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みんなと違う ≠ 仲間外れ

眠れない夜。

薄暗い部屋の天井を見つめ、自分だけが世界から取り残されたような気持ちが芽を出す頃、ふと思い出すのは、保育園の「お昼寝の時間」のこと。

お昼寝の時間が、とても苦手だった。

喘息持ちだったわたしは、ほこりっぽい保育園の床に寝そべると、コホコホと咳が出てしまうのだ。みんながすうすうと寝息を立てるなか、一人だけ目が冴え、わたしだけがこの世界に取り残されているような寂しい気持ちになる。

いつも賑やかで楽しい保育園の大部屋が、しんと静まりかえる。お昼寝の "仲間外れ" になってしまったわたしは、咳のつらさもあいまって、なんだか怖いような、悲しいような、とにかく耐えられない気持ちに襲われる。

寂しさがピークに達した頃、むくりと起き上がって布団から抜け出し、先生たちが休憩している隣の部屋へ、トタトタと走る。半分開けてある扉から、先生たちの方をのぞき込む。

「せんせい、眠れないの」

肩を落としてしょんぼりするわたしを、先生たちが「あらあら」と言いながら迎えてくれる。

先生たちは、みんなのお昼寝の間、畳の部屋でちゃぶ台を囲んでお菓子を食べながら談笑している。その部屋は明るくて、先生たちのおしゃべり声が響いて、いつもの楽しい保育園の空気にホッとした。

先生のひとりがわたしのお布団を持ってきて、先生たちの休憩室の隅っこに敷いてくれる。

「眠れなくてもいいからね、でも横になって休んでみようね」

咳の出るわたしのそばに座り、担任の先生が背中をさすってくれる。わたしは眠れないたびにこの部屋にきて、こうして先生たちに受け入れてもらい、たいていの場合はそれで安心して、すうっと眠りについた。

この時のことを思い出すとき、わたしは「みんなと違う」について考える。

みんなと同じにできないわたしを、ただの仲間外れにするのではなく、「それでもいいんだよ」と笑顔で受けとめてもらえる感覚。

「ふつうじゃない」はダメじゃないんだと、「みんなと違う」はただ悲しいだけじゃないんだと。

だからわたしにとって「咳が出てつらいこと」は、もちろん身体のつらさはあるものの、そんなに悪い思い出にはなってない。先生たちのやさしい声と、楽しいおしゃべりのなかで安心して眠りにつく心地よさの記憶。

そしてどうしても眠れない日は、特別に先生たちのおやつタイムに参加させてもらったりもした。「みんなには内緒ね」という約束は、わたしにとって「うれしい特別」だった。

大人になるにつれて、いつしか「ふつうにならなきゃ」と思うようになっていくのはきっと、「ふつうじゃない」を笑顔で受けとめてもらえない機会が増えたからなのかな。

人と違うことは「うれしい特別」ではなく「避けるべき疎ましいこと」になって、"みんなと違う" はそのまま "仲間外れ" を意味するようになったから。

でも、本当は。

この世界には、"みんなと違う" も笑顔で受け入れてくれる場所があって。

「ふつうじゃない」を、うれしい特別にすることもできて。

こうするべき、こうあるべき、ふつうはこうで、そこからはみ出したら仲間外れ……なんて、本当はそんなことない。

それは、自分が勝手に思い込んでつくりあげた世界の姿なのだと気づく。

せめてわたしは、自分の "みんなと違う" を受け入れていたいし、誰かの「ふつうじゃない」も、「それってうれしい特別なんだよ」と言える人でありたい。

眠れない夜。

そんなことを思いながら布団から手を伸ばしてカーテンをすこし開け、東のしらむ空を見て「眠れなかったから見れた景色だなあ」と、睡眠不足を「うれしい特別」に変えてみた。


おわり


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