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ざっくり日本の歴史を学び直す(大政奉還まで)

学校で日本史の授業って退屈だったな~
って記憶しかない私ですが、

自分に子供ができたからか、
親父になったからか、
今までなかった感覚を
時折、感じることがあります。

なんというか、
自分も歴史の一端を担っているような
不思議な感覚があります。
特に、お墓参りとかに行った時や
親戚のおじさんやおばさんの話とかも、
結婚する前とは比べ物にならないくらい
貴重な話に聞こえてくるから驚きます。

歴史ってなんだろう?
日本史とかってちゃんと学んでなかったな・・・。
なんて、
最近色々と日本史について学びなおしたいと思い
久しぶりに学び直してみました。

ちゃんとした自分なりの認識とか持った上で
子供にも教えてやれたら・・・なんて思ったりします。

でも実際のところ、現代史が重要なのだろうとは
わかっているのですが・・・。

まずは、流れをつかむことが必要だからと
思って学び直しましたが、
大人になっていろんな知識を持ったうえで
学び直すと結構面白いですね、歴史って(笑)
テストもないのでなおさらです。
という事で、まずは大政奉還までをざっくりってことで。
(自分のために残しておきます。)


<縄文時代>
約1万6,500年前から約3,000年前ごろ
縄文人は日本の原住民。
どうやら世界的にみても平和で、高度な文化を持っていたようです。
1万年を超える期間、石器を用い採集と漁撈という生活を送っていた。
土地と食料が豊富なことから争う理由もなく組織も階層も必要なかった。

また、定住生活により、土器・石器・漆器に代表される道具作りの技術に秀でていく。


<弥生時代>
紀元前9世紀頃から3世紀頃まで
弥生人(大陸人)が、鉄や銅・稲作を日本に伝えた。
稲作を中心とする農耕社会。

鉄や銅は、農耕を発展させた。
しかし、同時に武器にもなり
結果として争い(戦争)のはじまりとなる。

古事記、日本書紀によると
この頃日本の初代天皇 神武天皇が帝国を創建した(※1)とされています。

邪馬台国の卑弥呼が有名ですが、
邪馬台国との書き方は、中国の魏志倭人伝にしか載っていないので、
「邪馬台国=ヤマト国?=大和政権?」が同一ではないかとの説もある。

邪馬台国と大和政権が別個のものだとしたのは、江戸時代の本居宣長。
国粋主義的な国学の立場で解釈しているため、
貢物なんかするような邪馬台国はヤマトの偽物だ、との国との考え。

<古墳時代>
3世紀中後半から7世紀頃まで
ヤマト王権による支配が強まる。
前方後円墳はヤマト王権が各地の豪族に許可した形式ではないかと言われている。
東北から南九州までに前方後円墳が5,200基も築かれた。
前方後円墳は、日本独自の形態であり、この時代にしか築かれていない。

北部九州を中心とする政治勢力と、奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していた。
この両地域の勢力が母体となって、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。
この時期に、同じ形式のお墓が統一的に日本列島に出現したことから、
日本列島に統一政権(ヤマト王権)が誕生し古代国家の基礎が整えられたと考えられている。
古墳時代終末期に「倭国」から「日本国」へ国名を変更した。
中国の歴史文献において倭国の記述がなく「空白の4世紀」とも呼ばれている。


<飛鳥時代>
6世紀後半から8世紀初頭まで
ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれた。
政権は安定するも、王位継承抗争が激化した。
聖徳太子と蘇我氏により国政改革が行われた。
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が、蘇我氏を滅ぼした後
「大化の改新」により天皇中心の国づくりをはじめた。
この大化の改新から現在まで天皇中心の政治は続いている。

重要なポイントとしては、
・日本の独立を宣言した。
・天皇制をはじめた。
・法律をつくった。
・戸籍を作った。
・歴史書「古事記」「日本書紀」が作られた。

仏教の伝来があり、
ここから神道と仏教の主導権争いの歴史がはじまる。

貴族の間では、神道も仏教認める「神仏習合」がはじまる、
その中でも天皇家をも凌ぐほどの権力を握り始めたのが藤原氏(中臣神道)であった。
天皇家との結びつきを強めていた藤原氏は、
飛鳥を中心とする旧来の豪族勢力の力を削ぐため、
飛鳥の地から奈良北部(平城京)へと遷都する必要がでてきた。


