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蜃気楼的世界観14

 バンプールの町は静まりかえり、荒れ果てていた。

 あちこちに資材と思しきものや何かの部品が散乱し、乾いた風がビニールシートを舞い上げて吹き集める。ちらと覗いた工場の中も雑然としていた。町全体が死んだ抜け殻のようで不気味で、建物の中まで深入りする気にはとてもなれない。

「何が起きたんだ? 一体」

 コクアが眉をひそめる。私は自分の予想を口にしていた。

「多分、急に呼ばれたんじゃないかな」

 浮かんでくる。みんなが立ち去る前の景色。

工員たちは、工場でいつも通りの作業をさせられている。同じころ、王宮では共生派を襲撃する戦略が練られ、一般の工員たちも戦闘要員として動員することが決まる。

 工員たちの体が部品を、工具を突然放り出して、両足が工場の外に向かって歩きはじめる。自分の思いとは違うように動く体を、工員たちはもうあきらめている。どこに向かわされようがどうでもいいと思っている。彼らは荒野を行進していく。機械の兵士たちに付き従うようにして。

 戦いが始まった。共生派の人たちの姿を垣間見て、工員たちはふと周りの様子に興味を持つ。すると、あそこに離れ離れになった家族の、友人の姿。声をかけると向こうも自分に気づいてくれた。変わり果てた自分の姿でも、懐かしい人と再会することができる。束の間の喜び。

 工員たちは親しい人に駆け寄りたいと思う。実際、体はそのように動く。ああ、体も自由になったんだ。駆け寄って、抱きしめたい。鉄骨の両腕を広げる。

 気がつくと、抱きしめたかったはずの相手を殴っている。体と心の分離。機械の体は最後まで工員のものになることはなく、体が目指していたのはただひたすらに共生派を殺すこと。彼らは相反する動きに引き裂かれる。

 今バンプールに散乱する部品や工具は、そうやって工員たちが戦いに駆り出される時に落としたものじゃないだろうか。機械の体には――出陣を決めたのだろうフィーリオスには、もともと彼らを生きて帰すつもりはきっとなかったのだ。

「……ひでえ話だ」

 コクアは鼻にしわを寄せた。

 王宮の正面玄関に続く階段が私たちの前に鎮座している。階段を上りはじめると扉が音を立てて細く開きはじめた。中には黒い闇が充満し、よく見通せない。

 階段を一段上がる。扉がもう少し開く。また一段。

 近づくほどに開かれていく扉の奥から、突如闇色の触手が二本突き出した。

「危ねえ!」

「スズネ!」

 私めがけて伸びてくる触手。鋭くとがった先端が私を貫こうとしている。

 とっさに暁の剣を握りしめた。

 触手が正面に来る。間合いの範囲内。剣を振り下ろす。

 二手に分かれた。

 私の目の前で左右に分かれた触手は、素早くクーガとコクアに巻きついて持ち上げる。

「コクア! クーガ!」

 二人が武器を振るう間もなかった。

 触手は二人を捉えたまま扉の中に引っ込む。後を追うように階段を駆け上がった。

 扉の中は闇で満たされている。一瞬、入ろうとした足が止まった。

この中に影がいるのだ。私を殺そうと待ち構えている。思い出したように恐怖足を這い上る。

けれど、後に引くことの意味はもうなかった。二人を見捨てることも論外だ。私は取り戻すために来たんだから――。

 闇の中に飛びこんだ。

 黒い風がうなりを上げて押し寄せる。体をかがめて、頼りなく手探りで進んだ。耳元でうなる風が変質し、私は風の中に無数の過去を聞く。

「鈴音。良い大学に入って、良い会社に入って、良い人と結婚しなさい。それが幸せになるために必要なことなの」

「あなたのためを思って言っているのよ。全部あなたのため」

「あたしは失敗したの。全部失敗。でも、鈴音はあたしのそばにいてくれるわよね?」

「あの人の話を持ち出さないで!」

「鈴音」

 いつでも刺すように響くお母さんの声。名前を呼ばれると、いつも心のどこかが緊張していた。息を止めていた。今、それを思い出した。

 風の渦を透かして視える。小さい私とお母さん。テストの点数が悪くて怒られているところ。図工で描いた絵よりもテストの結果を気にかけられたところ、習い事がしたいと言い出せなかったところ。

