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「ほんものになる」ということ

施設に勤めていた時高齢者の方から、

「お子さんおいくつ?」

とよく聞かれていた。まぁ、聞かれてもおかしくない年齢だ。

「あ、私独身なんですよー。子供もいません。」

と答えると、「あ、ごめんなさい…」と何故か謝られる。

質問したことを忘れる方もいらっしゃるので、何度も同じ質問をされてほとほと疲れ果て、「9歳になりました。」と答えたこともある。

他の人はあなたみたいないい人が結婚していないのはおかしい!となり、最後には、
「あなたが選びすぎてるのねー。だめよ!」

と私が悪いことになる。

自分の意思で結婚していないのだけど、それが私の人生だ。悪いことはない。


そうこうしていると、「あの人がいいんじゃないかしら??」と仲人役を頼んでないのに買って出て、「相手に見せるから写真くれる?」と言われる。

あと、知らない間にお見合いをセッティングされたことがこれまでに最低4回はある。身長もデカくて綺麗でもないから、1回会えば断ってくれるだろうと2回ぐらい渋々受け入れた。


えーー?!なんでーーー?

って思うかもしれないが、これは本当なのだ。

高齢者の方は本気(マジ)である。私のお見合いにマジなのだ。

個人情報ですのでと断れるうちはまだいい。だが日取りまでセッティングされるともう逃げられない。

一度日取りまで決められたお見合いが向こうの仕事の都合でキャンセルになった。私はほっと胸を撫で下ろしたのだが、勝手に仲人役をしていた方がお相手の伝言としてとして私に言ったのが、

「どんなに僕の方が給料低くても、お嫁さんになる人には家に入って家庭を守ってもらいたいらしいよ」だった。

(°▽°)…

そうですか…とだけ答えた。


別の方は私の人となりや経歴をお相手にこれでもかと喋りまくり、「きっとそんなに仕事に一生懸命なら僕なんて必要ないのでは?」と言われたという。

全然知らない人に振られたということを一方的に聞かされる悲しさったらない。

皆さん全然悪気はないし、私に幸せになってほしいと思ってくれているのはありがたいと思う。そしてこの感覚は、昭和一桁生まれの人たちにとっては普通の感覚だったのだ。

今もそうなのかもしれないが、お見合いは非常に効率が良いマッチングシステムだった。相手の人柄や仕事、家族構成などを吟味して、全て近所のお節介おばさんが仲介してくれるのだから。恋愛結婚の方がむしろ珍しかったらしい。

そして結婚をして、仕事を辞め、家庭に入り、子供を育てることがその時代の当たり前だったと誰もが仰る。そこにきて私を見ると、哀れみを隠さずに「ごめんなさい」というのだと思う。

したことはないけど結婚はきっとご縁だと思うので、私にはその縁がそもそもなかったのだと理解していただくまでにかなりの時間を要した。

ある女性作家が言っていた。「結婚して一番よかったのは、何故結婚しないの?と聞かれなくなくなったことかもしれない」と。


話は変わるが今ある本を読んでいる。

元々は著者のTEDを見たことがきっかけで、この本を読んでみようと思った。

この本の中では、男女の「恥」について述べられている章がある。

女性にとって最も普遍的で強力な恥のスイッチは「容姿」であるという。

外見で人は判断できないと誰がどれだけ教育しても、やはり女性が一番恥を感じるのは、スリム、若い、美しいという条件を満たせていないことなのである。僅差で続くのが母性で、なんと母親にならなくても母性の恥は経験できてしまうのだ。この社会では女性らしさと母性は切っても切り離せないものとされていて、女性としての価値が母親(または未来の母親)としての役割ではかられることが多々ある。(P.101)

これを読んだ時、「そっか、昔も今もそんなに変わらないのかもな」と思った。そして、もしかしたら自分の中にも同種の恥の感覚があるかもしれないと感じた。本によると、恥のスイッチは女性らしさや男性らしさの規範に基づいているらしい。

女性はやさしく、スリムで、美しく、おとなしく、良き妻、良き母であることが求められ、自分の力を認めることは許されない。(P.123)

私が結婚をしていないというと「あなたが選びすぎなのよ」と言われて、なぜか自分をものすごく恥ずかしい存在なのではないかと感じたことを思い出した。そんなこと全然感じなくていいのに。

きっと自分の中に「女性らしさ」の規範に「結婚→母になる」という法則があったのかもしれない。それが自分にはほぼ不可能であり、説明するのもめんどくさいし、センシティブな問題なのであまり人に語りたくなかったのもある。

先にご紹介した男性の言葉も裏を返せば、「男たるもの、女性を養えないと恥ずかしい」という「恥」の部分だったのかもしれない。

本の中にはこの恥から抜け出す方法について書かれてある。

・「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆さ)こそがその道であり、勇気を照らす灯火だ」ということ。

・「かくあるべき」のリストを捨てるには、勇気がいる。本物の人間らしい人間になるために、自分自身を愛し、互いに支え合うことは、おそらく最大の果敢な挑戦であること

TEDの中でも語られているが、

「この自分でいいんだ」

ということ。

そこから始めれば人にも優しくなれるし、自分自身にも優しくなれる。

本当にその通りだと思う。

女性はこうあるべきだということを勇気を持って手放してみると、私自身にもっと近づける気がする。
私は「私」になっていきたい。

ご紹介した章の最後に、児童文学の一節が紹介されている。(多分ぬいぐるみ同士の会話と推測する)

ほんものになるころにはね、もう毛がすっかりすりきれて、みすぼらしい姿になっている。ずっと子供となかよく遊んだからね。それでも一度ほんものになると、もう二度と前にもどることはない。ずうっとほんもののままなんだ。


かくあるべきを手放し、自分を愛し、他者から愛されていると知った時、私たちはジェンダーにとらわれない「自分らしさ」を見つけられるのかもしれない。本はまだまだ続きがあるので、頑張って読もうっと。





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