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伝統的国際法及び当時の情勢から観るウィルソン米大統領の外交政策


1.背景・目的

 
 今日、ウィルソン米大統領の外交政策は高く評価されています。秘密外交の廃止や海洋の自由、民族自決権等です。これらは、現代において国際法となり成文化されています。つまり、各国が守るべきルールとなっているのです。
 また、ウィルソン米大統領は「宣教師外交」と呼ばれる外交を行い、諸外国に民主主義を輸出しました。この「宣教師外交」もまた、高く評価されており、現代のアメリカの外交政策に大きな影響を与えています。
 しかし、こういった数々の外交政策は、ウェストファリア体制から当時に至るまでに積み重ねられてきた伝統的国際法や、当時の情勢の観点から評価しても、高く評価できる代物なのでしょうか?検討してみたいと思います。

2.「秘密外交の廃止」・「海洋の自由」──参戦各国に対する挑発ともとれる呼びかけ

秘密外交の廃止

 それまでの外交では当たり前の事とされていた密約を禁止し、公開外交を原則とするのが、「秘密外交の廃止」です。
 確かに、密約はパワー・ポリティックスの所産であり、外交を独占してきた帝国主義専制政治に付随する慣行で、現在は国際連合憲章で否定されています。(国際連合憲章 第102条1項 この憲章が効力を生じた後に国際連合加盟国が締結するすべての条約及びすべての国際協定は、なるべくすみやかに事務局に登録され、且つ、事務局によって公表されなければならない。)
 しかし、ウィルソン米大統領が呼びかけた「秘密外交の廃止」とは、大戦中に交わされた密約を全て無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容でした。
 繰り返しますが、伝統的国際法において、密約は当たり前の事とされており、大戦中も様々な密約を各国は交わしていました。それを無効化し、一からやり直すように求めたのです。日英仏伊といった大戦中にアメリカの味方であった国々に対して挑発的と言えるでしょう。
 事実、会議参加国の反発を招きました。
 一例を挙げると、イタリアは代表が会議を退出する程の不快感を示しました。それだけでなく、最終的に講和会議をボイコットしています。イタリアはロンドン密約において、「未回収のイタリア」やその他の地域の獲得を条件に、大戦中に独墺を裏切りました。そして、十四か条平和原則に、「イタリア国境の再調整」というものがあります。先述の秘密外交の廃止と併せると、以下のような解釈となります。
「イタリアの領土に関する約束事は、密約なのでなかったことにし、その上で国境を再調整しよう。」
 イタリアからしてみれば、「ふざけるな。」の一言でしょう。
 結局、ロンドン密約で保証されていたイタリアの植民地拡大はほとんど認められず、フィウーメの併合問題も保留となりました。(これは余談ですが、ウィルソン大統領はイタリア政府やイタリア皇帝を差し置き、直接イタリア国民に檄文を送っています。イタリア政府やイタリア皇帝を相手とせず、イタリアの主権はイタリア国民に在りとでも言わんばかりの行動です。)
 イタリアのボイコットも、無理からぬ話です。
 また、「秘密外交の廃止」には、講和会議を公開と、会議内容の自由な報道の許可も含まれていたのですが、英仏の反発により旧来の秘密会議形式が取られました。
 ウィルソン米大統領自身は、「秘密外交の廃止」を「旧外交を否定する新外交」と自賛していましたが、各国の無用の反発を招き、伝統的国際法の元で積み重ねられてきた外交を否定しているだけにすぎなかったのです。

