見出し画像

蜃気楼的世界観4

 森は見えない境界線を守るかのように唐突に終わり、眼前に広がる荒野の上に異様な乗り物が私を待っていた。

 馬が引く乗り物を「馬車」と呼ぶのだから、これは「犬車」とでも呼べば良いのだろうか。錆の目立つ丸っこいボディの車を、前方に繋がれた巨大な、本当に巨大な黒い犬が引っ張る格好になっている。犬の身の丈は私の身長をゆうに超えていて、赤い舌と鋭い牙がちらと見えただけでも恐ろしさに気絶しそうだ。もしもあんな巨大な生き物に襲われたら、人間なんてひとたまりもない。

「どうぞ。お乗り下さい」

 私を先導した男の人は、うやうやしく犬車のドアを開けて乗るよう促す。恐る恐る入った車内は前後の座席が向き合ったつくりになっていて、本来なら運転席があるはずの場所にはなんの設備も見当たらなかった。もともと巨大な犬に引かせることを想定して造られたものなのだろう。

 白い革張りのシートは小汚く黄ばんでべたついているが、言い出す勇気もないので出来るだけ浅く腰かける。あとから男の人も乗りこんできて、私の斜め向かいに、進行方向に背を向ける格好で落ち着いた。シートのべたつきは全く気にしていなかった。

 他の兵士たちが犬車の四方を固めるように並ぶと、隊列はゆっくりと進みだした。

 汚く曇った車窓から、遠ざかっていく森を振り返る。テンは、大丈夫だっただろうか。クーガに連絡を取れるような何かが、私の手元にあったら良かったのに……。

 おもむろに男の人が鎧の中を探る。物音が気になって車内に目を戻すと、ひどく大きくて無骨なトランシーバーめいたものを取り出すところだった。

 アンテナを伸ばすと、ノイズめいた甲高い音が鳴りはじめる。口元にあてがって話した。

「こちらウエルド少尉。伝説の人を無事、お迎えした。総員引き揚げだ。総統にも連絡差し上げろ」

 ノイズの隙間を縫って、機械的な了解の返事。ウエルドと名乗った男の人は、それを聞くと通信を切った。

「陽動作戦を展開していたのです」

 私の視線に気づいて説明してくれる。通信の内容が気になっていると思ったようだ。

「総統直々の指示により、我が軍は森の南西部に中規模の部隊を送りこみました。共生派の連中はそちらへかかりきりになると予想したのです。その隙に我々が森の東側へ入り、伝説の人――つまり貴女を見つけ、バンプールへお連れする。そのような作戦でした。

 そう、総統は貴女がきっと東の森にいらっしゃるだろうと言われました。総統はすべてを見通しておられる方です。過去も、未来も。あの方の仰(おっしゃ)ることは必ず実現する」

 淡々と、しかし揺るぎない信頼――いや、信仰心と言うべきだろうか――を交えてウエルドは語る。私は強い敬愛の情に圧されて曖昧に笑うのが精一杯だった。

 その後訪れた沈黙が痛い。私は必死になって話題を探す。重苦しく黙りこんでいるよりは、何かを説明してくれていた方がまだ気まずさは減る。

 犬車を取り巻いて歩く兵士たちを手で示した。

「彼らは、ロボットなんですか」

「はい。軍事行動用に製造された、闘争機零参ぜろさん型です。戦略、武器使用の理解に特化した機械頭脳が組み込まれており、我々管理派の勝利のため、忠実に行動します」

「はあ……」

 規則正しい説明を聞いているうちに、私は疑わしく思えてきた。

「あの……。失礼かもしれませんが。貴方は人間、ですよね? まるで機械みたいに正確に喋るけれど」

「貴女の所感は半分当たっています。わたしは確かにヒトですが……」

 鎧の胸元に手をやり、金具をいくつか外して胸当てを取り去る。その内側にあったのは生身の肉体、ではなく、複雑に組み上げられ、あちこちで小さなランプを点滅させあう微細な機械の集合体だった。

「えっ……」

 言葉を失う。そのあいだにウエルドは胸当てをつけ直し、機械の体は鎧の蓋の中にしまいこまれた。

「わたしは首から下を機械に『進化』させています。総統の持つ偉大なお力が、人間の神経系を電子回路に接続することを可能にしました。これにより我々軍人は総統の意図をより良く理解し、命令通りに動くことができるのです。体感覚は肉の体と変わりません。一方でこの体はより頑丈で長持ちするので、メンテナンスを怠らなければ向こう百年はこのまま保(も)ちます。

 珍しいことではありません。むしろ『進化』を授かるのはこの上ない栄誉なのです。進んだ階級にいる貴族たちは、全身を『進化』させて永遠に、好きなだけ生きることができます。もっとも、最上位である総統だけは『進化』を経る必要なく存在し続けるのですが」

 窓の外が茶色くくすんできた。風で荒野の砂でも吹きつけているのかと思ったら、どうも違う。煙で視野が狭まっているのだ。森は後ろの方に見えなくなり、辺りは煙で包まれる。どちらの方角を目指して進んでいるのか、いっそう分からなくなった。

 急に煙の中から巨大な建物が立ち上がってきて、私は驚いた。

 どうやら隊列は幅の広い通りを進んでいるらしい。四角い、工場と思しき建物群が左右に規則正しく並んでいる。低く垂れこめた茶色い煙のなかには工場の煙突が伸び上がっていて、先端は茶色い雲の中に見えなくなっていたけれど、きっと絶えず煙を吐き出し続けているのだろう。

 ウエルドは言う。

「ここはバンプールの中央通りです。左右の工場では、生活に必要なものすべてが生産されています。十分な量の食糧、衣服、家具、生活用品。休みなく稼働するラインが貴族の要請を叶えています」

 町の中は排煙のせいで、どこまでいっても視界が悪い。けれど時に煙を透かして、工場にへばりつくように建つ掘っ立て小屋のような建物を見つけることができた。しかもどの工場にも、折り重なるようにしてたくさんある。

「あの小屋は何ですか?」

 指さすと、ウエルドはちらと目をやるだけだ。急に無関心な口調になった。

「下層市民――工場労働者たちの住居と予想されます。配給品を貯めておくなどしているのでしょう」

「家!? でも、こんな場所に作らなくても」

 あまりに粗末で、劣悪すぎる。首都と言うくらいだからこの町は広いのだろう。もっとまともな家を建てる場所や、それこそ住宅街があっても良さそうなのに。

 私の指摘はウエルドに軽く笑われた。

「貴女は面白い見方をされますね。下層市民のために使う余分な土地や資材などありませんよ。住居をまとめて建てられる広さの土地があるならば、そこに本当に建てるべきは工場です。工員たちには招集命令にすみやかに従う義務がありますから、職場のそばに家があるのは理にかなったことなのです」