 お母さんが私の両肩をきゅっと握る。

「あたしはあなたに期待しているから言っているのよ。全部あなたのため。あたしは失敗してしまったの。あなたには同じようになってほしくない――」

 足を踏みしめて進むほど、黒い風が強くなる。私をうろたえさせ、膝をつかせて、戦意を奪い去ろうと押し寄せる。気を抜いたら、全部ばらばらになって吹き飛ばされてしまいそう。私は一歩進むごとに、床を踏む足の感触を、剣を握る手を、顔を、体を意識しつづけた。

 風が止んだ。

 美しかった庭園は、今は茶色くしなびている。かつて室内を均一に照らしていた照明は壊れ、回廊の割れた窓ガラスから入ってくる自然光がいくつかの筋を交差させていた。植えられた画一的な植物は立ち枯れて、触れれば砕けそうなほど脆い。

 破壊し尽くされた庭園の真ん中に、フィーリオスは立っていた。

 俯き加減の顔は表情が読み取れない。全身から闇色の気配が溢れだして周囲の生命力を奪っている。触手が荒々しく伸び縮みした。フィーリオスの右手はすっかり人らしさを失い、代わりに黒い鉤(かぎ)爪(つめ)のある巨大な指を曲げ伸ばしする。

 フィーリオスの口が動き、影の声が話した。

「どうだ? 敗北の味は」

「私は、まだ負けてない」

「これを見ても、同じことが言えるかな?」

 そう言って足元をじっと見下ろす。私も追うように視線を向けた。辺りに漂っていた嫌な予感が、形をとってそこに横たわっていた。

「……クーガ。コクア……」

 呆然と名前を呼んだ。

 二人がうつ伏せに倒れている。これ以上近づく勇気が出ない。離れていても分かる。二人がもう動かないこと。生きていないことを悟りながら、それを認めたくなかった。

 一方で私は二人が死んだことを痛いほど理解した。二人の体が灰色に沈んで冷え切っていることを感じ取った。クーガの笑った顔、コクアの手の温かさ――もう戻らない生命。私も影に負けたら、ああやって冷え切ってしまうのだろうか。

 影が立ちすくむ私をせせら笑う。

「どうだ。これで分かったであろう? 死は恐ろしい。抗うからこのようなことになるのだ。この者たちも、我に従っていれば安息を得られたものを。

 お前はこれを見てもなお、我を追放して『外』に戻ろうなどと考えておるのか?

 とんでもない! 戻った世界は悲惨だぞ。現実はいつも暗く厳しい。それはお前もよく分かっているはずだ――。

 母親はお前を責めるぞ。なぜこんなことをしたのか。なぜ今までかけてきた愛情を裏切ったのかとな。お前は抱えてきた懸念をすべて話す必要に迫られる。母親を疑い、裏切ろうとしたことまですべて! これ以上母親を悲しませるのか? なんと罪深い。あまりに親不孝な仕打ちとは思わぬか。そして学校へ戻ればお前こそが好奇の的だ。誰もお前に近づこうとはしないだろう。皆が声を潜めてお前の噂をしているぞ。誰かが否定しようと意味はない。お前にはすべて分かってしまうのだから! 自分が批判されていると知っているのだから! お前はそれほどのことをしでかしたのだ!」

 ああ、そうかもしれない。「外」に戻ったら、またすべてのことが動き出す。学校のことまで深く考えられていなかった。みんな、私がやったことを知っているだろう。何もなかったように過ごすなんて嘘だ。嘘の中で生き続けるなんて辛すぎる。

「過ぎた時間は戻らない。やり直すことなど叶いはしない! それなのになぜ戻ろうとする? 自ら苦しみの中に飛び込んで、これ以上何を試みようというのか?」

 影は急に口調を和らげた。

「――だが、もう良いのだ。苦しみの時は終わろうとしている。我に従い、心を明け渡せ。お前があれほど望んでいた、平穏な眠りを与えてやろう。さあ、さあ」

 フィーリオスを包む闇色が揺らいで、手招きをするように波打つ。私を呼んでいる。私を、静かに休ませようとして。

――スズネ、息が止まってるよ。

 右手が震える。不意にクーガの声が思い出された。鮮烈に、鮮明に。

ゆっくり吐いて。ゆっくり吸って。

 そうだ。私は息を吸う。膨らむ肺を意識する。思考が暗い未来を危ぶまないように。それは、今考えることではないから。

 もう誰にも頼れない。私がやるしかないんだ。

 ぼんやりと、そして自然に、自分に対する責任が私の腑に落ちる。誰ももうそばにいなくても、みんなが教えてくれたことが、私を生かしてくれる。

 口を開いた。

「用があるのは、まだあなたじゃない。私はフィーリオスと話しに来たの」

「今さら悪あがきをするつもりか」

「フィーリオス」

 きっぱり呼ぶ。細い肩が揺れて、纏(まと)う雰囲気が変わった。フィーリオスがクーガとコクアを見下ろしていた。

「――あーあ。みんな死んじゃった」

 無邪気に見たままを述べたように、淡々と言う。一方でそれは責任の押しつけでもあった。これについて、自分は何も悪くない。悪いのはすべて私であると、私の非力を突きつけようとしている。

