集まって立ち話している所に連れて行き、
「今日泊まるところ探してるんだって」と言うと小屋へゆっくり戻っていった。

トーニャおばさんに引き取られる

客引きのおばさん達は10人程いて、「何泊するの?」と聞いてきた。

自分の予定の「1泊」と言うと、皆断ったが、
1人だけ「1泊でもいいわよ」と言ったのが、トーニャおばさんだった。

もちろん、そこで1日待っていてもお客が来るとは限らない。
無駄足にならない為にも、それ以降の時間を費やさないためにも、早く手を打ちたかったんだろう。
こちらも宿泊先が決まると安心だ。


客引きに来たおばさんと2人で歩き始めると、好奇心旺盛に色々聞いてきた。

最初に名前を聞かれたので言うと、
ちょっと考えて何人(なにじん)か聞かれた。
「日本人」と答えると、言葉が止まり「外国人ね?」と。

旧ソ連には人種も民族も沢山あり、  
日本人に近い所では朝鮮系の人も  
かなりいた(いる)。  
でも日本人はほとんどいないから  
外国人の可能性が高い…  

おばさんは自分を名乗って、
「私の事はどう呼ぶ?
(丁寧な呼び方で)アントニーナ・イワーノヴナって呼ぶ?
それともトーニャおばさんって呼ぶ?」と聞いた。
もちろん ”トーニャおばさん” を選んだ。


それから自分は、
今はモスクワでロシア語を勉強している(実際はサボっているにしても)とか、
どういう経緯でここに来たか、
どこを回って、昨日はどこにいて、一昨日はオデッサで~、など話した。

そして最も重要な、自分はここに何をしたくって来たかを話した。
要塞に行き、自分で歩いて、しっかり見たかったみたいな内容。

あとは何を話しただろう。


地図上で
バス駅もトーニャおばさんの家の場所も見つけた。
距離は1.2km、歩いて15分程度で着いた。

民宿のあった場所を
Googleマップで見つけたので
バス駅から地図上で歩いてみた。

https://goo.gl/maps/tdsHaXWoBZujWiiPA
Googleマップで民宿のあった場所を見つけ、バス駅からの経路を辿る



宿の立地、建物、施設 

当時、町に建物は多くなく、平屋が多く2階建て以下、大きいのもなく、背の高い建物は見えなかった。
空間が広く余裕があり、村とか集落のイメージ。


家があったのはこの場所 ↓ 土埃のする通り。舗装してなかったかも。

↑ 2010年のYandexストリートビュー、左の柵に小さく26と書いてある辺りが入口。
自分が見た時より17年後で、風景が変わったとはいえ、まだ面影が残っている。
当時はもっとずっと家は少なく写真の右の道の角までに建物はなかった記憶。

左手の柵の奥がトーニャおばさんの家とその民宿。
道路が高く、家が低い位置なので入口から家は見えない。

通りから家に通じる細い通路に入ると
その坂の下にトーニャおばさんの土地。


  ・ ・ ・

共用トイレ
道沿いの入ってすぐ右手に、古そうな木造の小屋のぼっとんトイレ。(トイレだけ遠い

トイレからさらに細い通路を下ると、みんなの広場。

   ・ ・ ・

つまり、
通り(上の道路)からは下り坂で2m位低く、
奥に左右に広がった敷地がある。


左側母屋、トーニャおばさんの家
   と付属の共用シャワー

 みんなのシャワーはトイレ位の広さ。
 母屋に付属だが、外から直接入る。
 (もちろんカギはある。)
 シャワーは天水。雨水を溜めた水で、暖かいお湯は出ない。


右側客室棟、みんなの広場を挟んで並行した2棟だった。
 トタンや木で出来た掘っ立て小屋風プレハブ(?)の平屋の長屋。
 
 (道路から下りてきて、
 手前の棟は通路の分短く、奥側の棟が長め。)


客室棟の間みんなの広場:全客室はそこに面している。
ロビー・キッチン・食堂・交流の場・子供の遊び場、等を兼ねていた。
ベンチ、テーブル、水道、コンロなど、バーベキューもできた。

 海に行かない時はお客はそこでくつろぐ。
(部屋は狭いので)