「でも。こんな」

 断定的な口調に対抗するだけの機転と話術に乏しいせいで、情けなくも私は口ごもってしまう。でも、こんな……ひどい。見たところあの小屋は二畳ほど、良くて三畳くらいの広さしかなく、とても人間が健康的に暮らせる環境とは思えない。この車は運良く気密性が高いようで何も感じないけれど、もし窓を開けようものなら排煙の悪臭が一気になだれこんでくるに違いない。顔も名前も知らない「下層市民」と呼ばれる人々の、きっと損なわれているだろう健康と暮らしに心が痛む。

 タイヤが石でも踏んだのか、薄い車体がガクンと揺れた。

「王宮に入ります」

 ウエルドは淡々と告げた。

 隊列が足を止め、前方で重い鉄扉が開いていく地響きがする。辺りに漂っていた煙が開いた空間に吸いこまれていき、後を追うように私たちも中へ入った。

 暗闇と煙が視界を塞いで、鉄扉に入った先は何も見えない。扉が閉まるといよいよ視界は闇に閉ざされ、自分の手足すら見えなくなってしまった。部屋全体から袋の空気を抜くような、鋭いプシューという音が聞こえてくる。

「排煙を吸入し、有害物質が王宮内へ入らないよう空気清浄しています」

 ウエルドが機械的に解説した。

 音が止むと同時に明かりのつく音がして、巨大な円形の部屋が白い光の中に現れる。灰色のコンクリートが空間のほとんどを形作る、地下駐車場を思わせる空間だった。

「どうぞ。お降りください」

 ウエルドが先に出て、私のために手をさしだす。さしだされたから手を借りたけれど、このかしずかれる感じはなんとも慣れない。

 周囲を固めていた機械の兵士たちは駆け足で犬車の始末にかかっていた。車を犬につないでいたくびきを外し、代わりに目を見張るほど太い鎖を首輪につける。他三人の兵士は車を押して、どこかへ運んで行こうとしているようだ。

「車は一度使えばあれほど汚れてしまいます。あれは廃棄され、工場に新しく発注するのです」

 乗った時から汚かったのはもともとだったのか。

「なんだか、勿体ないですね。綺麗にすればまだ使えるのに」

「勿体ない? 逆ですよ。物はいつか必ず壊れますし、壊れるように作るのです。そうでなければ需要がなくなり、工場は存在意義を失うでしょう。ひとつのものを使い続けるなどナンセンス。新しく良いものを買う余裕もない人間のすることです。意識ある文明人ならば、過剰生産・過剰消費に尽力しませんと」

「はあ……」

 馴染みのない概念。頭が痛くなってきた。

 ウエルドの案内に従って歩きはじめようとした時、「あ、貴様!」と機械の兵士たちから声が上がった。

「伝説の人よ!」

 機械による合音じゃない、生身の人間の声。

 誰だろう。振り返った私は戦慄した。

 頭の禿げかけた、気弱そうな男性が駆け寄ってくる。けれど人間らしいのは顔だけで、それ以外は……機械、だった。

 しかもウエルドや兵士たちとは違う。全身が余った鉄骨を寄せ集めたような棒状で、何の工場作業に特化した設計なのか、二つも三つもついた関節が手足を異様な方向に曲げさせている。けれども彼はそれに慣れきっているようで、痛がるそぶりも見せなかった。まるで機械製の棒人形を作って、そこに人間の顔を雑にくっつけたかのようだ。

 異様な機械人間は言う。

「伝説の人よ。どうか我々をお助けください」

 こちらへ駆け寄ってきながら、体をキイキイ、ギシギシ軋ませて必死にまくしたてる。

「我々はしいたげられています。搾取されています。以前はこんなではなかった。王と女王がこの世界を調和させていた頃は……」

 すがりつくように手が伸びてくる。広げられた指は親指と人差し指がスパナ、中指がプラスドライバー、薬指がレンチ……と工具と指を兼ねている。錆びて無機物的なそれが、感情的に曲げ伸ばしされるさまは異様だった。

「今はひどい有様です。妻と子どもたちは病に苦しんでいますが、医者も、健康的な食べ物もありません。わたしたちに回ってくるのは、すべて貴族たちの余り物です。とても充分ではありません。仲間も大勢壊れました。もう、もう限界なのです。どうか我々を――」

「うるさい!」

 男性を上回る怒声を張り上げたのはウエルドだった。男性の伸ばしかけた手は私に触れる前に払われ、後から追ってきた兵士たちによって地面に引き倒される。耳障りな悶絶が円形の部屋に反響し、私は思わず耳を塞ぐ。

 ウエルドは憤怒を隠そうともしない。

「下層市民の分際ぶんざいでここに忍びこんで来ようとは。恥を知れ、身の程をわきまえろ!」

「も、申し訳ございません軍人様。しかし伝説の人がいらしたのを見つけ追いかけてきたのですどうしても窮状をお伝えしなければと……」

「黙れと言っている!」

 私は男性がひどく早口であることに気づいた。一息のうちに言いたいことをすべて言い切ってしまおうとしている。あ、この人もだ――私は思った。自分の話したいことは一息のうちに話し切ってしまう。誰かに遮られる前に。無駄に話してないでと言われる前に。この人は「効率的」な生産ラインの中で抑圧されているんだ。

 ウエルドの激昂げきこうは続いている。

「お前のような虫けらの意見などゴミ以下だ。そもそも貴様、先ほど医療や食糧配給を批判したな。総統の方針を批判したな! 許されぬ行いだ。これ以上、何が必要だというのだ? 市民はみな平等だ。すべての必要性は配給で満たされているだろう。その上ありがたいことに、エンジニアが体を調整してさえいるはずだ。それの何が不満だというのか? 貴様は求め過ぎだ。自分がそれほど重要な人間だとでも思ったか、貴様の代わりはいくらでもいる。己がこの世界の一部品に過ぎぬ、取るに足りない存在であることを心に刻め」

 男性はもう何も言わない。引き倒された姿勢のまま、ただ俯(うつむ)いて震えている。灰色の床に涙の雫が増えていく。それを見た私も震えを抑えられなくなる。

 痛い。自分の価値を否定する言葉が痛い。私はここにいちゃいけないの? 代わりの人がいるっていうなら、その人にやらせてよ。私をここから解放してよ――。

 ウエルドは命令を下した。

「上級市民の権限において、貴様の勤務先変更を命じる。お前は今この瞬間から、『製鉄所』で働くのだ。お前たち、連れて行ってやれ」

「は」

「せ……製鉄所?」

 男性が呆然と顔を上げる。両脇を兵士が抱え上げて立たせ、そのまま私たちとは反対方向に歩きだした。

 ウエルドはもうそちらを見もしない。

「さあ、参りましょう」

 私に対するための、切り替わった、礼儀正しい話し方。壁際のエレベーターを呼び、私のために扉を押さえている。でも。私はついていくのをためらった。

 部屋に男性の絶叫が響いている。

「お願いします! どうか、どうか『製鉄所』だけは! あそこだけはやめてください! わたしには家族があるのです! 私が働かなければ、世話しなければ死んでしまう! お願いですから彼らのところへ寄らせてください! 帰らせてください!」