<奈良時代>
8世紀初頭から末
平城京に遷都された。
仏教が大流行した時代。
奈良の僧侶の力が、強くなり京都へ。


<平安時代>
8世紀末頃から12世紀末頃まで
桓武天皇により平安京に遷都された。
平安京は明治に至るまでの約1000年以上の永きに渡って日本の首都(※2)となる。
藤原氏による摂関政治の開始される。
(天皇や皇族が直接政治をしない貴族政治のはじまり)
独裁政治への不満で起こる民衆の反乱に対して、
藤原氏が身分の低い貴族に武器を渡すことで
武士階層が登場した。

その後、
保元の乱で兄・崇徳上皇と弟・後白河上皇が
天皇の座を狙って戦います。
弟の後白河上皇側の家来にいた、強い家来が平清盛と源義朝です。
これが元祖・武士です。

その後、後白河天皇のもと平清盛は大出世し、源義朝はそれを逆恨みする。
平清盛と源義朝が戦うこと(平治の乱)になり、
平清盛が勝利し、源義朝は殺されました。

息子の源義経は東北の平泉へ渡り、修行することになる。
源義経は、義母兄の源頼朝と源平合戦を繰り返し
壇ノ浦の戦いで平氏は全滅した。
その後、今度は頼朝と義経の兄弟喧嘩が始まり、
義経が殺され平安時代が終わった。

<鎌倉時代>
12世紀末頃から14世紀頃まで
源頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍の位をもらい、
鎌倉で鎌倉幕府を開きました。
あくまで、都は「京都」のままで、武士の政府(幕府)を鎌倉で始めたのです。
京都から離れた土地を源氏のモノにしたかったのです。
そして、鎌倉幕府は京都の公家をしのぐ権力を持ちました。

将軍は源頼朝の息子・源頼家に引き継がれましたが、
幼すぎたので頼朝の奥さんの父・北条時政が「執権」として権力を持つようになりました。
皇室VS幕府(武士)の図式になります。

その当時の中国は、
モンゴルの皇帝フビライ・ハンに支配され「元」という大帝国になってました。
九州に2度も「元」「高麗」連合軍が襲ってきました。(元寇)
仲の悪かった国と幕府が日本のために一致団結して、
元・高麗連合軍と戦ったのです。

二度とも「神風」が吹き、侵略軍には勝った(?)ものの鎌倉幕府は、
この戦いにお金を使いすぎたため、幕府の権威は次第に衰退していき、
後醍醐天皇により滅亡させられた。
そして、日本は再び皇室のものとなりました。

<南北朝時代>
14世紀頃
打倒、鎌倉幕府と手を結んでいた後醍醐天皇と足利尊氏。
いざ倒してしまうと、その後の目指すものは違うものでした。
足利尊氏は新しい武家政権を室町に開きました。

しかし、後醍醐天皇はこれをよしとせず、
かねてからの願望であった天皇中心の政治を復活させるため
自ら吉野(奈良県)に都を開きました。

これにより、日本には足利尊氏の幕府と後醍醐天皇の都、
2つの政府が同時に居並ぶ時代となりました。
これを、北にある室町幕府を北朝、
南にある後醍醐天皇の都を南朝と呼んだのです。

<室町時代(前半 南北朝時代・後半 戦国時代)>
14世紀頃から16世紀頃まで
三代将軍足利義満は、
北朝の後小松天皇と南朝と後亀山天皇の間を取り持ち、
弱体化していた南朝を北朝に吸収合併することで合意をしました。
天皇家においては南朝を正統(※3)とみるので、
後亀山天皇が後小松天皇に譲位するという形で
南北朝の統一がなされました。


