イギリスの歴史(2)ブラッディ・メアリーとエリザベス1世
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「イギリスの歴史シリーズ」の2回目です。
有名な女王エリザベス1世も登場します‼😆
が、まずはメアリー1世の暗~い時代のお話からです💦
※1回目はこちら ↓
1,「ブラッディ・メアリー」によるカトリックへの復帰と異端の弾圧
1553年、イングランドでヘンリ8世の娘のメアリー1世が即位します。
イングランド初の女王の誕生です😆
メアリー1世は、カトリックの大国であるスペインの王太子フェリペと結婚し、イングランドをカトリックへ復帰させ、
ローマ教皇庁への服従を誓います。
父王のヘンリ8世がせっかくしたことを、
元に戻してしまったのです…😥💦
この結婚によって、イングランドは、
スペインとフランスの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれ、
フランスに敗れヨーロッパ大陸に残っていた唯一の領土である「カレー」を失います😭
その結果、大陸からの侵攻に備える「海の守り」が、
国防の第一線になってしまいました😥
今後のイングランドは、大陸からの侵攻に備えるために、
不断の情報収集(インテリジェンス)がますます不可欠となります。
当時のイングランド経済はどん底で、
穀物の不作もあり飢饉が蔓延していました。
インフルエンザの大流行もあり20万人以上が死亡します。
また、メアリー1世は宗教の異端処罰法を復活させます。
イングランド国教会などプロテスタントの多くの一般庶民を火あぶりなどで拷問しました。
女性や子供を含む約300人を処刑したそうです…💦
※やり過ぎやろ…😭😭😭
ちなみに、国教会やプロテスタントの主要人物は大陸に亡命していました。犠牲になるのは一般庶民なのですね…
カトリックのスペイン王と結婚したせいで「カレー」を失ったこと、
経済がどん底で病気も蔓延もあり、民が苦しむ中でカトリックの仰々しい豪華な儀式を行ったこと、
異端処罰法で民衆を弾圧したこと、
メアリー1世は、民衆から憎まれるような行いばかりしていました。
女王はいつしか「ブラッディ・メアリー(血まみれメアリー)」
と呼ばるようになります💦
女王を憎悪した民衆は、イングランド国教会の復活を望みます。
女王は健康を害して、その崩御の時期を悟るようになります。
後継者は異母妹エリザベス以外にいませんでしたが、
自身の母を王妃の座から追いやった淫婦の娘だとして、
メアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、
崩御の前日になって、やっとエリザベスを後継者に指名するほどでした。
メアリーの命日はその後200年間にわたって
「圧政から解放された日」
として祝われたそうです。
どんなに嫌われていたの…😭😭😭
後世にも偉大な女王として人気のエリザベス1世と関係が悪かったことや、
カトリックへ復帰したことを批判する後世のピューリタンの世界観から、
メアリー1世のイメージは過剰に悪く描かれているのかもしれませんが…💦
2,エリザベス1世の即位と議会との協力
メアリー1世の後、女王エリザベス1世が即位します。
メアリー1世の義妹、ヘンリ8世の娘です。
ここからは、近代イギリスの始まりといえます😊
エリザベスは、イングランド国教会を復活させます。
ローマ教皇はエリザベスを破門し、
イングランドは再びカトリックと対立します。
メアリー1世のカトリック時代に国外へ亡命していたイングランド国教会派やプロテスタント派は、亡命先からイングランドへ帰国します。
そのときに、国教会をさらにプロテスタントに近づけようとしたカルヴァン派は「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれます。
※「ピューリタン(清教徒)革命」で有名なピューリタンがここで登場!😆
王位継承や宗派の変更のすべては、
エリザベスと議会との相談の上で行われました。
最後まで読んでくださりありがとうございます😊
次回は、エリザベスのインテリジェンスが大活躍します~😆
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