海洋の自由

 「海洋の自由」とは、「平時であれ戦時であれ、公海上の航行の絶対的な自由」を意味します。
 これは、海の国際法を整備しようという呼びかけであり、パリ講和会議では協議されませんでしたが、1930年に国際連盟のもと、ハーグ国際法典編纂会議で協議され、後にUNCLOSという名前の現代国際法で明文化されています。
 協議がパリ講和会議では行われなかった理由は、イギリスがこの呼びかけを自国の海上覇権への挑戦と考え、国際連盟の設立に賛成する代わりに、海洋の自由を休戦条件に入れず、次の講和会議まで留保するということでアメリカと合意したからです。
 イギリスは、精強な海軍で制海権を掌握し、通商破壊を繰り返す事で大帝国を建設しました。そんなイギリスにとって、「平時であれ戦時であれ、公海上の航行の絶対的な自由を認める事」は、強力な武器を自ら放棄する事と同義です。それだけでなく、十四か条平和原則には「軍備の縮小」も含まれています。
 要するに、ウィルソン米大統領は「イギリスは今後の世界平和の為に、制海権を手放し、海軍を縮小せよ。」と呼びかけたに等しいのです。
 ワンピースで例えるなら、四皇になったマーシャル・D・ティーチが、カイドウに対し、「黒ひげ海賊団の船が、百獣海賊団のナワバリを何時でも自由に航行する事を受け入れろ。後、百獣海賊団を縮小しろ。それがお互いの平和の為だ。」と申し入れたようなものです。
 カイドウがこんな申し入れを認める訳がありません。
 イギリスが反対したのも、それと同じなのです。

3.「宣教師外交」とドイツ帝国民主化要求──宗教戦争と変わらぬ行い

見下され干渉された中米諸国

 先述したように、ウィルソン米大統領は「宣教師外交」を行い、諸外国に民主主義を輸出しました。ウィルソン米大統領は民主主義を至上の価値と考え、かつて宣教師たちがキリスト教を伝道する際に、時には武力を用いることも辞さなかったのと同じように、武力を行使してでも諸外国に民主主義を教え込もうとしたのです。そして、ハイチやメキシコといった中米諸国が真っ先に「指導対象」になりました。ハイチは軍事占領の後に憲法制定に干渉され、メキシコは革命に軍事的干渉を受けています。
この中米諸国に対する軍事行動の裏には、中米諸国への見下しがあります。というか、当時も現代も、アメリカは中米を自分の「裏庭」と捉えて見下しているのです。
 ワンピースのカイドウが、ユースタス“キャプテン”キッドを「海賊ごっこ」と評していましたが、これと同じです。
 ウィルソン米大統領としては、中米の国々は「国家ごっこ」です。そんな「「裏庭」の住人が公正に国家運営をできるように民主主義を指導する。」という考えなのです。

ドイツ帝国民主化要求

 ウィルソン米大統領はww1参戦時に、「世界は民主主義のために安全にされねばならない」と米議会で発言しました。そして、後に休戦の条件を民主化と軍国主義の除去とする覚書きをドイツ帝国に送付しています。
以下、11月5日の覚書きまでにおいて、アメリカとドイツ帝国の休戦交渉で行われた、交渉の詳細を記します。

10月8日アメリカ側第1覚書書
「帝国宰相は、これまで戦争を遂行してきた政府の既成の権威のみを代表しているのかどうか。(真にドイツ国民を代表していると言えるのか。)」

10月12日ドイツ側第2覚書書
「ドイツの現政府は帝国議会の大多数により支持されており、したがってドイツ国民の名において発言している。」
「選挙制度の改革をして議会主義を強化する。」

10月14日アメリカ側第2覚書
「帝政ドイツ体制のままでいる限り講和交渉には応じられない。より一層国内政治の民主化を進めている確実な証拠が必要。」

10月20日ドイツ側第3覚書
「和戦は皇帝の大権だが、政府は選挙で選ばれた代表機関で、これまでも首相は議会に責任を持っていることは法律で規定されている。」
「新政府第一の行為は憲法を改正し、和戦の決に国民代表機関の協賛を要することとなす法案を、議会に提出することにある。」