<戦国時代>
15世紀後期から16世紀後期
8代将軍義政が亡くなると、世継ぎ問題を発端とし
日本最大の内戦とも言われる応仁の乱が起き、
京都が焼け野原と化します。

これにより各地の守護が力を持ち、武装し始め、
守護大名を経て戦国大名となっていきました。
これが、戦国時代の幕開けです。

<安土桃山時代>
織田信長が全国を統一し、
信長は京都から少し離れた、安土(滋賀県)に城を構えました。

楽市楽座やキリスト教の優遇など民に暮らしやすい時代をつくりましたが、
その仕上げ、上洛の途中の本能寺で命を落としました。

信長が亡くなると、秀吉が後を引き継ぎました。
商業都市・堺の近くに、大坂(大阪)に城を構え、
桃山(京都伏見)を中心として政治をしたといわれています。

信長の安土、秀吉の桃山をとって安土・桃山時代といいます。

<江戸時代>
1603年-1867年
秀吉が亡くなると、その後の権力闘争のため関ヶ原の戦いが起こった。
徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍。
西軍の小早川秀秋の裏切りにより東軍が圧倒的有利になった。
関ヶ原の戦い自体は1日で終わった。

勝者となった徳川家康が、秀吉によって飛ばされた土地である江戸に
幕府を開き、264年にわたる安定した政権が生まれた。

また、1638年の島原の乱が鎮圧により鎖国が完成されることとなった。
徳川将軍を頂点とし、参勤交代や鎖国や身分制度によって、
大名に力を貯めさせることをさせず、諸大名との主従制を確固たるものとし
謀反さないシステムを作り上げ、朝廷の統制を強くし、幕府官僚機構を整備し、
長期間の平和を維持した。

江戸時代の日本は、幕末まで、200年以上もの間、戦争も大きな内乱もない平和な国で、
人口もほぼ2600万人のまま変化がない安定した社会だった。
海外では驚異的なことで「パクス・トクガワ」などと呼ばれている。

今から約150年前のペリー率いる黒船の来航をきっかけとして
倒幕の嵐が吹き荒れ、15代徳川慶喜は朝廷に政権を返上し(大政奉還 ※4)、
江戸幕府は終焉を迎えた。


なんしか、カッコいい大人になろう。


個人的にちょっぴり興味深かった歴史の補足をしています!

※1
<日本の建国>

紀元前660年を王朝の起点としています、
神武天皇が奈良に移住して、ようやく落ち着いたので、
ささやかな正月のお祝いをしたました。それが当時のお正月
現代でいう旧正月であり、日本の建国の日とされる日です。


※2
<首都とは?>
794年に桓武天皇によって平安京への遷都が行われて以来、
現在に至るまで、遷都に関する宣言は出されていない。
また大日本帝国憲法を始めとした旧法令や日本国憲法を始めとした
現行法令のいずれにおいても、
「日本の都が何処であるか」という点については謳われていない。
「首都」についての直接的な表現を用いて定めるものはない。
なので、正式に「東京」が首都である旨の正式な法令は何一つありません。


※3
<皇室は、南朝が正統なのか北朝が正統なのか?>
南北朝問題が解決した当初正統は北朝でした。
ところが、江戸時代になり、水戸藩主の徳川光圀は
南朝こそが正統と考えました。
その当時は、南朝正統論にあまり力はありませんでした。
しかし、この水戸学は次第に大きな影響を持ち
維新後の世論は南朝正統論が台頭して来ます。
明治末期の当時、南朝正統論に世論は過激に傾いていきました。
世論を変えることはできず、帝国議会までもが紛糾します。
事態を憂慮した明治天皇はついに1911年、
「南朝を正統とする」旨を決定しました。
しかし、明治天皇は北朝の血統ですので内心は、
「皇統は北朝」であると思われたはずです。

※4
<大政奉還の行われた場所>
徳川慶喜の大政奉還は二条城で行われた。
奇しくも、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀が行われた場所でもありました。
つまり、二条城は江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。

歴史って面白いですね~

絶対、押しちゃダメよ♥️