 家族で来ている人が多く、普通は滞在型だ。
 この環境で数日過ごすお父さん達の居場所は広場。
 子供はここで走り回っていた。


   ・ ・ ・

部屋:あてがわれた個室も説明すると…
ドアを開けて入ると、土間に机と椅子と金属パイプのベッドがあるだけ。
机の前には明り取りの窓、上に裸電球1個があった。
日本でも海の民宿は同様だが、壁は薄く音は筒抜け。
「海の家」だからそんなもの。



ミコラと出会う


歩いて宿に到着…

門から坂を下ると、みんなの広場には数人いた。
「新しいお客さんよ、日本人よ。」と、トーニャおばさんが言い、
その場にいた人に紹介される。


広場には、ベンチがいくつも置かれていた。
その一つに寄りかかって上半身裸の男がこちらを見ていた。
(夏場のゆとり時間はロシアもヨーロッパも男は上半身裸が定番。)
トーニャおばさんが、その男に近づき、情報を暴露する。
「コーリャ、こちらは○○(自分の名)。○○歳よ。
要塞に行きたいんだって、後で連れてってあげて」といきなり注文。

おばさんは次にこちらを向き
「こちらはコーリャ。ウクライナ人よ。炭鉱夫、30歳。
友達と来てたんだけど先に帰っちゃったから今1人なのよ。
コーリャは素朴な人でね。私こういう素朴な人が大好きよ。」と”素朴”を2度繰り返した。

("простой человек"を”素朴”と表現してみたが
”純粋”とも ”単純”とも訳せる。
”ピュア”か、人間臭い人ともいえるかも)


「へえ、ウクライナ人なんだ」とだけ思った。  
それ以上でも以下でもなく。不思議でもなく。  
ただこの一言で、  
ウクライナ人の方が珍しい(少ない)んだろうと想像は付いた。


トーニャおばさんは、年齢までちゃっかり聞いて、
隠さず話しちゃうほどおしゃべりで
お節介で、人の良いおばちゃんだという事は分かった。
コーリャが1人で寂しいかと心配していたのかな。

(もしかすると…、トーニャおばさんは「女の子連れてくるから」って冗談を言ってバス駅へ出かけたかもしれない。)

「初めまして」と定型の挨拶を交わした。
最初はコーリャと呼んだが、
ウクライナ語でミコラだと聞いたので、
後にミコラと呼ぶことにした。

コーリャKolya, Коляは         
 ニコライ Nikolai, Николай の略だが     
 ミコラ Mikola, Миколаがそのウクライナ語。

ロシア語のN (キリル文字でН)が
ウクライナ語ではM (キリル文字でもМ)に 
 変換されるのは面白い。

英語でもニコライはニックなので
多分ウクライナ語の方が独特。

( 例えばニコライ2世は英語でニコラス2世となるようだ
https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_II_of_Russia




要塞へ

心はもう要塞へ飛んでいたので、
部屋に荷物を置き
さっと出掛ける支度をすると、
そのまま手ぶらのミコラと出発した。

https://goo.gl/maps/H6MGSZ3dqVRkhYxc6
民宿から要塞へは約30分

歩いて歩いてやっと要塞の下へ。
あまり観光化されていず、荒れるままのただの廃墟のようであったが、
徒歩用の道はあった。

ただ、見た目はなだらかなのに
かなり急で少し歩くと息が上がってしまう。

連れて行ってもらうというのは
自分のペースでは行けないという事だ。
1人だったら景色を目に焼き付けながら、時間をかけてゆっくり登るはず。

普段から力仕事で体が鍛えられているミコラはさっさと登ってしまう。
時々立ち止まって、へいこらへいこら登る自分の方を振り返り、
”遅いな~”と面倒くさそうな目を向けて、待っては先へ進んでいってしまう。

誰かと一緒というのは楽しい反面、
自分で100%堪能できないって事だ。
1人なら、誰も待たせないので、自由に休めるし、
しばらく座って風景を目に焼き付けたりもする。

そんなわけで
一番楽しみにしていた要塞の記憶が残念なことに薄い。


「手!」

要塞内の下の方は草地だが、頂上付近は岩山だ。
急斜面で険しい箇所もあり、よじ登らないとならない。
両手両足に力を入れても体が持ち上がらない!と思いつつ先に登ったミコラを見上げると…
手が伸びてきて引き上げてくれるが…、
怒ったような口調で「手!」と言った。

何て乱暴な!!!

