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月の鱗。

 寝付けなかった。

 その日は爽やかな陽気で、風が春を運んでくる。そんな日だった。空いた窓から風が届けてくれる世界に身を投じて午後を過ごした。

 「少しお腹がすいたな。」
外は照り付ける陽から、包み込む陽へと変わっていた。
 「冷凍餃子でいいか。中華は常に美味しい。」

 お腹を満たすとすぐ風呂に入った。ぼんやりと時間が過ぎていく。気が付けばテレビの中の豪華客船が沈没していた。

 部屋の明かりを消した。豪華客船の最後を見届けテレビも消した。時計の秒針が虚空に声をあげる。

 寝付けなかった。

 ベッドの横すぐの窓を開けた。昼とは違って、冷えた風がうだるような夏がくることなんて嘘みたいに吹き抜けた。思わず玄関へ向かった。

 お気に入りの公園とベンチ。寝そべると弁当屋の塀が視界の右に入る。空はあまり綺麗ではなかった。地表の星の輝きの方が強いらしい。唯一みえるのは異物のようにそこに浮かぶ月だけだった。

 気が付くと塀の上には一匹の猫がいた。こちらには一瞥もくれずにひっそりと佇み、空を見上げていた。一筋の星が流れた。キャンバスに鉛筆を走らせたような曲線だった。ぼやけた闇の中で、その鱗のような動く光はひどく目立った。

 また流れやしないかと虚空を眺め続けた。やがて月は沈んだ。

 朝焼けに照らされた一匹の猫。何物にも縛られない華奢なその体は光に溶けていった。

 その日は結局寝付けなかった。


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