10月23日アメリカ側第3覚書
「ドイツ国民には、民衆の意志で帝国の軍事当局の同意を命令する手段がないこと、帝国の政策をコントロールするためのプロイセン王の力が損なわれていないこと、そして、決定権を握っているのは、今までドイツの支配者であった人々のままであることは明らかである」
「アメリカ合衆国政府は、ドイツの真の支配者としての真の憲法上の地位を保証されているドイツ国民の真の代表者以外には対処できないことを、改めて指摘する」
「もし今、ドイツの軍事的支配者と君主制独裁者に対処しなければならないならば、あるいは、ドイツ帝国の国際的義務に関して、後に彼らに対処しなければならない可能性があるならば、和平交渉ではなく、降伏を要求しなければならないのである」

10月28日ドイツ側第四覚書
 憲法典を改変した旨、アメリカに通知

11月5日アメリカ側第四覚書
 「この覚書で休戦条件については、連合国側が休戦を保障するための条件について一方的な権限を有する」
 
 10月23日のアメリカ側第3覚書の要求において、ウィルソン米大統領がウィルヘルム二世の退位まで要求していたか否かは未だに明らかではありません。ウィルソン米大統領は、ドイツにおいて「制限王政の望ましいこと」について常に語っていたと言わています。
 しかし、ドイツ帝国はアメリカ側第3覚書を退位要求と解釈し、困惑しました。当然でしょう。上記の交渉過程からもわかるように、ドイツ政府はドイツ国民を代表しており、民主化に前向きでした。であるにも関わらず、ウィルソン米大統領はアメリカ側第3覚書にて、あのような要求を行ったのです。これでは、「お前達の言っていることは信用できない。今のドイツ皇帝を、ドイツの政治システムから完全に排除して民主化しなければ、交渉には応じない。」と言っているようなものです。
 繰り返すようですが、ドイツ帝国がアメリカ側第3覚書を皇帝退位要求と解釈し、困惑したのは当然の事なのです。
事実、ベルン駐在ドイツ公使は「信頼できる筋によればウィルソン通牒の結語は皇帝の退位への言及以外の何ものでもない」と本国に報告しています。そして後には、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事からもたらされ、10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになりました。

民主化要求はウェストファリア条約の精神の否定

 そもそもですが、伝統国際法の原点であるウェストファリア条約の根本精神とは何でしょうか?
それは「主権国家並立」と「宗教の自由」です。この2つを、「全ての国家は対等な存在であり、頭の中で何を考えていても自由」と柔らかく言い直しても間違いにはならないでしょう。もっと柔らかく言い直すと「お互いの存在や思想を尊重しましょう」になります。
 何が言いたいのかというと、ウィルソン米大統領がドイツ帝国に対して行った要求は、ウェストファリア条約の根本精神の否定に他ならない、ということです。
 ウィルソン米大統領の要求を簡単に言い直すと以下のようになります。
「皇帝が主権者のドイツの存在など認めない。民主主義のドイツに生まれ変われ。さもなくば降伏を要求する。」
 ウィルソン米大統領は、ドイツ帝国が理想とする政体を否定し、休戦と引き換えに己が理想とする政体に変更する様に迫ったのです。これでは、他国が信ずる宗教を否定し、命と引き換えに自国が信ずる宗教に改宗するように迫った宗教戦争とどう違うのでしょうか?
 また、「国際法は白人国家やキリスト教国にのみ適用されるルールである」という「二重基準」が元々ありました。だからこそ、白人達はアジアやアフリカ、中南米で好き放題やったのです。
 ですので、非白人国家で、ウィルソン米大統領自身も対等な国と考えていなかった、中米諸国に対して民主主義を押し付けたのは百歩譲ってわかります。しかし、ウィルソン米大統領は同じ白人国家で、キリスト教国で、いままで対等な国家と考えていたドイツ帝国に対してまで、民主化を要求したのです。
 ウィルソン米大統領が行ったドイツ帝国民主化要求は、ウェストファリア条約を根本から否定する行いなのです。

