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最初はみんな被害者だった

諸犯罪における「加害者」はある程度の範囲で、教育によってつくられるものだと考えている。

子どもを虐待する親の何割かは、生まれた時から「子どもを虐待しよう」と思っていたわけではない。

自分もまた親に虐待されて育ったから、「子どもとは暴力的に接する相手なのだ」と教育されてしまったのではないか。


性犯罪を犯す者の何割かあるいは大多数は、最初から「誰かを傷つけよう/傷つけても良い」と思っていたのではない。

性暴力を容認する雰囲気のあるコンテンツ、人間関係、そして社会によって、己の欲求をどのようにコントロールすべきか、誰を軽々しく扱って良いのかについて教育されてしまったのではないか。


つまり始まりの始まりまでさかのぼれば、人はみんな「被害者」だったのではないか。


では、なぜ加害者が生まれてしまうのだろう。

教育の失敗によって、加害者は生まれる。


人を傷つけた加害者には、刑罰と同時に再教育が必要だと僕は考えている。

何故、それはいけないこととされているのか。

どうすれば良かったのか。

人権という他者尊重の概念まで含まれた、包括的性教育・人権教育まで踏まえて、何度も伝え続ける必要があると思う。

加えて人権感覚が体得できるように、教育を受けている人にも丁寧に接する仕組みが必要だ。

人は「自分は虐げられている」という印象を持ったまま、他者を尊重することはできないから。


再教育と並行して、これから世界を知っていく若い人たちへの人権教育も必要だろう。これは加害者の再生産を大きく減らす効果があるのではないかと思う。


被害者が加害者を怖いと思うこと、二度と顔を合わせたくないと思う感情は妥当なものだ。それだけの傷を受けたのである。


一方で人々が忘れてはならないのは、加害者もまた過去をさかのぼったどこかの時点では「被害者」だったということだ。

被害者が加害者に転じてしまった、越えてしまった一線がどこかにある。

加害者を未知の、恐ろしい存在として隔絶した目で見ることは簡単だが、実はこちらが立つ場所と地続きのところを歩いていってしまっただけでもあるという事実を、忘れてはいけないと思う。


社会が加害者を直視すると責任が生じる。

なぜ、越えてしまったのか?
次に越える人を出さないためには何が必要か?

自分の頭を使って考えていくことは大変だ。面倒臭い。疲れる。

けれども絶対に必要なこと。

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