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「理想的な人生」

自分の理想的な人生を考えてみた。

私にとって理想的な人生とは
何かを伝えることができる人生である。

もし健康的であったなら、大学の先生とか物書きでそれを題材に講演会を行えるような人生が理想的だった。

しかし、今そう言った方々と接する仕事をする中で思ったことがある。

それは常に人の目に触れて、大勢の前で話す人はエネルギーがいるということだ。

当たり前だけれども、当時はそれに気づかなかった。

1回ならいいけども、それが何回も、そして職業によっては毎日話す。

こうなると、また少し違ってくる。

だから、いつも思うのは理想的な自分を思い描いた時も、限定が着くんじゃないかなと思う。

こういう状態で、こうならば良いみたいな。

大学の研究者に憧れた時も、自分が登壇している場面や発表している場面を思い浮かべていた。しかし、仕事でご一緒してみると、当たり前だが研究しなくてはならない、論文を書かないといけない、広報的な活動もしないといけない、最近は生徒やその親御さんまで含めた面談や管理が生じる場合もある、テストを作成実施し採点しないといけない、人間関係や派閥争いなどもある、などなど、自分が見えていない側面もだいぶ見えてきた。

若い子で、僕は映画監督になりたいという人がいた。
その子はコミュニケーションが苦手であまり好きではないと言っていた。

その子に、現実を話してしまった。
映画監督になるというのはまず下積みをしないといけない、その中で映画という全体像をビジネス含め学んでいき、そして実際に監督になったらとんでもないプレッシャーと戦わないといけない。数限り無いステークホルダーとコミュニケーションをとり、調整をする必要がある。大きな予算を与えられていく中で、何十名、何百名というスタッフの運命を背負わないといけない。自信がプロットを書き、カット割をし、演出を行い、そしてクオリティに責任を負わないといけない。最後にそれが市場に受け入れられて、大きな賞賛を得た時に初めて短い間解放され、満たされる。そんな職業だと思いますと。

こういう仕事だと伝えたところ、彼は黙ってしまった。

意地悪だっただろうか、いや、でも事実を伝えるとこういう感じだと思っている。

だから僕は何かを得るときは必ず何かを失うと思っている。
そしてそこに覚悟があるかどうか、プロセスを楽しめるかどうかが自分にとって理想的な仕事なのだと思っている。

理想的な人生を描く上でも、どこか都合の良い部分だけフォーカスされているとなかなかうまくいかない、しかし、現実だけ見てもまたうまくいかない。

いい具合に見えていない、でもがむしゃらにやっていたら、何かになった。そんなのが一番いいなと思っている。


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