イギリスの歴史(11)クロムウェルの「軍事独裁」政権
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「イギリスの歴史シリーズ」の11回目です。
ちょっと細かい内容ですが、読んでいただけると嬉しいです。
前回はこちらです ↓
1,イングランドで共和制の樹立
1649年、イングランド共和国の樹立が宣言され、
イングランドの「国王・貴族院・庶民院」という政治体制は消滅しました。
君主政と貴族院を廃止する法が発布され「国王なき時代」に突入したのです。
行政は国務会議が行いました。
議会では、独立派が勝者になりました。
平等派の指導者を逮捕・平等派兵士の反乱を鎮圧して独裁的な体制をつくりあげます。
イングランド単独で執行された国王処刑に驚き怒ったスコットランドは、
皇太子をチャールズ2世として認め、ブリテン複合王国の正統な継承者だと宣言します。
アイルランドのカトリック同盟も、スチュアート朝と新国王チャールズ2世への忠誠を表明しました。
国王処刑後に、スコットランドとアイルランドの両国は、
イングランドとさらに亀裂を深める💦ことになったのです。
イングランドは、アイルランドを属国とみなす一方で、
ライバルとなったスコットランドを独立国として認め、切り離そうとしました。
2,アイルランドとスコットランドを征服
アイルランドでは、国王派とカトリック同盟が提携して、反革命勢力を形成します。
1649年、クロムウェルは、アイルランド遠征により非戦闘員を含む多くの市民を虐殺💦しました。
これは、戦争の資金提供者や給与未払い兵士への土地付与という意味が与えられ正当化されました。
アイルランド土地処分法により、カトリックの土地が大量に没収され、
軍隊派遣に出資したロンドン商人やプロテスタント地主の手に渡りました。
このようにアイルランドの植民地化が進行しました。
1650年、クロムウェルは、スコットランドにも侵攻します。
チャールズ2世は敗退し、フランスに亡命しました。
ここでイングランド内戦は終結しました。
スコットランドでは、国王派を公職から追放します。
これにより都市代表の発言権が高まり、貴族や聖職者の力が急速に低下しました。
3,複合国家体制の形成
アイルランドとスコットランドの征服をへて、
1651年にイングランドとスコットランドの合併が宣言されました。
議会では、スコットランドとアイルランドに議席が配分されました。
1人の主権者と1つの議会が、イングランド・アイルランド・スコットランド・ウェールズの4国民を統治する複合国家体制です。
国王の専制ではなく議会による支配が特徴でした。
宗教は国教会は強制せず、プロテスタント諸派を認めました。
ただしカトリックは認めませんでした。
まさにピューリタン革命の成果を反映した体制でした。
ウェールズでは、国王派の所領を差し押さえました。
また、福音宣教によりウェールズの宗教と文化を組織的に変えました。
これらにより、ウェールズが国王派と国教会の牙城という保守的な状況から脱しました。
4,クロムウェル独裁へ
ランプ議会は、クロムウェルと軍隊に解散させられ、より急進的な指名議会が開設されました。
これは、選挙によらないで、軍隊と教会の推薦によって議員が選出されました。
指名議会は、法改正や財政改革、十分の一税廃止などの急進的な改革に着手しますが、議会内の穏健派とクロムウェルにより、さしたる成果なく解散させられます。
クロムウェルは、軍幹部の用意した成文憲法「統治章典」に従いプロテクター(護国卿)という地位につき、プロテクター政権という軍事独裁政権💦が成立しました。
プロテクターは、イングランドの国益だけでなく、ブリテンやヨーロッパのプロテスタント保護をも目的とした官職でした。
指名議会を追われた議員(第五王国派)らはクロムウェルを公然と攻撃しました。また、国王派や平等派の残党など宗教セクトも、政府にとって脅威でした。
これに対してクロムウェルは軍政管制を敷き、軍事独裁色を強めていきます。
国内での経済停滞とオランダ、スペインとの対外戦争によりイングランドは難局に直面していきます…💦
5,民衆グループの弾圧
政府は国王派などの反革命勢力を打倒するため、さまざまな民衆グループを利用しながらも、不都合になったら彼らを切り捨てるという戦略をとりました。
政府に弾圧されたグループとして、ディガーズ、ランターズ、クェイカー派、第五王国派などがいます。
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最後まで読んでくださりありがとうございました😊
次回は、「王政復古」です!
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