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蜃気楼的世界観16

 一連の出来事から、何年かが経った。

 私は電車に揺られている。

 車内は空いている。ラッシュの時間は終わって、この空間を共有している人たちには多少の余裕があるように見えた。もっと遅い時間に出勤するのだろう人や、お洒落をして友達や恋人と出かけるだろう人。穏やかに話す親子もいる。私は何をしに行く人に見えているんだろう。

 膝に抱えた鞄から、再び携帯を取り出してメールを読み返す。

 打ち合わせは午前十時、カフェ・ノアで。編集者さんから受け取ったメールが嬉しすぎて、未だにちょっと信じられていない。

「一度顔を合わせて、打ち合わせさせていただけませんでしょうか」

 受信履歴をさかのぼり、最初の方のメールを読み返す。その打ち合わせの日というのが今日で、私は打ち合わせ場所に向かっているというのに、実感は家に置いてきてしまったみたいだった。

 緊張を紛らわそうとして車窓を眺める。

 

 調べておいた駅で下りた。ここで下りるのは初めてだ。ホームに下りたのは私だけで、電車はすぐに次の駅を目指して走りだす。

 人生みたいだと思った。

 みんなが同じ空間を共有するけれど、終着駅までずっと一緒とは限らない。途中で下りる人、新たに乗ってくる人がいて、別の路線に乗り換える人も、のんびり歩きはじめる人もいる。

 目指すところは人それぞれ違うから、辿り着く結果も違っていて。でもそれは不幸でも幸せでもなく、捉え方は私が決めることで――。

 頭上で鷹の泣き声がした。

 思わず空を振り仰ぐ。鷹の姿を探してしまう。空飛ぶ姿はホームの屋根に隠れて見つけられなかったし、あの鷹は私が知る言葉で話してもいなかった。懐かしさがせきを切ったように溢れだし、私は自分を慰めるようにちょっと笑う。

 改札に向けて階段を下りはじめた。

 世界はディーバからの『しるし』にあふれている。

 私は鳥のさえずりに、風に揺れる葉擦れの音に、時折蘇る手の感触に、ディーバの気配を感じとる。あそこで私が見つけたことを思い出す。おかげで私は自信をなくしきってしまうこともなく、毎日生きることを続けられている。

 けれど、寂しくもあった。

 私の心の中に、コクアは住んでいないからだ。

 あの少し不思議な体験を共有した人。彼らの中で、唯一この「外」に生きている人。コクアとなら、私の経験した出来事を完全に共有し合うことができる。他の人は「美しい話だ」と言うばかりで、心と「外」の話を現実のものとして受け入れることは難しいらしい。

 物語として扱われ続けるうちに、本当に架空のものになってしまう気がする。私だけが持つ記憶は、時々ひどく頼りない。

 いつか私も忘れ去って、彼らのことを空想の中に置き去りにしてしまうんじゃないだろうか……。

消したくない。薄れさせたくない。

 私は共有できる人を求めていた。

「外」に戻ったコクアは、どこで何をしているんだろう。そもそも同じ国に住んでいるんだろうか。コクアとは本名だったのか?

 手がかりが少なすぎて、探しようがない。

 暁の言葉を覚えている。心の声に従って生きれば、その先にコクアがいる。信じてここまでやってきたつもりだ。でも、いつまで待ち続ければ良い? この問いに立ち返るたびに、延々と待ちぼうけを食っている気がして焦るのだった。

 改札を抜けて駅前へ出る。事前に調べていたから、待ち合わせ場所のカフェ・ノアはすぐに見つかった。入口に佇む木のドアは、まるで森の大木をそのまま持ってきたかのような風合いがある。ドアのガラス越しに、のれんのようにかけられたカラフルな布が見えた。

――マザー、ただいま。

あの日差しを、風景を思い出して心が揺れる。記憶が目の前の景色と奇妙に重なる。目覚めた後からの癖で、右手を見つめて指を握った。三人が重ねた手の気配を探る。

 重い木のドアを押し開けて中に入る。いらっしゃいませ。出迎えてくれた店員はカラフルな民族衣装を着ていた。店内は植物に囲まれていて、まるで本当に森の中だ。待ち合わせであることを告げると、その声が聞こえたのだろう。奥の席に座っていた男の人が立ち上がるのが見えた。