 こわごわ振り返ろうとする。「どうなさったのですか」すかさずウエルドが私の注意を引いた。

「彼は『製鉄所』で働くことになったのですよ。より優れた部品となって、より社会の役に立てるよう造りかえられる場所です。さ、早くお乗りください。総統がお待ちです」

 言葉に力がこもる。バンプールへ行こうと言った時と同じ。私が速やかに指示に従うことを期待している口調。乱暴に引き倒された男性の姿と、ウエルドの激情が脳裏を掠(かす)める。従わなかったら、私もああやって自由を奪われるのだろうか……。

気づけば自発的な意思はしなびて力を失い、期待に反した行動を取ること自体がとても信じられないものに思えはじめた。私の両足はウエルドの期待に沿い、前へ動き出している。

 車一台がまるまる乗りそうな、広いエレベーターに乗りこんだ。庫内が急に都会的なことに気づいて驚かされる。

 光天井が清潔な庫内を照らしている。床は一点の汚れもない白い大理石調で、腰の高さにつけられた手すりは綺麗な銀色をしていた。

「一階、庭園でございます」

 微かな浮遊感が、およそ一階分つづく。エレベーターの自動音声が告げて扉が開いたとき、私は目の前に広がった光景に思わず感嘆の息をついていた。

 一階は遥か上の方まで吹き抜けになっていて、回廊状にぐるりと続く上階には規則正しく優美なアーチ形の窓が設置されていた。窓の外は排煙に閉ざされて何も見えないはずが、緑にあふれた森の風景が映し出され、まるでジャングルの只中にいるような気にさせられる。

 窓の景色との一体感を演出するかのように、「庭園」と呼ばれた室内も植物にあふれていた。真っ白で潔癖な床は波型の花壇でゆるやかに区画され、葉を茂らせた木々が視界を遮り、この庭園を迷路のように感じさせる。ウエルドに続いて曲がりくねった道を進むあいだ、そこここに置かれたベンチでくつろぐ貴族たちの姿を垣間見ることができた。

 失礼かもしれないと思いつつも、彼らをじっと見つめずにはいられない。幸い、彼らは自分たちのことに夢中で、歩いていく私とウエルドに気づく人は誰もいなかった。見たところ彼らは普通の人間にしか見えないけれど……。ウエルドの話によれば、みんな彼と同じように中身は精巧な機械だという。彼らの着る服はどれも個性的で、派手な色彩の洪水はまるで悪趣味なファッションショーのようだった。裾に向かって逆三角形にすぼまった形のスカートや、不思議な球体を組み合わせた高さのある帽子、革製の飾りカフスがついたジャケットに歪なシルクハット……。誰ともお揃いになりそうもない衣服に身を包んで、上品そうにおしゃべりを楽しんでいる。この優雅な空間と排煙まみれの工場街が同居していようとは、にわかには信じられない。

 異様なのは貴族たちばかりではない。庭園に育つ植物たちを見るうちに、私は奇妙な不快感を覚えた。歩いていくうちにその正体に気づいていく。木々の枝ぶりや花のつき方、花びらの色合いなどが驚くほどに画一的なのだ。

 聞かずにはいられなかった。

「ウエルドさん」

「何でしょう」

「ここの気とか花って……。もしかして、造花なんですか?」

「造花……。嗚呼、人が造る、偽物の植物のことですね。いいえ、ここに生息する草花はすべて紛れもない本物ですよ。ただし大きく生長しすぎないよう、厳重に管理されています。伸びすぎると手入れに手間ばかりかかってしまいますからね」

「手入れ」

「遺伝子に生長状態をプログラムしてしまうのです。植物は種子の時点で、どのように育つのか定められています――樹高、草丈、つける花の数に至るまで。知られている病気すべてへの耐性は必須です。また任意に設定した大きさに達したら、それ以上は生長しないよう設定もされています。手つかずの、美しい自然。素晴らしい光景ではありませんか」

 話しているうちに、遊歩道の先にさっきとは別のエレベーターが現れる。見上げるとここは庭園の中心であることが分かった。ガラス張りのエレベーターが五台、貴族たちを運んで上下している。

 ついにそのうちの一台が滑るように下りてきて、私たちを招き入れる。同時に別の男性も一人乗り込んできた。男性の大きな太鼓腹で、庫内はあっという間にいっぱいになってしまう。ウエルドが上階のボタンを押す一方で、男性は真ん中くらいの階で下りるらしい。エレベーターが音もなく上昇を始めると、二人はおしゃべりを始めた。

「やあ、ウエルド君。今日も幸せですかな」

「ええ、シュレンドルフ様も」

 独特の挨拶。シュレンドルフ氏は頭の上に載せたシルクハットを軽く持ち上げて会釈する。シュレンドルフ氏が頭を動かすたび、帽子についた歯車の機構がチリチリ音を立てて動いた。彼の全身から微かな機械の駆動音がするけれど、それを除けば見た目や快活な話し方も含めて生身の人と変わらない。ウエルドの淡々とした話し方は機械だからではなく、どうやらただの癖のようだ。

 シュレンドルフ氏のおしゃべりは続く。

「こんなところで会うとは珍しい。何か任務でもおありかな?」

「ええ、客人を総統のもとへご案内するところなのです。非常な力をお持ちの方ですから、きっと我々を勝利に導いて下さるでしょう」

「それは頼もしい! もう戦争にはうんざりですからな」

「戦争?」

 思わず口を挟む。シュレンドルフ氏は私を物珍しそうにじろじろ眺めた。

「世情(せじょう)に疎(うと)いお客人のようだ……。それに、可哀想に! こんなにみすぼらしい服を着て。

良いですか、お嬢さん。我々はあのむべき共生派と、この百年間に渡って戦争をしているのです。常に我々が優勢ではあるのですが……。しぶとい奴らはまだなんとか持ちこたえていると見えます。戦争が長引くと我々にも損害が生じるのでまったく困っているのですよ。奴らは森の資源を独占し、我々の発展を妨げているのです。おかげで代用品で我慢しなければならないものがたくさんあるのですよ。もっと資源があれば……。新しい服も、靴も、毎日の夕食さえも、もっと豪華になるでしょうに!」