4.民族自決──世界に暴力と不幸をまき散らす思想 

「民族自決」の運用の実態

 「民族自決」とは、「民族は自己の政治的運命をみずから決定する権利をもっており,他民族の干渉を許すべきではない」という思想です。そんな「民族自決」がもたらした結果を記す前に、「民族自決」の運用の実態を記します。
 「民族自決」の適用範囲は、ほとんど敵対する同盟国の領土(ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国)に限定され、実質的にはこれらの国の解体を意味する内容でした。(結局、独立を認められたのは、そのほとんどがヨーロッパにおけるドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国、ロシアにある民族です。オスマン帝国からの西アジアの民族独立は認められず英仏の委任統治とされています。)
 それはそうでしょう。「民族自決」を全ての国々や植民地に適用すれば、アメリカは中米諸国やフィリピンから手を引かなければなりませんし、同じ連合国の日英仏も植民地を持っているのです。これらの国々に対して、配慮をしない訳にはいきません。
 また、同じドイツ領でもアフリカ・太平洋島嶼部の植民地はB式・C式委任統治領とされ戦勝国である日英仏の事実上の植民地となっています。他の植民地・半植民地地域ではモンゴル、アフガニスタン、イラク等が独立を認められた程度でした。

条約を遵守しない国家は主権国家に非ず

 さて、そもそもですが、「民族自決」によって主権国家になるという事は、どういう事なのでしょうか?それは、「国際法を守る義務及び責任を持つ」という事です。裏返せば、「主権国家を名乗るなら、国際法を守る意志や能力が必要」という事であり、「そういった物を持たない国は、主権国家を名乗れません。名乗ったとしても、誰からも認められません。」という事になります。思い出して頂きたいのですが、子供の頃、ご両親や先生から、「ルールや約束は守りなさい。」「守れない約束はしてはなりません。」と教わったのではないでしょうか?当たり前です。約束やルールを破れば、周囲の人に迷惑をかけるからです。子供であれば、約束やルールを破ってもご両親や先生に叱られるだけで終わります。(最悪警察のご厄介になる事もあるでしょうが。)
 しかし、国にはルールや約束を破った時に叱ってくれる親も、先生もいません。警察だっていません。例えばA国がB国に対して、国際法違反や協定違反を行ったとします。この時、A国を咎めるのはどこの誰でしょう?B国です。B国がやるしかありません。逆にB国はやらなければ、他の国々から舐められます。
 言ってしまえば、国家関係など、ヤクザの仁義と同じなのです。ヤクザは舐められてはいけないように、国家も舐められてはいけないのです。
 話を戻しまして、「民族自決」によって独立した国々は、「国際法や条約を守る意志や能力」を持った国々だったのでしょうか?答えはノーです。その国々の筆頭が中華民国でした。