「若宮鈴音さんですね。初めまして。国田有人こくたありとと申します」

 近づいてきたその人は、両手でちんまりと名刺を差し出す。筋肉質の大きい体と名刺の小ささが対比されておもしろい。心のどこかが、ふっと緩む感じ。

とはいえ無邪気に面白がっているのは私の一部に過ぎず、大部分ではものすごく緊張していた。ぎこちない動作で名刺を受けとり「よろしくお願いします……」と一礼するので精一杯だ。

 国田さんと一緒に奥の席に収まる。テーブルに広げられていたメニューを差し出された。

「好きなの頼めよ。おごるから」

「あっ……はい、どうも」

 いきなりタメ口か。距離感をはかりかねて歯切れの悪い返事になった。メニューをざっと見回し、お言葉に甘えてポットのハーブティーを頼む。国田さんは無難にアイスコーヒーにしていた。

注文し終えてしまうとしばしの無言が訪れて、私は気を落ち着かせようと店内の観察を始める。

このお店はどちらかというと小さい方で、ざっと見渡した席数は十五ほど。頭上に張り巡らされたツル植物が緩やかに周囲の視線を遮っていることや、そもそも他のお客さんが少ないこともあり、流れている民族的なBGMがはっきり聞こえた。

 初めて来るのに、やっぱりどこか懐かしい。

国田さんが居住まいを正す。

「やー、それにしても、久しぶりだな鈴音。まさかここで会えるとはな」

「え?」

 予想外の言葉が飛んできて面食らった。緊張もしばし忘れて国田さんの顔を凝視する。一方の国田さんは、むしろその反応に驚いたようだった。

「えっ、鈴音。もしかして、気づいてなかったのか?」

「あっ……」

 鈴音。その呼び方、声の調子が記憶の鐘を叩く。まさか。あまりに急なことで信じられない。

 Tシャツにジャケットを羽織った、オフィスカジュアルとでも呼べそうな服装の国田さん。肩幅が広く体が大きくて、明るい茶色の目は澄んでいた。

 服装こそ違うけれど、この森に似た空間の中ではすぐ思い浮かべられる。この人が民族衣装めいた服を着ていた時、なんという名前だったか。

「……コクア?」

「ほんとに気づいてなかったのか。ほら、見ろよ」

 コクアは苦笑して、私がテーブルの端に出していた、自分の名刺を真ん中に滑らせて指でつつく。

国田こくた有人ありと。名字と名前、それぞれ上の字だけ読んでみろ」

「あ……コクアだ」

「だろ。あと、『コクア』にはハワイ語で『サポート』とか『手助け』って意味があるんだ。俺はサポート役だったからな、ぴったりだろ」

 そう言ってニッと笑う。私が覚えているのと何も変わらない。コクアだ。コクアが目の前にいる。

 コクアが話すたび、声が耳に届くたび、これが今実際に起こっていることなんだと思い知る。もう思い出に頼らなくていい。どこにいるのか思い悩まなくて良い。私はまたコクアに、ディーバを共有できる人に会えたんだ。

 何度も押し寄せる実感が嬉しくて嬉しくて、気づいたら涙があふれて止まらない。コクアは小ぶりなテーブル越しに身を乗り出して、私の頭を優しく撫でる。

「おおー。どうしたどうした? 俺の方がびっくりしちまうぞ」

「ご、ごめん……。嬉しくて。すごく」

 くしゃくしゃの顔で笑った。

 飲み物が運ばれてきて、一度会話を中断する。店員さんがグラスを置く間も、私はコクアから目が離せなかった。

 洋服を着たコクアは、なんだかちぐはぐな感じに見える。でも、これが今のコクアなんだ。私のイメージが及ばないということは、つまりコクアが現実として目の前にいることの表れ。最初の衝撃が過ぎ去って、遅れて満ち足りた気持ちになってきた。

 私たちはこれまでの話をした。

「俺、将来の夢とか全然なくてさ。大学の頃になんとなく始めた出版社のバイトが、めちゃくちゃ面白くて。二年くらい続けて、そのまま入社したんだ。

 今回、初めて担当編集を任せてもらえることになって。渡された原稿を見たら……。すぐ誰だか分かったよ」

 私の原稿が入っているんだろう、傍らに置いた鞄にそっと触れる。私に向けられた優しい笑みが、こらえきれなかったように照れ臭そうなものに変わった。

「それにしてもさあ。腐れ縁ってそのまま書くなよ。気恥ずかしいだろ」

「良いじゃん。私は気に入ってるんだよ」

 ひとしきり笑いあう。コクアはアイスコーヒーを口に運んで、「で、鈴音は何してた? あのあと」と尋ねる。

 いざ話すとなるとどきどきした。

 みんなと別れてからの数年間が、早送りのように脳内を駆けめぐる。私はコクアとまた会えて、離れていた間の空白を埋めようとしている。今まで以上にクーガたちが近くにいるように感じた。目には見えないフィーリオスの両手が、私の背中をとんと押す。