 シュレンドルフ氏が現状を嘆く態度に嘘いつわりは無いように見えたけれど、私にとっては的外れな心配に思えてならなかった。

「失礼かもしれませんが、そんなに大騒ぎする必要のあることなんでしょうか。あなたはもう充分、必要なものを持っているように見えるんですけれど。もっと差し迫った困窮にあえいでいる人たちが、工場街にたくさんいました。資源が増えたら、まずは彼らを助けるべきだと思うんです」

「工場街? 一体それはどこのことですか」

「えっ……?」

 本気で驚いた声を出されて、私の方が面食らう。

「知らないんですか。この王宮の外には茶色い煙にまみれた工場がたくさん建っていて……」

 視界を塞ぐ排煙、こことは比べものにならないくらい雑な体を与えられた「下層市民」たち、よりかかるように建つ、家とも呼べない寝床のことを伝えるのに、話せば話すほどシュレンドルフ氏は怪訝けげんな顔になっていく。

「……良く分かりませんな」

 ついにシュレンドルフ氏は言った。

「貴女はさっきから一体なんの話をしているのですか? 我々は卑(いや)しい共生派とは違って、自由で平等な社会に生きています。王宮に暮らす市民たちをご覧なさい! それに、王宮の外は、見ての通り自然の宝庫なんですよ? 工場も排煙もまったく見えないじゃありませんか」

「確かにこの窓からは見えませんが、本当に」

「おや、下りる階に着いたようだ。それでは、幸(さち)多からんことを」

 シュレンドルフ氏は私の話に本当の意味では興味を持っていなかった。扉が開くなり下りていって、もう振り返らない。

 エレベーターは押し黙った私とウエルドを乗せて、再び上昇を始めた。

 

 

*

 

 

「際どい話題をお出しになりましたね。もし貴女がバンプール市民のひとりだったなら、わたしは貴女を連行せねばならぬところでした」

 しばしの沈黙の後、ウエルドがぽつりとそう言う。彼を見上げた私の顔は、きっと当惑していただろう。

「いえ、わたしの事前の説明も足りませんでしたが。まさかこのように他の方に話を持ち掛けるなどとは思いもよりませんでしたので。我々の社会は平等であることを大切にしています。等しい食事、等しい仕事。同時に、我々の社会には越えることのできない階級があるのです。下層市民は王宮の内部を永遠に見ることはないでしょうし、ここに暮らす貴族たちは下層市民たちの存在を永遠に知らない。それが正しい在り方なのです。美しくないものは、人々に知れ渡らなくてよろしい。ですから下層市民たちの存在は、厳重に隠されているのです。貴族たちが工場のことを理解できないのも無理はありません。彼らは大自然の只中に建つ、美しい、この楽園の中で楽しんでいるのですから」

「それは。嘘をついて、貴族たちを騙していることにはならないんですか?」

「そもそもこれは彼らの望んだことなのです。一切の悲しみや不安から解放され、楽園で美しく暮らしたいという願望を、総統が汲(く)んで叶えてくださっている。望みが実現した世界に住んでいるのですから、欺瞞(ぎまん)よりむしろ感謝がふさわしいかと」

「貴方はなんとも思わないんですか。貴方は工場街のことも、王宮の中も知っているのに」

 私の声は刺々しかったと思う。けれどウエルドの「さあ?」という返事はそれ以上に、すべての感情を通り越して無味乾燥としていた。

「わたしに独自の意見はありません。わたしは上層市民ですが、貴族よりは下位の軍人ですから。自分の考えを発達させるよりも、命令に従い的確に行動することの方が重要なのです。それに、総統は常に正しい。ならば総統のお考えに沿っていることが、最も効率的に正しさを選択できる手段だとは思いませんか」

「……」

 とっさに言葉が出ない。ウエルドは同意を求めていた。それは分かる。私もそう思いますと、そう言えば良いだけなのだ。思考を放棄し、効率的な方を選んだ方が良いのだと。

けれど口が思う通りに動かず、気まずい沈黙だけが過ぎていく。いよいよ答えるタイミングを逸してしまった。

 期待を察しているのに、動けない。自分に困惑する。

 そのうちにエレベーターが速度を落とし、音もなく扉が開いた。

 先のホールで誰かが私たちを待っている。その人物に気づいた途端、ウエルドはすみやかに片膝をついてこうべを垂れた。

「総統。お待たせいたしました。伝説の人をお連れいたしました」

「ご苦労様」

 答えた声はまだ幼い。私は総統と呼ばれた人を驚きをもって見つめた。

まだ十二歳くらいに見える男の子だ。声変わりの始まっていない声はまだ可愛らしさが残るが、対する見た目はあまりに毒々しい。濃い紫色の髪と真紅の目、血の気のない色白の顔は生まれつきのものなのだろうか。見るからに上等な素材が使われた深緑色のジャケットと紺色こんいろの半ズボン、磨かれた黒い革靴が目を引いた。

「待ってたよ、スズネ。ぼくはフィーリオス。このバンプール、そしてディーバを支配する者だ」

 男の子と目が合う。にこりと愛想の良い笑顔を向けられたにも関わらず、私は微かに身構えた自分に気づいた。彼の異様な見た目のせいか……何かが私に違和感と警戒心を抱かせた。

 それに、まだ信じ切れていなかったのかもしれない。こんなに若い、いや幼い子どもが「総統」と呼ばれ、このいびつな社会をべていることを。

思った瞬間、フィーリオスの笑みは冷えた眼差しにとって代わる。それが私をますます委縮させた。

フィーリオスはき出しの不快を隠そうともしない。

「見た目ですべてを決めつけない方が良いよ、スズネ。そういう考え方は嫌いだ。子どもだから、年下だから何も分からないだろうってね。外面がいめんばかり見ていると足元をすくわれるよ」

 明確に話す物言いは確かに大人びている。実際に、フィーリオスはただの無邪気な子どもではないのだろう。今の言葉と威圧で十分にそれが理解できた。怖い。鋭い眼差しから逃れたい。

「ご……ごめんなさい」

固まった顎が上手く動かず、簡単な謝罪の言葉にさえ口ごもる。フィーリオスはそれでも満足してくれたようだった。

「分かったなら良いよ。さあ早く行こう。大事な話をしないといけないんだから」

 そう言ってせっつくように私を手招き、私は言われた通りにエレベーターを下りる。ウエルドはエレベーターの中で一礼し、そのまま扉が閉まってしまう。廊下には私とフィーリオスの二人きりが残された。

「落ち着いて話ができる場所に行こう。ついてきて」

 ホールの角を曲がり、絨毯(じゅうたん)が敷かれた細長い廊下に出る。その瞬間、私は思わず呻いて足を止めた。

 そこは剥製の森だった。左右の壁を埋め尽くすように、ありとあらゆる動物の剥製が飾られている。黄ばんだ歯をむき出す巨大な熊から、哀れな目をしたウサギに至るまで。

「剥製にされるのは嫌だしね」とこぼした、テンの言葉が脳裏をよぎった。

「この剥製たち。見事だろう」

 フィーリオスは誇らしげに、手近なキジの羽根を撫でる。私が感動して立ち止まったように見えているのだろうか。

「みんな専門の職人に作らせてるんだ。動物は貴重品だからね。なかなか手に入らない。だから偶然にでも捕まった時は、大切に大切に飾ってあげるんだ。ほら、こうすれば死んで腐ることもないだろう?」

