カルテ14:「人間はどこまで家畜か」を読んだ

今回診察というより読んだ本についての感想ですかね。

熊代亨の「人間はどこまで家畜か」という本です。

生物進化学で「自己家畜化」というものがあって、「人間が生み出した環境の中でより穏やかに、群れやすく進化していく」とのことで、それが人間にも、ひいては文化的な事象をとおしておこる"文化的な自己家畜化"について書いています。むやみやたらに殺しては奪うより、コミュニティ内でルールを築いて穏やかにするのも自己家畜化の一種です。

特に文化的な淘汰圧、選択圧のようなものでホントに人間のありようが社会単位で変わっていく資料は驚くに値しました。

しかし身体的、物理的な自己家畜化に対して文化的な自己家畜化の流れが異様に激しく、両者にタイムラグが起こり、そこからこぼれ落ちていく「精神疾患」のお話、精神科医という経歴を持つ著者としてはこちらが本題なのだといいます。

社会契約や資本主義、個人主義に妥当な人間になるような文化的な自己家畜化の過程で今までとるに足らなかった非社会的な性格、暴力やいじめ、ADHDなどの精神疾患などの診断範囲などが広くなるのだといいます。

この本を読んでふと自分の立ち位置がどっちなんだろうと思いました。

世界は曖昧なくせに世界の方が侵食してくるとはよく言ったもので、曖昧だから世界は上手く回っているという一方でその構成員たる人間ひとりひとりに対してはブリーチング(bleaching)や規格化が求められてるところがあるなと思います。

んで、自分は世界に馴染めていない自覚があるんですが、それが「ブリーチングや規格化に置いてかれてる側」なのか「ブリーチングや規格化しきった社会じゃないと上手く活動できない」というのはあまり考えてなかったかのように思います。

もしかしたら自分は結構後者側かもしれません。
最終章で科学技術(遺伝子編集、エンハンスメントなど)を視野に入れたがあるのですが、あまり良くないと思いつつ
「飽くまでも人工の産物たる文化社会の規範を大事にするならそれにそって身体なんぞ人間とは別の有りように変えてしまえばいい」という想いは実のところ捨てきれずにいます。

と言ったって少なくとも自分が生きている限り、文化に対しての身体性というのに付き合うために言葉を紡がねばならんのもわかってはいるんです。
伊藤計劃が言うように「僕たちは人間である以前に動物なんだ」という風に。

こうして振り替えれば本書は自分の生き方の某か照らしたとは言い難いと言わざるを得なかったかなと思います。とは言え色んな人にとってこれからの社会の発展で外せない一冊になると感じました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?