 口を開いた。

「……あのあと、病院で目を覚まして。しばらく休んでから、学校にも戻ったの。誰も、何も言わなかった。まるで何もなかったみたいに。影の言葉は、本当に脅しだったんだね。みんなは、現実は、私が心配するよりもずっと優しかったの。

 休んでいる間に、いろんなことをした。私が昔やりたいと思って、知らないうちに押さえつけていたこと。絵を描いて、縫い物をして、ゲームして、ぼんやりした。何もしない日だって作った。

 そうやって『やりたい』と思ったものを手あたり次第に消化していたらね、分かったことがあるの。

 私は書くことが好きだったんだって。

 部屋の押し入れを片づけた時、小さいころに使ってたスケッチブックが出てきたの。引越しの時に捨てられたと思ってたんだけど、他のものに紛れてたんだね。

中には私が描いた絵と、文字のつもりの黒い線がたくさん書いてあった。スケッチブック一冊を、絵本のつもりにしていたの。花と妖精の話だった。まだ、お父さんがいた頃。

 物語を書いて、それを本の形にするのが好きだったの。私の思い浮かべたことが、形になるのが楽しいっていうか。誰に言われたわけでもなかった、つまり本当に、私の好きなことだったんだよ。

 その時に分かったんだ。私が一番やりたかったのはこれだった、本を書くことだったんだって。

 それからはもう、書くことにまっしぐら。文学部に行くことにしたの。お母さんにはすごいわめかれたけど……」

 

 あれは、確か三年生になってからの三者面談の日だった。

 机を挟んで向かいあった先生が、私が提出した進路希望調査を見下ろして話す。

「鈴音さんは、○○大学の文学部を希望とのことですね」

「えっ」

 お母さんが怪訝そうな声を出す。疑わしい目が私に向いたけれど、私は気づかないふりをした。

「はい」

「偏差値とスズネさんの成績のバランスも良いですし、このまま頑張っていけばあまり心配することもないと思いますよ」

「ありがとうございます」

 面談を終えた帰り道、駐車場に向かう途中でお母さんに腕を掴まれた。

「ちょっと鈴音どういうこと!? どうして勝手に大学決めてるのよ。しかも、あんな無名なところ。もっと偏差値の高いところだって狙えるでしょ」

 掴んだ手に力がこもる。ブレザー越しにも爪が食い込んでくる。それでも私は平然としていられた。

 無意識にお母さんを怖がってしまう私を、「そのままでいいよ。あなたは間違ってないよ」と心の中で落ち着かせてあげる。自分で自分を支えて強くする。

 そうすれば、もう怖くない。

「だって、そこに行きたいと思ったから。芸術系の大学としては、けっこう有名な学校なんだよ? 図書館は大きいし、文学史から執筆の助言まで、すごく広い範囲のことが勉強できるんだって。夏休みにオープンキャンパス行ってくるね」

「そういうことを聞いてるんじゃないのよ! どうしてあたしが勧めた大学に行かないの!? どうして希望のひとつにも入ってないの! あたしはあなたの幸せのためにやってるのに。これが愛情だって分からないの!?」

「うん。分からない」

 お母さんが喚くから、周りで部活をしている子たちが何事かと気にしている。いつもなら「目立つことは恥ずかしい」と言うのはお母さんの方なのに。

 私は言い聞かせるように口を開いた。

「お母さん。私ね、本を書く人になりたいの。書く人を目指すことが、書くことで生きていくことが、私の幸せ。良い大学にも、良い会社にも入らなくて良いよ。それよりも、私は書くことの方が幸せだから」

「はあ!? どうして今更、そんなこと。もうわけが分からない。あなた、本当に鈴音なの?