 剥製たちはすでに死んでいるのに、こうして飾ることを善と信じきって疑わない。フィーリオスは剥製が動物の亡骸だということを知らないのだろうか。それとも知った上で話している? どちらにしろ、無邪気に見える姿が恐ろしい。

一度進みはじめた想像は広がって、再びテンのことに思いを馳せてしまう。もしもあの時の銃弾が当たっていたら、テンもこの異常なコレクションに加えられていたかもしれないのだ。飾られたテンを見つけたとしたら、私は冷静でいられる自信がない。死んだ目の中に銃撃の痛みを、捕らわれる恐怖を読み取って、ひどく取り乱してしまうだろう――今だってそうだった。

 虚空に縫い留められた無数の目は、死に際の恐怖を延々と貼りつけたままでいる。彼ら一匹一匹の最期を果てしなく想像し、耐えきれない苦しみを自分のもののように感じてしまう。体は自然の何気ないひとコマを切り取ったように固定されているのに、立ち上がった、翼を広げかけた体と生気のない目が対照をなして、外部から都合良く付与された「生命感」を強調させる。生死の法則を捻じ曲げて遊んでいるような、おぞましい価値観の押しつけに腕が寒くなった。

「ほら、行こう」

 フィーリオスの声で我に返る。見ればフィーリオスは数メートル進んだところで私を待っていた。一通り自慢を並べて満足したのだろう、もう剥製について話すことはないとでも言うように、これ以上彼らを見ずに通り過ぎる。私は恐る恐る小さな背中を追った。

 剥製の廊下を抜けて角を曲がると、そこは窓に面した通路だ。右手にはアーチ形の窓が規則正しく並び、左手には重々しい扉がいくつか並んでいる。ここは相当高い場所のようで、排煙は足元に絨毯のように広がり、邪魔されない青空と太陽がどこまでも見渡せた。

「ここへどうぞ」

 フィーリオスが扉のひとつを開け、入るよう手で示す。私はこわごわと中に足を踏み入れた。

 どうやらフィーリオスの執務室らしい。左右の壁には造りつけの本棚が並び、奥にはどっしりした机と、柔らかそうな革張りの椅子が置いてある。手前には応接セットがしつらえられており、私は勧められるままこの革張りのソファに腰を下ろした。

 さっきの剥製だらけの廊下に比べると、ここはクラシカルな普通の部屋に見える。けれどそれはぱっと見の話だ。ソファに落ち着いてからよく見ると、ここにも異様なものが溢れていた。本に混ざって棚に並ぶ、何かが緑色の液体につけられた瓶詰めだとか、天井からつるされた得体の知れない生き物の骨格標本だとか、用途不明なガラス器具とか。

「大変だったでしょ、急によく分からないところに連れてこられて」

 私がそれらを不気味に眺めていると、向かいのソファにフィーリオスが腰を下ろした。

左手に二客のゴブレット、右手に異様な瓶を一本持っている。フィーリオスはそこから透明に近い液体をゴブレットに注ぎ、うち一客を私の方に寄越した。辺りに刺すようなアルコールの臭いが漂う。異様な瓶には生き物だった何かが漬け込まれているようだけれど、その正体について考えるのはあまりにおぞましい気がしたので、私はあまりそちらを見なかった。

 フィーリオスは話し続けている。

「君の気持ちは理解しているつもりだよ。見慣れない場所、見慣れない人々。道中、驚くことも多かったんじゃないかい?」

「ええ……。そう、だね」

 ぎこちない相槌を打つ間に、フィーリオスはゴブレットの中身に口をつける。私は思わずその動作を凝視してしまった。

 明らかに未成年。それに……。

「これかい?」

 ゴブレットを軽く振って見せる。

「度数は高いが、良いお酒だよ。少量飲むだけでも健康に良い作用がある。胎児は貴重だからね」

 嗚呼、やっぱりそうなんだ。私は後ろに倒れそうになるのをなんとかこらえた。できるだけ瓶を視界の端に追いやり、ゴブレットの中身には絶対口をつけないと固く誓う。

 フィーリオスはゴブレットを置き、「それで」と細長い指を組んだ。

「君にここへ来てもらったのは他でもない。あるお願いを聞いて欲しいからなんだ。

 今このディーバでは、ぼくたち管理派と忌まわしい共生派が長期の戦争状態にある。戦況は悪くないが、ぼくたちには重要で決定的なものが欠けていた。決着がつかないのはそのせいなんだ。つまりは伝説の人の存在――君だよ、スズネ」

 不敵な笑みを浮かべる。

「そうは言っても、君に戦ってほしいわけじゃない。そんな危険なことはしなくていい。君にお願いしたいのは、もっと簡単で強力なこと――ぼくたち管理派のために、勝利宣言をして欲しいんだ。

予祝よしゅく』という言葉を知っているかな。これから起こって欲しいことがすでに実現したと見なして、前もって祝ってしまうことさ。伝説の人の放つ言葉には、現実を動かす強い力がある。その力を、ぼくたちの勝利のために使って欲しいんだよ」

 フィーリオスの話を聞くかたわら、私は考えていた。

 成り行きでここまで連れてこられてしまったけれど、そもそも私を呼んだのはクーガだ。

 クーガはなぜ私を呼んだのだろう。フィーリオスと同じように、私にして欲しいことがあったから? クーガは共生派の人間だというから、反対に共生派の勝利宣言を望んだのだろうか……。そもそも分からないことだらけだ。私はディーバの人間でもないというのに、どちらかの勝利を決められるものなのか。私は本当に伝説の人なのか。

 言い出すのには並々ならぬ勇気が必要だけれど、今ここで言っておかなければ取り返しがつかなくなる気がする。

拳を握った。

「あの、そのことで……。私はただの人違いじゃないかと思っているんだけど。確かに私はスズネだけど、私が伝説の人だなんて信じられない。光を掲げるとかもよく分からないし……同姓同名の別人じゃないのかなって」

「そんなことはあり得ない。伝説の人は間違いなく君だよ」

 フィーリオスはなぜか強い確信を持って言う。

「君以外であるはずがない。なぜならここは……。おっと。まだ言うべきではないね」

 意味ありげに微笑む。「それよりも」と指を振った。

「ヴィジョンの話をしよう。百年前、大陸全土の人間が視たという共通の幻視さ」

 空中で、背表紙に指をひっかけて本を抜き出すような仕草をする。するとフィーリオスの背後で、驚くべきことが起きた。

本棚から本当に一冊の本が抜き出されたのだ。近くに人がいるわけではないし、フィーリオスは私の向かいに座ったまま。本棚の方を見もしない。

 本は表紙を上にして浮かび、滑るように近づいてくる。フィーリオスの手の動きに合わせて高度を下げ、コーヒーテーブルの上に着地した。私は身を乗り出して、本の表紙をのぞきこんだ。

