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寝台急行 天の川

 一番古い旅の記憶は上野から乗った寝台急行「天の川」号だ。成人して自分の車を持つまで、かなり鉄分が多めな傾向だったのもこの記憶のせいかもしれない。今では見ることも出来ない10系客車の寝台列車。上越・羽越線まわりの夜行急行。もう一度体験したいと思ってもできない、贅沢な記憶だと思う。

 小学校の3年まで千葉県の東金に住んでいて、秋田県にある両親の実家への一家揃っての里帰りは、ほぼ隔年でお盆か正月に行われる一大イベントだった。

 「天の川」の始発駅は上野駅。上野までの道のりは東金から千葉まで40分、総武線に乗り換え秋葉原まで60分、山手線に乗り換えて上野まで5分ほど。乗車時間は2時間弱だが、低学年の小学生と幼稚園児の妹を連れ、一家4人、1週間分の荷物を持っての移動なので3時間はかかっただろう。
 当時の東金線は旧型電車は大網止まり、外房線直通はスカ色の113系で、ぶどう色の旧型電車がお気に入りだった。総武線の快速列車も運行を開始していたと思うが、乗り換え回数が増えるのを嫌って黄色の101系/103系の各駅停車に乗ったように思う。

 上野から夜行列車に乗る前の儀式は「聚楽」での夕食だった。普段は麺類好きな父がラーメン屋か蕎麦屋をチョイスすることが多かったので、レストランのメニューは物珍しかった。金魚か熱帯魚の水槽、店内にも川のような設えがあって通路に小さな太鼓橋があったような記憶がある。もう一つ聚楽で覚えているのは中華あんかけのうずらの卵。五目そばとか中華丼的なものを食べたんだろうか(笑)

 聚楽で夕食を済ませたあとは上野駅に戻り父母の実家への手土産を買った。何故か上州名物「旅がらす」が我が家の定番土産だったと思う。多少かさばってもとにかく軽いのが決め手な気がする。
 当時の上野駅は時代とはいえ吸い殻が落ちていたり、トイレ近くや連絡通路に浮浪者が座り込んでいたりでちょっとした魔窟めいた雰囲気もあった。
 中央改札の頭上には長距離列車の発車時刻や行き先が書かれた案内板がたくさんぶら下がっており、各ホームの乗車位置にも同じような案内板が掲げられていた。
 ホームでは自由席を利用する乗客が出発時刻の数時間前から席を確保するために座り込んで待っていたし、その列に並んでいる出稼ぎのお父さんたちが酒盛りをしていたのもよく覚えている。そんな乗客たちのすぐそばをゴトゴトと物々しい音をたたて荷物が沢山積まれた台車を引っ張ったターレットが走っていた。

 駅のホームのキオスクで長い乗車時間の暇つぶしのためにマンガ雑誌を一冊とおまけ付きのグリコのキャラメル、ポンジュースを買ってもらう。大人は冷凍みかんとポリ容器に入ったお茶とせんべいを買って列車を待った。

 入線時刻となり列車がお尻の方から進入してくる。最後尾のデッキから旗を持った車掌さんが半身を乗り出して誘導をしていた記憶もあるのだが、あとから作られた「見てきたような嘘」かもしれない(笑)
 車内に乗り込むと発車前から「この列車は寝台急行 天の川 です。ご乗車には急行券、寝台券が必要です。」と繰り返し繰り返し案内をしていた。

 発車のベルがなり、ガチャガチャと結構な衝撃と共に列車が動き出す。10系客車のドアは手動だった気がする。櫛形ホームをゆっくり走り、高架線の下から抜け出し、しばらくするとハイケンスのセレナーデが流れて列車の案内放送が始まる。急行列車は夜中でも客扱いをする駅が多く停車駅と到着時刻の案内はかなり長かった。

 子供一人で寝台を一つ占領するほどの贅沢はできず、自分は父親と、妹は母親と一緒の寝台で、はしごを登って上段ベッドに潜り込み、水中眼鏡のような小さい窓から外を見た記憶が蘇る。52cm幅のB寝台では子供と二人では狭すぎるのでA寝台をとったのだろう。
 かなり着古されているが一応糊が効いた浴衣があり、父は着替えていたような気がするが、母は着替えずにゴロ寝してたような記憶がある。白いシーツとゴワゴワの毛布、ぺたんこの枕。タバコか消毒かちょっと微妙な車内の匂い。寝台列車の中も異世界だった。

 非日常の興奮状態で疲れていて、大宮につく頃には眠ってしまったと思うが、出稼ぎで帰りで懐が暖かく、久しぶりの帰郷で正月に家族に会える喜びで興奮状態のおじさんたちは通路でタバコを吸ったり、ワンカップの日本酒を飲んで周りの客と話し込んだりと賑やかだった。

 現在生き残っている夜行列車といえば、サンライズは個室が中心でごく静かなものだし、高級志向のクルーズトレインはお上品なお客様が多く、不特定多数が出入りするロビーカーも静かなもので夜行列車と言っても別物になってしまったように思う。

 朝目が覚めると雪景色と日本海が見える。雪の記憶もこのときが初めてかもしれない。酒田の短い停車時間で父が駅そばを買ってきた。今でもそうだが父は空腹を我慢できない人で、目的地の父の実家まで残り2時間、空きっ腹を抱えて待ち続けることが出来なかったのだと思う。この頃食べた山菜そばの記憶のおかげで、今でも駅の立ち食い蕎麦屋では山菜そばが好きだ。

 小学校の途中で三重県に引っ越してからも秋田への里帰りは続いたが、自分たち子供が成長して大人と一緒のベッドで寝るには狭くなったのと、三重から東京までの旅費が余分にかかるようになったせいか、一家で寝台列車に乗ることは無くなってしまった。

 今では当時の目的地だった秋田に住んでいて、「鳥海」「あけぼの」「日本海」が運行していた頃は出張で度々利用していたし、新婚旅行ではパリからバルセロナまでの国際寝台特急Elipsosにも乗ってみた。
 海外旅行と沖縄にハマってからは飛行機旅ばかりになってしまったけど、あの頃の「天の川」を思い出して汽車旅に戻ってみようか。

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