……あなた変わってしまったわ。きっと頭を打ったからおかしくなってしまったのね。あなた変よ。昔の、素直で良い子な鈴音はどこに行ったの」

 掴んだ腕を激しく振られる。両手ですがりつくように。お母さんは過去にしがみついて、変わっていこうとする私を引き留める。

「ごめんね、お母さん」

 本当に申し訳なかった。お母さんに勘違いさせてしまったこと。

「もうお母さんの期待に沿って生きることはできないよ。……本当は、ずっと無理していたの。良い大学、良い会社は、お母さんが考える幸せ。私の幸せとは違う。私はお母さんの考え方を尊重するよ。尊重した上で、自分のやり方を選ぶ」

 お母さんの声が一段低くなる。

「……失敗するわよ。上手くはずなんてない」

 私を連れ戻したいゆえの脅迫。怒りに燃える涙を溜めた目が、影に動かされたフィーリオスと重なった。

 お母さんも、お母さんの影にとらわれているのかな。

「それで幸せになるなんて許せない。あたしは認めない。絶対認めない! 応援なんてしないから。こんなに反抗的な娘を持って恥ずかしい。どうしようもなくなってから泣きついてきても、助けてあげないんだから」

「うん、それでいいよ」

 じゃあ、私は自転車で帰るね。

 車に乗せてもらうつもりだったのを断って、ひとりで駐輪場に進路を変える。私を引き留めようとしたお母さんの手はすでに力を失っていて、振り払うのに大した力もいらなかった。

 毎日繰り返される悪態に耐え、私は卒業と同時に一人暮らしを始めた。

「……うわぁ。……って、悪い。他人ひとの親のことを」

「大丈夫」

 そう言ってあははと笑う。率直だけど、配慮も忘れないコクアが可愛らしい。コクアは続きも聞きたがった。

「で、大学はどうだったんだ?」

「ちゃんと第一志望の文学部に入れたよ。地元からも離れられて、丁度良かったかも。借りた部屋がまた可愛くてさ。今もそのまま住んでるんだ。大学では、友達もたくさんできたの。今でも時々会って、映画を観たりカフェめぐりしたり、一緒に書いたりとかしてる」

「うん、良いじゃねえか」

今思えば、不思議なことばかりだった。

「振り返ると、どうして自分があんなに委縮していたのか分からなくなるよ。お母さんと離れて暮らすようになって、いろんな人と話をするようになったら、やっぱり普通じゃなかったのかなって思うから。きっと、今でも応援はしてないんじゃないかな。特に連絡も取り合わないしね。

 でも、もう良いんだ。私はお母さんの期待に応えることをやめた。同時に、私もお母さんに期待することをやめたの。分かってほしいとか、応援して欲しいって思うことを。

 もちろん、応援してもらえることが、支えてもらえるような夢を持つことが『幸せな家族』の形なのかもしれない。でも、家族だから、親子だからって、子どもは親のクローンじゃない。コクアがそう教えてくれたよね。家族だけど、まるきり違う人間なんだって。分かり合うために話し合い続けることが、必ず幸せをもたらすとは限らない。だから私は自分の時間を、理解を得るためじゃなくて、私のやりたいことをやるために使うって決めたの。

 ……一部には、私のやり方は親不孝だとか、育ててもらった恩を返すべきだとか言ってくる人もいる。気持ちが落ちこんでる時は、確かにその通りで、私はとんでもなく悪い人間なんじゃないかって思う時もある。そういう時は、クーガたちや、コクアが言ってくれたことを思い出すようにしてたんだ。結局『すべき』『ねばならない』って、全部誰かの期待でしょ。全部に従っていたら、自分のやりたいことは埋もれて分からなくなる。自分のための人生を、自分の意志なく削られてしまう。だから、何を取り入れて、何を選ばないかは私が決める。そう思って割り切って、少しずつ気にしないようになってきた。これはまだ練習中なんだけどね」

「うんうん」

 コクアは鷹揚に頷いた。

「鈴音、前よりずっと明るい顔してるもんな。今の方が鈴音、その……可愛いよ」

「ありがとう」

 コクアが照れ臭そうに首の後ろに手をやる。あ、覚えてるままの動きだ。

「――さて。じゃあ鈴音の輝かしい未来のために、作品の話をしようか」

 軽く手を叩いて気持ちを切り替える。コクアはいよいよ鞄を探り、丁寧に原稿の束を取り出した。

 コクアの口から語られる、これから先に待つたくさんの素晴らしいこと。聞くだけでわくわくして、私たちはハーブティーが冷めるのも、アイスコーヒーのグラスが汗をかいていくのも忘れて話しこんでしまう。

 私は満ち足りていた。幸せだった。クーガが、暁が、私が私に伝えようとしていたのはきっとこれなんだ。

 思い出したよ。

 

 私たちの間では、『蜃気楼的世界観』と題を付された原稿の束が、店内の淡い明かりに照らされて輝いていた。

 

 

 

終わり

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