「手を出して」でなく、一語で"Руку!"(手)っていうなんて…,そんな人初めてだ。
(その後もそんな言い方する人には会ったことはない)



1人で登ったら、上まで行けなかったかも。
ケガでもしたら旅は終わるので、岩登りは諦めただろう。
だから、手伝ってくれてありがとう、ではあった。



写真より

アルバムを探し出した。こんな写真も撮っていた。
写真を見て記憶が戻ってくる。

そうだ、
要塞の入り口から向かって右側の方を歩いていた。
次の写真もその辺りだ。

上からの眺めは、本当に美しかった。

ミコラ
カメラを向けられ戸惑った様子。手に現れている
https://www.youtube.com/watch?v=kwLCfH6-sJg
この ↑ 動画の2:40頃に映る場所と同じ。

https://www.youtube.com/watch?v=kwLCfH6-sJg

今では(入り口から向かって右の) 高い城壁の外側のその辺は、それ以上登れないように(事故があったのか?危険だから?)、修復と称して城壁と繋いだ壁で塞がれてしまっているようだ。
(↑のYouTube動画紹介の5番でもその話をしていた)


どこかその辺で要塞の石壁を入れたミコラの写真を撮ったのも覚えている。
次の写真では、慣れたのか笑顔を見せていた。


やはり上まで登った。
写真のバックの山が左側の下の方に見える。↓

暑くて短パンだったので足を晒してすみません。

頂上から海方向に繋がる崖の上に座って
しばらく海を眺めた気もする。
身を乗り出して崖下を覗いた記憶はある。



記憶の代わりの写真
↓↓↓
https://youtu.be/MOzq40X-v04?si=RyKozKBa-U7rp0SB&t=597
(場所を特定)


左の写真:手前は下の城壁、真ん中右の岩が「砂糖の山」、奥は町並みと向こうの山
右の写真:8月なのにビーチはスカスカ


そんなこんなで要塞から下りてきた。
スダクでの予定半日で終わってしまった。
が、その日は宿泊場所が決まっていたので移動はしない。



ビーチへ行こう

宿へ戻ると、他の家族たちもいるので挨拶したり、言葉を交わしたりする。宿の広場では子供達も遊んでいる。

トーニャおばさんに「どうだった?」と感想を聞かれる。
あとで、海にも行っておいでとも言われる。

ミコラに「後で海に行くか?」聞かれ、「行く」と答える。

部屋でちょっと休み、メモや荷物の整理などする。
貴重品は部屋に置いて、
カメラと小銭入れとタオルだけ用意した。



「ミコーラ、起きて!」

待っていてもミコラは来ない、
部屋を見に行き、ノックしても出てこない、鍵も掛かっている。
どこか行ったのかと思ったが、約束したのに出掛けるはずはない。

裏手へ回ってみると、上の高い所に窓があるのを見つけた。
少し高い隣家との境の塀に上って覗くと、高い窓の隙間から、下の方に昼寝しているのが見えた。

部屋に戻ってしばらく待っていたが来ないので、もう一度、裏の窓の所へ行き、呼んで起こした。「ミコーラ!海に行こうよ!」すると、けだるそうに眼を開けた。



ビーチに人はいたが、8月上旬だというのに、
要塞の上から撮った上の写真の通り、まばらだった。

自分のカメラと財布があるので交代で海に入った。
どこから深くなっているか知らないので遠くまで行けなかった。

https://1001beach.com/ja/europe/russia/sudak
( ↑ このサイトの中ではセントラルビーチ)

(この年、人が少なかったのは1991年のソ連崩壊の経済事情の影響だろう。ネットで見つけた1960年代のビーチの写真では海水浴客であふれていた。)


カメラのフィルムが

ミコラはクリミアの海をバックに写真を何枚も撮ってくれた。
水着は友達に借りたワンピ型のだった。
ビキニの方が良いのに」とミコラは言った。
 (・・・ は?大きなお世話だ!)