増長する中華民国

 中華民国の前身国家、清帝国は、国際法を守る意志と能力に欠けた国でしたが、中華民国はその清帝国よりも、国際法を守る意志と能力を欠いた国でした。そもそも、当時の中華民国は軍閥が割拠していた動乱状態です。条約を外国と締結しても、とても遵守できるような国ではありません。
 そんな中華民国に対して、ウィルソン米大統領は相当に甘い態度をとっていました。(六カ国借款団を抜けて「借款団は中国の行政的独立を脅かす。」と声明する、中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認する等。)
 中華民国は期待していました。パリ講和会議で、ウィルソン米大統領が提唱した民族自決の原則に沿って、中華民国の主権回復に理解が示され、日本が二十一カ条要求でドイツから継承した山東省権益の返還が実現する事を。
 しかし、それは叶いませんでした。日本がww1中に、英仏と密約を結び、チャイナ大陸における日本の特殊権益を認めさせていたからです。ウィルソン米大統領は、最後まで中華民国の肩を持ち、「恒久的な世界平和確立するために、列強は各自の利害関係を超越して、既得利権を放棄すべきであり、だから自分はフューメ問題でイタリアの要求に反対した。極東の平和は、世界平和の全体に関わっている。(山東問題をめぐる日本の一連の政策は、)中国の人々に疑念と不安感を抱かせ、極東に不安定な情勢をもたらす。」とかなんとか牧野大使に力説していましたが、日本の講話会議脱退を危惧し、最終的には日本の権益を認めました。(尚、チャイナ大陸に日本が特殊権益を持つ事自体、石井・ランシング協定にて日米間で合意がなされているはずなのに、牧野大使へのあの言い分です。)
 大体、中華民国の主張は無理筋なのです。1915年の日中条約を前提として日中間で交わされた、山東関係交換公文の中に、チャイナ側が「欣然として同意」するという一句がありますし、日本はすでに鉄道建設借款の前貸金として北京政府に二千万円支払っていました。そして、これらは条約開示によって明らかになりました。
 ウィルソン米大統領の牧野大使への発言は開示後です。どこまで中華民国に甘いのでしょうか。
 そして、権益返還がなされなかった事を知ったチャイニーズは「中華ナショナリズム」を唱えて日貨排斥運動を起こしました。排斥とは本来は「不買運動」の意味ですが、中国では「外国製品を売買した人間に暴行を加えたり、店を壊す」という意味になります。しばしば外国人も巻き込まれました。
そんな中華民国を「まともな主権国家として認めてあげよう。」という国際法の原点を無視した愚かな条約が、九ヶ国条約です。
 この九カ国条約は、ウィルソン米大統領の次の大統領、ハーディング米大統領がやった事ですが、もとになった考えが「民族自決」ですので、本稿でとりあげます。
 九ヶ国条約が結ばれた時の会議で、フランスの外相、ブリアンは「What is China?」と参加国に聞きました。そして、この質問に誰も答えられませんでした。当然です。先述した様に、当時の中華民国は軍閥が割拠する動乱状態です。そして、各軍閥が「俺こそがチャイナをまとめる正当な政府だ!」と主張していたのですから。現代日本で、アフガンやシリアといった内戦をしている国を「マトモな主権国家だ」と評する日本人がいないのと同じです。
 もはや、このブリアン外相の質問が全てでした。中華民国に対し、「軍閥を全て潰して、 国境を確定してからこい。話はそれからだ。」とやればよかったのです。しかし、ハーディ ング米大統領の力押しで九ヶ国条約が締結されました。中華民国の国境をはっきりと定め ず、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、 トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢民族の共和国に譲渡したものと「推定」して、 締結するというデタラメぶりです。本当に馬鹿馬鹿しい。
また、九ヶ国条約には、更に救えない点がありました。中華民国の隣国、ソ連が入ってい ないのです。これにより、ソ連は「九ヶ国条約なぞ知らん」と言って中華民国において好き 放題やってくれました。(外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多 大の援助を与える等々。)
 九ヶ国条約を締結した事を契機に、中華民国が「まともになろう」と頑張ってくれればよかったのですが、そうはなりませんでした。外国排斥運動や、内戦ついでに外国領事館を荒らす等、度し難い行動をとり続けました。悪化する治安にも責任を取ろうとしません。ウィルソン米大統領が中華民国に対してとり続けた甘い態度と、「民族自決」の結果がこれです。結局、中華民国が増長するだけに終わったのです。

大混乱の欧州

 視点をチャイナから欧州諸国に移しましょう。ヨーロッパでは、「民族自決」により、ユーゴスラビア王国、バルト三国、ポーランド等が独立。バルカン諸国の独立も保証されます。先述した通り、「民族自決」により、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が解体されました。ロシアも領土を失いました。
 ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国、ロシアは、他民族国家です。バルカン半島とて、多数の民族がひしめき合う地域です。そんな地域に、「民族自決」を当てはめればど うなるか?政情が不安定化するに決まっています。また、「民族自決」の理念を逆手にとり、 自国の領土拡大を狙う国々も現れる始末です。いくつか例を挙げます。
 