「そうだね。私たちだけだね」

 努めて落ち着いた声で応じた。

「もうすぐ、誰もいなくなるんだ。君も、ぼくも。ぼくはいつの間にかこんなに醜くなってしまった」

 そう言って鉤(かぎ)爪(づめ)の右手を持ち上げる。

「ぼくは醜い。だから誰からも愛してもらえない。見向きもされない。見られないから醜くなったのか、醜いから見られなくなったのか、どっちだと思う?」

「あなたは醜くなんてないよ」

「嘘だ」

 フィーリオスは自分の醜さを確信していた。いたわりの言葉を欲していたわけじゃない。

「ぼくは邪魔だ、間違ってばかりいる。ずっとそう言われてきたんだから、きっとそうなんだよね。授業を聞かなきゃいけないのに窓の外を見たくなる。勉強しなきゃいけないのに遊びに行きたくなる。いろんなことを習いたかったけど時間の無駄だ。ね、そうなんでしょ。こんなんじゃ駄目だ。ぼくは駄目な人間なんだ」

 黒い風の中で聞いた、無数の声を思い出す。お母さんに言われ続けた言葉。私はお母さんに従おうとして、言われたことをそのまま私自身に言い続けていたのか。

 鉤爪の手を握りしめる。爪が硬い皮膚に食い込むほど強く。

「駄目な人間は矯正されなきゃいけない。もっと効率的に生きられるように、幸せになれるように――機械みたいに。だからぼくはそうした。影の力を借りて、君のために君を矯正しようとした。それなのに、どうして君はぼくに従わないの?」

 フィーリオスが初めて顔を上げた。無邪気を装った問いかけとは裏腹に、私に向けられた深紅の目は深い憎悪をくすぶらせている。

 私は答えた。

「それは、私が間違っていたことに気づき始めたから。これは私のやり方じゃない。私の人生のはずなのに、私以外の誰かの言うことに従い続けるのはきっと違うんだよ。今までよく分かってなくて、だからこそ悩んできた。今なら、私は私のものじゃない努力をしていたことに気づいている」

「今さら方向転換なんて許さない。どうせ人はすぐには変われないんだ。君は先へ進んで、ぼくは古い考えの中に置いていかれる? 今まで君のために頑張ってきたことはすべて無駄で、いらないものだったなんて。ぼくはいらなかったなんて、ひどいよ」

 ゆらり。フィーリオスを包む闇色が怪しげに揺れる。その中にフィーリオスではない存在、影の怪しい笑みを見た気がする。

「……許さない。許さない許さない許さない。ぼくをなかったことにしようとするなんて……許すものか!」

 淀んだ空気が緩慢にかき乱される。フィーリオスが地を蹴り、鉤爪を振りかざして間合いを詰めた。振り下ろされた一撃を剣で弾く。

弾くだけ。私はフィーリオスをこれ以上傷つけない。自分に繰り返し言い聞かせた。

代わりに語りかける。

「フィーリオス。あなたは勘違いをしてる。あなたを置いていったりしない。今までとは違うやり方を――私たちが良いと思えるやり方を探そう。そのために力を貸して。影に吞み込まれたら、もう何も試せなくなってしまう」

「煩(うるさ)い! 今さら綺麗事を並べられても信じるものか。ぼくは何度も裏切られてきた。ほかならぬお前に! 裏切り者は死んでしまえ。眠ってしまえ。そしてお前も苦しみを――聞き入れられず、顧みられない苦しみを味わえ!」

 息もつけない打撃の連続。素早く近づいては離れるフィーリオスを追いきれない。私は確実に下がらされていた。

「そして懇願しろ、私が悪かったと泣き叫べ! ぼくはお前を許さない。自分の罪を永遠に悔やみ続けろ。罪の重さを知るがいい!」

 一振りが、ぶつけられる怒りが重い。

 フィーリオスは、君の「痛み」だよ。クーガの言葉を思い出す。私は今まで感じたかもしれない痛みに思いを馳せる。

 ゴミ袋の中で助けを求めたぬいぐるみ。

 泣き叫ぶお母さんを慰める義務。

 記憶の飛んだ数学のテスト。

 上手くいかない自分を責めた、数えきれない記憶。

 ひとつ思い出すと、次々に湧いてくる。心が時間を飛んで、傷ついた「その時」をまた体験する。思い出したぶんだけすべて繰り返す。何度も何度も何度も。

 そして忘れようとする。大したことではなかった。傷つく自分の方がおかしいんだと思いこもうとする。正面から受け止めつづけたら、傷つきすぎてしまうから。涙をこらえられなくなるから。