題名らしいものも、作者の名前も書かれていない。それどころかかなり古びた風情ふぜいの本だ。

 私が驚いているのを見て、フィーリオスは得意げになった。

「ディーバには強い魔力を持つ人々がいるのさ。ぼくはこの力を人々に分け与え、みんなの命を永らえさせている。機械の体と人間の頭が共存するって、可能だと思うかい? 彼らの体は魔法を触媒にして動いているんだ。彼らが永遠に近い命を謳歌しているのは、ひとえにぼくのお陰なんだよ」

 言いながら手の平を本にかざし、左から右へ水平に動かす。表紙が手を触れずに開き、ページがものすごい勢いでられていった。

「あの、この本は?」

「ぼくが調べさせた伝承、ヴィジョン、記憶。そういうものを書き溜めた調査資料さ。

調査の結果、『ヴィジョン』と呼ばれている鮮明なイメージによる未来予知が存在することが判明した。これは眠っている時に見る夢や、思い込みによる幻覚とはまた違う。ヴィジョンは目が覚めている時にも視(み)えるんだ。

 ヴィジョンは象徴的な映像やイメージで、これから起こることを前もって知らせる。もっと明確な形をとることもあるけどね。仮に、視(み)た直後には意味が分からなくても、後から振り返れば辻褄つじつまが合うものなのさ。

 普通、人の視るヴィジョンはばらばらだ。同じ出来事を示唆しさするヴィジョンも、人によって見え方が大きく変わる。でも今から百年前、この大陸にいる全員が同じヴィジョンを視(み)た。その内容を調べたんだ」

 高速でめくられたページはいつの間にか止まっていた。開かれたページには、びっしりと小さい文字で何かが書きつけられている。私は勧(すす)められるまま本を手に取り、顔を近づけてよくよく読んだ。

 

ヴィジョンに関する最終調査結果のご報告

 

 総統より仰(おお)せつかり、百年前の大規模なヴィジョンに関する調査を実施。これはその最終結果を総統にご報告つかまつる物である。

 

 調査対象者   :バンプール市民

          捕獲した共生派十数名

          総統親衛隊

 

「捕獲した共生派十数名」の文言もんごんを読んで、私は恐ろしいことを想像しそうになった。どうか、彼らが無事に森に戻っていますように。

 

 最終調査結果

 全員が視たヴィジョンは、状況、出来事を含め、完全に一致しており、ただ一つの未来を予知していることはもはや否定できない。これは特異な例である。

 そしてヴィジョンの内容も特異であった――。

 

 ヴィジョンの内容に目を通そうとする。文字を目で追いはじめた時、急に私の脳裏に先の見えない暗闇が浮かんだ。

 

 

*

 

 

 執務室に座っている、体の感覚が薄れて消失する。

 暗い。見下ろした自分の手も見えない。肩がぶつかる感覚があって、私は急に自分が人混みの只中(ただなか)に立っていることに気づいた。

 暗がりの向こうから、低い風の音が聞こえてくる。いや、よく聞けば風ではない。大勢の呻き声だ。

 声のうねりに圧倒される。渡ってきた声は私にぶつかった途端に弾けて、ひとつひとつの聞き取れる言葉になった。

「助けてくれ!」

「頼む! 助けてくれ!」

 すがりつくような声色が、彼らの窮状を伝えて余りある。声に刻まれた痛みと苦しみが、直接的な感情として流れこんでくる。

痛い。苦しい。怖い。体が縮こまるような恐怖。先の見えないまま続く痛み。観念的なそれらが思考を押し流し、冷静さを奪い去ろうとしている。

 人波が流動する。自分の意志で動き回ることなど到底できない。人が向かう方に流され、無数の手が救いを求めて宙を彷徨う。

 うねりの色が変わった。

 懇願が悲しみに、そして怒りに、憎しみに変わる。暗い声の波が再び私に押し寄せる。憎悪で息が詰まる。苦しい。流れこんだ感情が私自身を変質させようとする。誰かを憎まなければならないような――誰でも良い。とにかく誰かを憎んで、この怒りを押しつけなければ逃れられないような。

 泣き叫ぶ子どもの声。はっとしてそちらに目をやるも、子どもの姿は人波の向こうに押し流されて見えないまま遠ざかってしまった。近くで人が倒れる気配がする。誰かが馬乗りになって、誰かを殴りつけている。人の形は見えるのに、相手の顔だけが分からない。いや、顔なんて、相手が何者かなんて分からなくていい。他人はすべて憎むべき相手なのだから。

爆発した怒りが周囲に伝わり、終わらない憎しみの連鎖。

 でも、心の根底ではみんな同じだ。

 自分でもなぜこんなことをしているのか分からない。

 これは本当の自分じゃない。

 もとに戻りたい!

 助けて!

 強い光が暗闇を切り裂いた。

 私たちを覆う暗い空気が払われる。頭上に光が差しこんで私たちを照らした。光に目を細めた時、私たちの目を曇らせていた何かが拭い去られる。光が差してくる方を見つめた。

 すぐ近くで、隣の人と抱き合う男の人。別の場所では人波を分けて、母親らしい人と子どもが泣いて再会を喜んでいる。すぐ近くにいたのにそれと分からなかった親しい人たちが、抱き合い、肩を支え合いながら喜びの涙を流している。

 光が完全に暗闇を打ち払う。その瞬間、私は見た。

 誰かが光の灯を頭上にかかげている。その光があまりにまぶしいせいで、その人はシルエットのようにしか見えない。周りの人たちも、徐々(じょじょ)に光を掲げる人の存在に気がついていった。

 尊敬を込めて手が掲げられる。みんなが漂ってくる光の波に触れ、光の再来を祝福していた。

 また遠くから声の波が起こって近づいてくる。みんなが声高に叫ぶ名前はひとつだった――。

 

 

*

 

 

「スズネ」

 フィーリオスの声に驚かされて、本を取り落としそうになる。急に意識を引き戻されたせいで、自分がどこにいるか思い出すまで少しかかった。

「今のは……」

 じわじわと体の感覚を取り戻す。ソファに身を沈める感覚。両手に持った本のざらついた紙。執務室の怪しげな景色。私は間違いなく、ずっとこのソファに座り続けていたはずなのに、今の、あまりにも鮮明なイメージをどう理解すれば良いのだろう。これが『ヴィジョン』と呼ばれるものなのだろうか。