古い物だけど外国のカメラに興味を持ったのか?撮影が楽しかったのか?
多分クリミアの記念にと、親切心で何枚も撮ってくれたのだろう…
最後の1本が海で終わってしまった。
当時はまだカメラはフィルムがなければ撮れない時代。

前々日のオデッサで買うべきだった。
前日にいた3つの町でも売っていなかった。
スダクの町も小さいので売っていなさそう。→なかった。

フィルムが無くなったというと、「何で早く言わないんだよ」と怒られた。
本当にそうだ、他に撮りたい写真も山ほどあった。


昔の旅行は 
沢山のフィルムと 
替えの電池を、
ずっと持ち歩かねばならなかった。
荷物は増えるし重くて大変だった。


冷たいシャワー

体が海の塩まみれで宿に帰ったので
シャワーを浴びてさっぱりしたい。

みんなの広場に出て、いた人たちに、
「シャワーいいですか?」ときく。

そこにいたミコラが笑いもせず聞いてきた。
一緒に入るか?

”え?え?何言ってんの、この人!!”
 ( 信じられない、デリカシーも何もあったもんじゃない。
 大体こういうのって大っぴらに言わない。ってか、会ったばっかりだし… ) 今ならこんな話は笑って流せるんだが…。

周りの人達、特にお父さん達が目を丸くして、でも面白くなってきたぞ、と好奇心たっぷりな目で自分とミコラの顔を交互に見てくる。

いや、これ、冗談にしても・・・でしょう。
と考えるよりも先に、
反射的に大きな声で大笑いしながら
"Н е е е т ! ! ! "   (Nooo!)と叫んでいた。
ミコラはふんっとつまらなそうにそっぽを向いた。


ところで、その後に同じようなシチュエーションがもう1つあった。
(どのタイミングかだったか、覚えていない、まだ明るいうちだった)
上の話の後の別の時、ミコラが聞いた。
「一緒に寝るか?」
もちろん、周りの皆はニヤニヤしている。
自分の答えもその後の流れも、上の答えと全く同じ。

トーニャおばさんの言う通り、
確かに"простой человек"だった。
(小見出し「ミコラと出会う」参照 )

( 受けを狙って言ってるのか、 ”不器用な人” なのか、よくわからない。)


ところで、水シャワーは水力も弱く
全然さっぱりしなかった。


日焼けあと

オデッサの海岸での日焼けから数日経ち
肩や首の後ろの皮が剥がれてきていたところへ、
またこの日の日焼けでヒリヒリした。

Tシャツの襟に手を突っ込んで、肩にオイルを塗っていると
「背中に塗ってやるよ」とミコラ。
ちょっとためらいつつオイルを手渡した。
背中をペラっとめくって「何だこりゃ」と声を上げていた。

背中は自分で見れないが、手触りだと、
肩や背中の皮が細かく丸く剥けて
フジツボの沢山ついた海岸の岩のようだったり、
水ぶくれがリュックで潰されていたと思う。
「(数日前) オデッサの海でも日焼けしたから…。」

そんな様子を、テレビもなく暇を持て余す田舎の民宿で
楽しんでいるお父さん達の視線を感じた。


トーニャおばさんの策略

おばさんはみんなの広場によく出てきては皆とおしゃべりしていた。

「明日、コーリャが○○へ連れてってくれるって。」
と自分に向かって言った。
「それどこですか?」
説明を聞いてもあまり分からない。

ミコラに聞くと、
海があって、洞窟があって、崖がある。
山の向こうという事が分かった。

話を聞くかぎり魅力的な場所で興味が湧いたので、
行くことに決めた。

(その時、それがどこの何というところかは分からなかったが、
ずーーーーーっと後になり、ネットで調べられるようになった時、検索して見つけた。翌日の話なので次回紹介する。)


トーニャおばさんは、お客をもう1泊引き留めることに成功したし、
コーリャをもう1日、退屈から救った




夕食前

夕方になり、そろそろ皆は食事の支度を始める。

お母さんたちはキャンプ並みの道具のしかない青空キッチンに集まり、
お父さんたちはそのそばの広場のベンチに腰掛けていたり、時々手伝いもしていた。
ここで知り合った子供達同士は遊んで走り回っていた。


海水浴の帰りに食材を何か買った気がする。
お母さん方と水道端でしゃがんで何か(’野菜?)を洗ったりの覚えもある。



人を食べた!