・ギリシャ→内部マケドニア革命組織により、42回の戦闘と27回のテロ活動が行われた。ギリシャ側の死者は83人の軍人、兵士、民兵で、230人以上が負傷。内部マケドニ ア革命組織は22人の戦闘員を失い、48人が負傷。また、数千の地元人がギリシャおよびユーゴスラビアの当局からスパイ活動や革命運動との接触を理由に抑圧された。
 
・ラトビア→1922年から1934年までに39もの政党が乱立して議会を構成。少数派とは言 え、ロシア人やユダヤ人、バルト・ドイツ人の政党がひしめき合い、政権は度々交代し、議会での立案も数千に渡った。
 
・フィンランド→大戦末期になるとフィンランド本土においてロシアからの独立の気運が高まり、これと並行するようにオーランド諸島においてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出するに至る。オーランド分離を阻止すべく、1920年にフィンランドはオーランドに対し広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる結果に。
 
・ユーゴスラビア王国→「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」という、名前か らして民族対立が起きる気配がプンプンする国家が1918年に成立。翌年に、ドイツ系住民が自決権を求めてデモを行い、スロベニア軍が発砲するという事件が早速起きる。政府は主にセルビア人により運営され、非セルビア人勢力と対立。1928年、非セルビア人の有力政党であるクロアチア農民党の指導者スティエパン・ラディッチが議会内で暗殺されると、翌1929年には国王アレクサンダル 1 世が憲法を停止し、独裁を開始。その国王も数年後には内部マケドニア革命組織により暗殺されるというカオス状態に。
 
ドイツ→シレジアのポーランド人が、ドイツを相手に3度にわたって独立を目的とした武 装蜂起を行う。その後、ヒトラーが現れ、ヴェルサイユ条約違反を繰り返す。そんなヒトラーの行動を当時の米英仏は黙認。理由は色々あるが、その一つが「民族自決」。「「民族自決」の考えにてらせば、その地域はドイツの土地のハズだ!」と主張するヒトラーに対し、何も言えなかったのである。その後の歴史は語るに及ばず。
 
ポーランド→18世紀の三国によるポーランド分割以前の大ポーランドの復活を狙い、ソビエトや西ウクライナ人民共和国を相手に戦争を引き起こす。いずれも勝利して領土を拡亜大。また住民投票により、リトアニアやドイツから土地を奪う事に成功。しかし、これらは国内の多民族構成をいっそう複雑にする結果を招き、戦後5年間で政府が11も交替し、議会には30もの政党が乱立する有様に。
 
 たった6カ国の事例を挙げただけですが、頭が痛くなります。
 また、十四か条における民族自決の適用から外されていたアフリカの大部分やアジアなど植民地・半植民地地域では、「民族自決」を逆手にとって本国の政府に対し、より高度の自治や独立を要求する運動が盛んになりました。ここでも武装蜂起など過激な手段に訴える等したため、英仏はその対応に追われる羽目になります。帝国主義列強の一角であったアメリカが「民族自決」を容認した事の反響は大きかったのです。
 「民族自決」の理念により、欧州諸国は大混乱に陥り、最後にはヒトラーが大暴れする事態になってしまったのです。

5.終りに

 有名な精神分析学者のフロイトは、ウィルソン米大統領を「最初の年は人格異常者として、最後の1年間は精神障害者として大統領の仕事をした。」と評しました。さらにフロイト曰く、ウィルソン米大統領は自分をキリストだと考えていたようで、全ての重要な外交政策は「自分がキリストとして活躍できるか否か」だけで判断したとのこと。クレマンソー仏大統領も、ウィルソンについて、「彼は、人間を改革するために地上に降り立った第二のキリストのつもりでいる」と評価しています。
 キリストとして、自分の理想を体現するために振る舞ったウィルソン米大統領の外交政策に対する評価は、その結果からも、「地獄への道は善意で舗装されている」という評価がピッタリでしょう。


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