暗い、怖い。あの皮膚が縮み上がる感覚が濃く残る。それに、みんなが呼んだ名前。確かにスズネだった。それは否定のしようがない。

 伝説の人。他の誰でもない、みんなが意味するのはたった一人の「スズネ」という人なんだ。

 そこまで確信してしまった時、唐突に私は悟る。

 私の自覚のあるなしじゃない。

 私は伝説の人という役割を背負うことが求められているんだ。

 フィーリオスが興奮気味に身を乗り出した。

「ね! 自分のことを言ってる、という感じがしないかい? 直感や第六感と呼ばれるものも、重要で的を射た感覚なんだよ。伝説の人は紛れもなく君だ。そしてこのヴィジョンで言及される『光を掲げること』はつまり、戦争の終結だ。みんなが仲直りして、手を取り合うこと。つまりぼくたちの勝利なんだ。真の融和は、共生派なんかには絶対に実現できないよ。ヴィジョンの内容を叶えるのはきっとぼくたちだ。そしてこれを実現するためには、君の勝利宣言がどうしても必要なんだよ」

 小さな手が差し出される。

「さあ。合意の握手をしよう。君のたった一言で、この長かった戦争が終わるんだ。互いに憎しみ合う時代は終わるんだ。君だって、あの憎しみの中にいるのは辛かったろう? 君の決意ひとつであそこから脱出できるのだとしたら、素晴らしいことじゃないかい? どうかぼくたちの上に平和をもたらしてくれ。やってくれるでしょう?」

「私は……」

 ないまぜの感情が渦を巻く。すぐには言葉が出ない。

 なぜだろう。フィーリオスの手に視線が吸い寄せられる。逸らせなくなる。まるで磁力でも働いているみたいに。この手を取ることが、フィーリオスが私に寄せる期待に応えることが、とても重要なことに思えてくる。

 でも。

「でも私、クーガに会いに行かないと……」

 こわばる口を動かして、視線の呪縛から逃れようと試みる。精一杯の抵抗。私は期待に応える必要性を強いられながら、それに抗おうとしている。クーガに会わなくちゃ。それを自分のやるべきこととしてしがみついて、結論を出す瞬間を先延ばしにしようと苦闘している。

 管理派の社会は嫌というほど見た。でも共生派のことを、私はほとんど何も知らない。最初に私を導こうとしてくれたテンを、共生派を、大して知らないまま結論を出して本当に良いの? 片方だけの主張を鵜呑みにして正邪を判断するのは、偏った見方だと思う。だから。

 フィーリオスは鼻を鳴らした。

「クーガ? あんな意気地なしなんて会う価値もないよ。あいつは何も分かっていない。バランスを欠いた人間だ。今まで一度だってぼくを本当に理解してくれたことなんてなかった。分かったふりだけ上手いんだ。

 でも君は違うだろう、スズネ。だって君はここまで来てくれた。やっと君はぼくを見てくれる。愛してくれるからだよね。さあ早くこの手を取って。君から握ってくれなければ駄目なんだ。そうすればもう離れなくて良い。ずっと一緒にいられるんだよ。

 全部上手くいく。他のことは何も心配しなくて良いんだから。さあ、手を早く。全部上手くいくんだから」

 焦れたように手を振っている。早く。早く手を。私は無言の呼びかけに誘われるように手を伸ばしはじめていた。私は期待されている。あの手を取ることを求められている。それならば応えなきゃ。フィーリオスの頼みを聞いて、管理派の勝利を約束しなければ……。

 でも、待って。理性の隅で小さな声がささやく。この手を取ることは、そんなに重要? 決断を下す前に、手を取った後どうなるか考えてみて。

 それで私は考えた。百年に渡るという戦争が、管理派の勝利によって終わるとしたら。

  ヴィジョンにも似た、鮮明な未来予想が意識を駆け抜ける。まるで未来を先がけて体験しているように。いや、もし私が今差し出された手を握ったら、私の想像することそのものが実現してしまうことを、私は意識のどこかで知っている。

機械の兵士たちが大挙して森になだれこむ。森は隅々まで制圧され、見つかった動物たちは捕えられてしまう。共生派の人たちはバンプールへ連行され、「作り替えられる」――より効率的に働ける、無数の鉄骨が組み上げられた無機質な体へと。

 そして工場が増え始める。比例して森は減っていく。無限に広がる乾ききった大地。荒野は規則正しく並ぶ工場によって埋め尽くされ、中では希望を失った顔の人々が、体と心を病みながらこき使われ続けるだろう。エンジニアと呼ばれる存在が、機械のメンテナンスはしてくれる。それで事足りると見なされる。一方、王宮の中はますます豊かになり、貴族たちは何も知らずに、窓に投影された偽りの大自然を信じて生きつづける……。

 手が止まった。

 駄目だ、悪い可能性しか考えられない。実現してほしくないことばかりが。

「スズネ?」

 フィーリオスが首を傾げる。あと数センチ手を伸ばせば、握手が成立する距離だった。

「どうしたんだよ。早く。心変わりしないうちに。さあ、手を握って。君でなければ駄目なんだ。君だからこそ頼むんだよ。期待をかけられるのは名誉なことだ、そうだろう? 君の力を買って頼んでいるんだよ。だから、ねぇ、握手をして」

 絶え間ない催促が未来の可能性に割りこんで気を散らす。そうだ、そうだ。握手を早く。これは私の勝手な想像に過ぎなくて、実現しない夢物語かもしれないじゃないか。私の想像力なんてあてにならない。あれこれ考える前に、手を動かさないと。目の前の期待に応えるよう努力しないと。自分の頭で考えるなんて時間の無駄だ。私は期待に応えなくちゃいけないのに……。

 違う。私は今想像したことが、実現してしまう未来だと分かっている。だから防ぎたい。この手を取っちゃ駄目なんだよ。

 あまりフィーリオスを待たせない方が良い。手を取ってしまえば全部終わるのに、何を迷うことがあるの? ディーバなんて見知らぬ世界、どうなっても構わないのに……。

 どこまでがフィーリオスの催促で、どこから自分の考えなのか分からない。すべてが一緒くたになって押し寄せて、波打つように理解の段階を行き来して私を圧倒する。何を基準に次の行動を決めれば良いのか分からなくなる。決め切れない。その勇気がない。伸ばしかけた指先が震える。

決めなくちゃ。手を取らなくちゃ。

 まだ納得できてもいないのに。

 フィーリオスが猫なで声を出した。

「何を迷っているんだい? 期待に応えるのは正しいことだよ、スズネ。迷う君は道を踏み外そうとしてる。それは正しくないことだ。間違うことは、失敗するのはいけないことだ。よく分かっているでしょ?」