途切れ途切れの記憶では、
日が暮れて薄暗い広場で、
バーベキューか何か
焼いている鉄網(かな?)を囲んで、
野菜やらを焼いてつまんで食べながら
みんなでしゃべっている映像が浮かぶ。
ほろ酔い父さんもいた。


自分はミコラの隣に腰掛けて何かつまんでいたが、1日の疲れて集中力が落ちて、会話はほとんど耳に入ってこなかった。

1度だけ聞こえたのは、
誰かの発した「人を食べた」という2単語だった。
あまりに衝撃的で突然、この2語が脳まで到達した。
「えー!人を食べたの?」驚きの声を思わず上げてしまった。

そこで、ミコラがこちらを向いて、
「そうなんだよ、むかーし食べ物が何にもなくなった時に、人を食べたんだよ。突然隣の子供がいなくなったとかさ…」
「へぇ…」 (絶句)
(戦争中の事かな?大飢饉の時かな?)



偉大なロシア語 (ツルゲーネフ)

それを見ていた、話の輪の中のお父さんの1人が愉快そうに言った。
「日本人とウクライナ人がロシア語で話してる~。(うける~)」

それをミコラは即座に切り返した…
великий, могучий русский язык!”
(そりゃあ「偉大で力強いロシア語!」だからね)


ロシア人は詩が好きで(ウクライナもソ連で同様の教育だった)
よく話に詩を引用しているのを聞くことがあったが、
「この詩ってこんな時に使えるんだ」と思った。
それよりミコラの言葉だった事にも何故かちょっと驚いた。
少し見直した。”Good Job!”


この詩はロシア語を勉強していると暗記させられることが多い。
自分も覚えていた。↓

-*- -*- -*- -*- -*-    

Иван Тургенев "Русский Язык"

Во дни сомнений, во дни тягостных раздумий
о судьбах моей родины,
— ты один мне поддержка и опора,
о великий, могучий, правдивый и свободный русский язык!
Не будь тебя — как не впасть в отчаяние
при виде всего, что совершается дома?
Но нельзя верить, чтобы такой язык не был дан великому народу!

イワン・ツルゲーネフ 「ロシア語」

私の故郷について苦悩し、疑いの目さえ持ち考え続ける日々に、
お前だけは私の支えで頼りであった
偉大で、強く、誠実で自由なロシア語よ
もしお前がいなければ、祖国で起きているあらゆることを目にして、
どうやって絶望から逃れられただろうか?
だが、このような言語が偉大な民族に与えられなかったなどとは信じることができないのだ!

https://ameblo.jp/hivihibi/entry-12438101525.html
こちらの学生さんの訳。ブログから引用させていただいた。)


自分が先生から聞いたのは、
ツルゲーネフがロシアを離れて、外国から混乱する祖国を思慕する辛く切ない気持ちを噴出させている詩だとの事だ。そして心の支えになっていた。
   ↓ 下の動画は、その詩の朗読 (1分の動画 )

彼自身がドイツ語やフランス語を自由に操れたので、外国からロシア語を客観的に見て、ロシア語がいかに素晴らしい言語か、と痛切に思ったに違いない。確かに語彙は多く、表現は豊富。

-*- -*- -*- -*- -*-  



「ミコラ、どこに住んでるの?」

バーベキューも後半、何かしらつまみながら
隣のミコラに尋ねた、「どこに住んでるの?」と。

「親は○○○っていうとこに住んでて…。
今は仕事で○○に住んでる。わかる?」
行く予定のない地方は調べていない。地図が無ければ分からない。
どこどこの近くと聞いても、その地名も知らない。


「知らない。聞いたことない。どっちの方(方向)なの?」
周りの人たちも、会話に参加している。
「東の方。ロシアの方だよ」
「ドネツクの方。」
「ドンバスって聞いたことない?」
その時名前が耳に残った地名ドネツク、ドンバス…。

有名な炭鉱の町だ。

「こっちに遊びに来たら地下数百メートルの所に連れてってやっからな。」ってミコラは笑いながら言っていた。


 

世界有数の炭鉱の町

帰国後の日本のニュースで何度かその名を聞いた。
「ウクライナ、ドネツクの炭鉱で崩落事故があり、多数の作業員が生き埋めになっています。安否は不明です。」とか
「数百人が巻き込まれました。」
「絶望的です。」など。

2011年にテレビを捨てる前までに少なくとも2度は聞いた。
そのたびに不安になった。
その後みんな救出されたのかな。
ミコラは巻き込まれなかったかな。

そのようなニュースはTVで続報がない。
今ならTwitter X などで検索できるが。
生き残っていてほしい、助かってほしいと、うら悲しく心が痛んだ。


  ー ー ー

今から10数年前か、実家の箱の中から
中学か高校の時の古い地図帳を見つた。
何気なく開いて見ていた。

・・・と赤丸で囲ってあった「ドネツ炭坑」の文字を見つけた。
あ、授業でやったことあったんだな…。
その後ずっと忘れていて、ミコラと話した時でさえ思い出さなかった。