 泣くなんてみっともない。感情に振り回されるなんて、時間の無駄だ。

 それよりも、努力しなくちゃ。「幸せ」になれるように。お母さんのように「失敗」しないように――私は幸せにならなければならない。

 けれど、それは悲しみから目を逸らすこと。痛みを無視すること。無視した痛みが勝手に消えることなどなくて、むしろ私の心に強く深く残りつづける。フィーリオスの傷を深くする。フィーリオスはそれらすべてを背負って傷つき続けるしかなかった。

 私が、見向きもしなかったから。

 気づいた瞬間、こみ上げる寂寥せきりょうが心の境界を乗り越えた。

 すぐそばで息を呑む音。鉤爪を振りかざしたフィーリオスが、その手で私を切り裂く寸前で止まっていた。

 つながった。

 私は唐突に理解する。フィーリオスもたった今、私と同じことを悟ったのだ。

 見開いた目に浮かぶ素直な衝撃。大きな深紅の瞳に私の姿が映りこんで、まるで私が私に話しかけようとしているよう。

実際、最初からそうだったのだ。

「――ごめんなさい。許してと言う資格なんてないけど……ごめんなさい。

 私は大切にすべきものを間違っていたんだね。ずっとずっと間違い続けて、限界がきていたんだね。

 クーガも、暁も、そしてあなたも、私に別の道があることを伝えようとしてくれていた。今、ようやくそれが分かったよ。

 あなたが傷ついていたこと、私が傷ついていたこと、ぼろぼろになるまで、気づかなくてごめん。私、ちゃんと自分のことを大切にするから。もう無視したりしない。

 でも、ここまでひとりで頑張って、私を支えようとしてくれてありがとう。もう頑張らなくていいんだよ。もう私は私をひとりにしないから」

 ためらいながら白い頬に触れる。こわばって冷たいのは、きっと我慢しすぎてきたから。

 上手くできるか分からないけれど、クーガが私にしてくれたように、私もフィーリオスを支えられたら。

「息が止まってるよ。ゆっくり吸って。ゆっくり吐いて」

背中に腕を回して抱きしめる。

 

 

*

 

 

 肩越しに嗚咽が聞こえはじめた。

 

 

*

 

 

 なぐさめるように、感謝を伝えるように、こわばった背中をさする。少しずつ力が抜けていく。

 気づけば、嗚咽が二つになっていた。フィーリオスが私の背中を掴む。私もフィーリオスの上着をきつく握る。互いにしがみつくように、泣いた。

 よく似たふたつの泣き声が、庭園の上にのぼって弾けていく。響きが大きくなるほど体は軽くなっていく気がして、私たちは泣くために泣き続ける。

 フィーリオスの周囲で空気が揺らぎ、もがくように影が離れた。宿主を失いかけた影は、蜃気楼のように頼りない。

「我の計画が……。心のかげりが……」

 負け惜しみめいた言葉を吐く。おぼろげな姿でも逃げようとする。私たちがこれほど傷つくように仕向けておいて。

 怒りが腹の辺りで熱を持った。

剣を手に立ち上がる。私の心の動きは影に伝わり、影がいっそう縮まったように見えた。

怒りが口をついて出た。

「よくも今までフィーリオスを利用してくれたね。私の心は私だけのもの。あなたの居場所はない」

 剣を振り上げる。影は淀んだ空気を掻いて逃げようとする。私は何をすれば良いか分かっていた。

 刀身の真っ白な光が辺りを照らす。光を掲げた私はそれを振り下ろし、影を切り裂いた。

 光が影を浸食し、砕きながら消し去っていく。役目を終えた剣は空気に溶けて、光そのものに変わった。

広がる光が影を追い払い、さらに広がる。光がすべてを包みこむ。私を、フィーリオスを、庭園を、ディーバを。

 白に包まれた世界。永かった分離が終わって、すべてが微細な流動性を取り戻していく。元の姿に戻っていく――。

 光が晴れる。紫色の星空が私たちの上に広がっていた。

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