 頭がぼうっとしてきた。思考が回りすぎて、私を責め立てる声がどんどん大きくなってくる。自分で考えるなんて意味のないことだ。期待に応えるべきことは明らかなのに、何をこんなに迷っているんだろう。自分で考えさえしなければ、平和なままだったかもしれないのに……。

 指先が痺れてくる。頭も痺れて鈍っていく。握ってしまえば楽になる。もう少し手を伸ばせば。「分かりました」と言ってしまえば――。

 鋭い音が空を切った。

目の前を矢が通り過ぎ、吹きつけた風に押されるようにソファに倒れる。

 空気が膨らんではじけたみたいだった。頭を占めていた叱責が霧散して、気のせいか部屋の景色が明るく変わったようにさえ見える。

「詐欺まがいの説得はそこまでにしろ」

 男の人の声がフィーリオスを牽制けんせいした。

 声のした方を見やる。

 執務室のドアが開いていて、二十代前半くらいに見える男の人が立っていた。背が高くがっしりした体格。明るい茶色の髪と目が印象的だ。ルーズなシルエットの上下に、ビーズでできた飾りベルトを締めた物珍しい格好をしている。背中に矢筒やづつを背負い、手には短弓が握られていた。

 反対の壁に目を転じれば、本棚の棚板に太く短い矢が刺さって微かに揺れている。さっき空気を裂いたのはこれだったのか。

 思い出したように肩の力が抜ける。立ち尽くしたままのフィーリオスと、男の人を交互に見つめる。

 私は今、何をしようとしていた……?

「スズネから離れて、そこへ座れ」

 男の人は新たな矢を構え、フィーリオスを狙う。手短な指示には有無を言わさぬ響きがあった。

 フィーリオスはひるまない。

「フン。このぼくに命令しようというのかい? そんな脅しじゃ怖くも……」

 言葉は最後まで出なかった。

 執務室に飛び込んだ新たな人影が、素早くフィーリオスの背後に回りこむ。そしてフィーリオスが気づくよりも早く、その両手首を後ろで縛りあげてしまったのだ。

「なっ……!」

「ごめんね、フィーリオス。でもこれ以上、君の好きにさせておくわけにはいかないんだ」

 フィーリオスの背後に立って、その男の子は申し訳なさそうな声を出す。その柔らかい声色に私ははっとした。

薄茶色の髪と、前髪を透かして見える深い紫色の目。初めて見るはずなのに、私は彼の名前を心の深いところで知っている。

「クーガ」

 呼ばれて男の子は顔を上げる。目と目が合って、私はますます確信を深めた。

 この人がクーガだ。

 私と同い年くらいの男の子。すそのふくらんだ服の上下が、どことなく忍者を思わせる。首元で鷹の羽根のネックレスが揺れた。

「『初めまして』スズネ。ディーバへようこそ」

 柔らかく温かい声。目を細めて笑う。しかし優しい顔は一瞬で引き締まって、視線はフィーリオスに戻された。

「でも、ゆっくり話すのはまた後だ。まずはここを出なきゃならない」

 言う間に服のどこかから新たなロープを取り出し、さらにフィーリオスの束縛を補強する。部屋の真ん中に座らせた上で、両足首も縛って身動きが取れないようにした。

「おい、クーガ。早くしてくれ。兵士に勘付かんづかれてるかもしれないんだぞ」

「分かってるよ、コクア」

 男の人はコクアという名らしい。話している間にロープの端を固く結んだ。

「これでよし、と」

 クーガは手をはたきながら立ち上がる。私はその一部始終を、ソファに座りこんだまま呆然と見つめていた。立ち上がることも、その気力も緊張の中に置き忘れていた。

 フィーリオスの目はクーガへの憎悪に燃えている。

「卑しい共生派め。これで勝った気でいるなら大間違いだぞ。まだ強力な兵士が控(ひか)えている。お前たちを待つのは死だ」

「言ってろよ」

 コクアが挑発的に言い返す。

「スズネ。ここを出よう。ほら、立てるかい?」

 そばに来たクーガが手を差し出して、腰を抜かした私をソファから引き上げてくれた。力強い手は思いのほか熱くて柔らかい。紛れもない、しっかりした感触の手。自分以外の人の手に触れたのがひどく久しぶりでまごついた。

「スズネ」

 ドアに向かう私を追いかけるように、フィーリオスの哀れっぽい声が部屋に響く。

 思わず、足が止まった。

「まさか、ぼくを置いていったりはしないよね? 管理派の勝利宣言をしてくれるって、約束するところだったじゃないか。ぼくを置いて行かないで。管理派を勝たせてよ。さあ、この縄を解いてくれ」

 ぎこちなく振り返る。見下ろしたフィーリオスは見た目の年齢以上に小さくて、細くて、いかにも頼りないように思えた。それとも、そう見せようとしているだけ?

 私には判断がつかない。何かを決めることに疲れていた。

 それに、クーガがいる。私をここに呼んだ人。それなら今、私はクーガに従い、ここを立ち去る方が優先事項ではないだろうか。

「ごめんね、フィーリオス」

 何が間違っているんじゃないか。いや、これで良いはずだ……。逡巡が捨てきれないまま、私はフィーリオスに謝罪する。

「あなたの頼みは聞けないよ。私は管理派の勝利を望まない」

「!」

 フィーリオスの顔が凍りついた。

 毒々しい赤色の瞳が揺れる。きっと私の方も、どうしたら良いか分からない顔をしていたと思う。思ったことをはっきり口にする勇気が、私のどこから湧いてきたのか、自分でも分からない。自分の意見を表明することがあまりに久しぶりで、この後どんな態度を取れば良いか分からなくなっていた。

 もう言うべきことは何もない。ないはずなのに、私たちはまだ言い足りないことがあるように見つめ合っている。

 フィーリオスは血の気の引いた唇を引き結び、赤い目をまつ毛の奥に伏せた。

「……そう。やっぱり君はそうやって、ぼくを置いていくんだね」

「え?」

 ひやり。心に流れこむ冷えた感情が不安を呼び起こす。フィーリオスの言葉には奇妙な深みがこもっていて、今まで何度も裏切られてきたような、一人で抱えるには大きすぎる寂寥(せきりょう)があふれ出て伝わる。

 この感覚が間違いじゃないなら――私は何度も彼を裏切ってきた……? 初めて会ったはずなのに。

「おい、スズネ。早く行こうぜ」

 コクアの声で我に返る。遠ざかりかけていた現状を思い出した。

「あっ……。うん」

 コクアに向き直ったことで、視線の呪縛めいたものが破れる。私は半ばほっとしながらドアへ向かった。

 フィーリオスだけが部屋の中に取り残されていた。

読んでくださりありがとうございます。良い記事だな、役に立ったなと思ったら、ぜひサポートしていただけると喜びます。 いただいたサポートは書き続けていくための軍資金等として大切に使わせていただきます。