「世界でも有数の、石炭がたくさん採れるところです。」と地理の先生が説明していたのをふいに思い出した。
ソ連に興味を持っていたから、その時耳に残ったのだろう。

ここだったのか・・・




自分の従兄弟のような


ウクライナ語の混ざったミコラの話し方を聞いていると、
田舎の従兄弟の兄さん達と一緒にいるような気がした。

中部地方の山間部に住む親戚たちの言葉を、実は50%~90%しか理解できない。
何度も聞き返すわけにいかず、結局ごまかすことがある。
そこで生まれ育った父に聞いても、14歳で故郷を後にし働きに出たせいか、よく分からないとのこと。

朗らかで冗談も好き、お人良しでもある、そんな年上の従兄弟たち。
ちょうど言葉の伝わらなさ加減がミコラのウクライナ語と同じようだった。
それに、田舎気質(暖かいが、ちょっと粗野?)な所も似ている。

自分は小1から高3まで栃木県で過ごしたので大いなる田舎体験もある。
が、引っ越し当日に店のおじさんが話している言葉が全く理解できずに戻りたいと泣いた。その時の印象が強すぎて新しい土地に打ち解けず、結局12年間よそ者であり続けてしまった。
が、良くも悪くも広くて自然がある田舎育ちだ。田舎にアレルギーは無い。

田舎気質を調べて見ると、こんなのがあった。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100515823
読んでみたら、「ん?ロシア?」と思ってしまった。
ロシア人でも人によるところが大きいが…。
( お金に関しては、社会主義時代に育った50代以上はあまりこだわりがないので、そこは違う )




この日覚えたウクライナ語


"Размауляла?"(razmaulyala らずまうりゃーら?)「(過去形で)わかった?」(女性形)
~ウクライナの文字の使い方は知らないので露語文字で表記で表現した。

「え、何?」と聞き返すと、ロシア語で"Поняла?"(ぱにゃらー?)と言い換えてくれた。
が少なくとも5回聞いても慣れず、聞き返していた。

(Google翻訳ではウ語で ”зрозуміла” となっている。ミコラと言ってたのと違う。もしかしてウクライナ語の、更に方言だったのだろうか…)



自分はポーランドを訪れた事があるが、
「解らない(現在形)」を「nie razumium にぇ らずみうむ」と発音するのを知ったので、同じスラヴ語でもウクライナ語とポーランド語はロシア語より語幹が近そうだ、と思った。(動詞の語尾変化はロシア語とウクライナ語の方が近いかな)

(因みにポーランド語「分からない」の正確な表記は "Nie rozumiem" Google翻訳使用)

「私は解らない」の現在形だと
ポ語 Nie rozumiem. (ウ語と太字が同じ音)
ウ語 Не розумію. (ポ語と太字が同じ音) 
露語 Не понимаю.

(完了体・不完了体 の違いかも。)




翌朝の為の約束

ミコラはお土産に貝殻を持ち帰る約束をしていたらしい。
誰にか聞かなかったなぁ。

次の朝、貝を取りに海岸へ行くのだそうだ。
一緒に行くか聞かれたので、行くと答えた。




一日の終わりのトイレ

みんなで食事の後片付けをして、
おやすみなさいを言い合い、
皆はそれぞれの部屋に戻る。

寝る前にトイレに行っておこうと
人影が消えて静かになった広場を突っ切り
道路際のトイレまで行く。
結構遠い…。

外は真っ暗で、通路も真っ暗。
トイレも真っ暗で
電気もない。

トイレはどこ…と辿り着いて
手探りでドアの取っ手を見つけて開けたけど、
段差の上の穴すら見えない。
とりあえず、最重要な、
穴に自分が落ちないようにという事だけは注意した。



部屋へ戻ると
次の日もわくわくするような冒険が待っていそうだと
期待しながら眠りについた。


翌日の話に続く・・・











 ー ー ー

追記(10/08)

1965年には海水浴客は多かったようだ。

https://humus.livejournal.com/7395269.html

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